ルカ6章20-26節「イエスの幸いを生きる」

hanafusafukuin

ルカ6章20-26節「イエスの幸いを生きる」2008年9月10日シスターの黙想会 鎌倉

6:20 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。
6:21 今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。
6:22 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。
6:23 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
6:24 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。
6:25 今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。
6:26 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

今日のルカ福音書、まあ、有名なところですが、四つの幸いと四つの不幸をイエス様が述べている箇所です。ここを見ると、一番心を打たれるのは、イエス様がどれだけ貧しい人々とともにおられたか、貧しい人、あるいは飢えている人、泣いている人、その人たちの側に、いかにイエス様が立っておられるのか、という、徹底したイエス様の態度、ですね、心の置き場所、というふうに思います。

多くの人と…多くの人と言ったらちょっとオーバーかもしれないけれど、やはり、まあ、司祭をやっているので、いろいろな人が悩みを相談しに来たりするわけですが、多くの人は、貧しさ、いろんな意味での飢え、泣かなければならない状況とかですね、あるいは人々の、憎まれる、と言ったらオーバーかもしれないけれど、人間関係がうまくいかない。そのような苦しみで、多くの人が苦しんでいるのはまちがいない、そして、その苦しみから逃れることができないわけですね、一旦そのような苦しみにとらわれたら。知り合いで、ワーキングプアみたいな若者がいて、職場でどんなに苦しいか、辛いか、そういう話を聞くたびに、やるせない気持ちになることが多いですが、イエス様がその多くの人々の立場に立っているからこそ、今日の福音書が、やはり意味があるんだと思うんですね、貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものだ、という、イエス様がいるからこそ、あるいはイエス様の恵みを感じるからこそ、貧しい人々が幸いを見ることができる。心の飢え、また実際上、食べ物がない飢え、まあ、さまざまな飢えがあるでしょうが、イエス様の恵みに触れてこそ、この飢えから満たされる、そのような幸いに預かっていける、そのようなチャンネルが私たちに開かれている、それこそまさに福音だと思います。キリスト教の、おそらく最大のお恵みはイエス様の復活と、そして私たちに聖霊が与えられているということですが、それらすべて、この世の幸せと、ま、実際上ほとんどリンクしていない。貧しさの中で苦しさの中で主の復活に出会って、あるいは聖霊をいただいて、慰めや、力や、そしてこの、幸いということを得ることができるんだろうと思います。イエス様がいなければ、貧しい人々は不幸のままだし、飢えている人々はやはり不幸のままだと思いますね。でも、イエス様が貧しい人の側に立たれて、その人々のために命を捧げて、そして貧しい人のために復活されたからこそ、私たちは幸いである、ということがいえる。だからこそ、私自身司祭として苦しんでる人の悩みを聞いた時に、アドバイスをしたり、共に祈ったりすることができる。で、すぐではないですけど、多くの人は、ま、1年2年かかることも多いですけど、やはり少しずつキリストに触れて、神の恵みに触れて生活が少しずつ変わっていく、ということは、多くの人々にとって事実だと思いますね。この事実を私たちがかみしめるとともに、私たちもこのイエスに従っていく気持ちを新たにしなければならないだろうと思いますね。
私たちがイエスに従っていくのは、単なる満腹とか、単なる笑ってるとか、単に自分が富んでるとか、そいうことのために私たちはイエスに従っているわけではないわけですね、むしろ、ただそのように、自分のために富んでる、自分のために満腹している、自分のために笑っているような人々は不幸だと、イエス様が断言されてるわけですね、この後半部分を私たちは重く受け止めなければならないのだろうと思います。アビラのテレジアが言うんですが、ある小さな作品の中で、カルメル会のシスターが私のところに来て、最近は心が平安で、落ち着いています、とか、喜んでいますとか、そういうこと言うシスターが来たら、叱りつけます、と言ってるんです。カルメル会のシスターというのは生涯戦いの日々である、というんですね。単に心が平安だとか、落ち着いてるとか、のんびりした落ち着いた日々がすごせるとか、そんなことは信じられない、と言ってるんですよね。一生涯イエスに従っていく、それはイエス様の貧しさとか苦しみに一生涯従っていく覚悟がなければカルメル会のシスターとはいえないと断言しているんですが、それは私たちひとりひとりにも言えることだと思います。小さな幸せとか、小さな安定とか、最近生活がそれなりに落ち着いていまして、みたいなことを、確かに私たちクリスチャンが言う必要性がないと思います。それが目標ではないわけです、私たちの生活の。イエス様とともに、どこまでいっても人々に、あるいは貧しさのうちに、場合によってははずかしめられたりしながら、神の愛を宣べ伝えて行く、あるいはそのような生き方に自分を投げ込んでいかなければならない、そのような繰り返しの中でしか、私たちの生活の意味というのはないと思います。当然神様から深い平安が与えられるし、慰めが与えられるので、それを拒む必要性はなくて、いただくものは全部いただくことが必要だと思いますが、でも、私たちの方向性は、イエスが目指しているもの、イエスが生涯をかけて、十字架にかかってまで、そして復活してまで成し遂げたいと思っておられる思いを、やはり、祈りの中においても、日々の生活においても、精一杯、死ぬまでですね、生涯をかけて貫き通さなければならない。それははっきりしてると思いますね。だから復活した主は遣わすわけです、私たちを。復活してよかったねということではなくて、復活した主に出会うからこそ、全世界の人々に行って福音を告げよというですね、まあ、そこから新たな展開が、でも、それは苦難に満ちたものであることは間違いないわけですが、私たちの霊的生活というのは、こう…動的と、いうのかな、やっぱり、止まって、このあたりでぼちぼちやりましょう、とか、というところをやはり超えていかなければならないものでもあるだろうと思います。ただ、もちろん、ひとりひとり状況も違うので、別に、なんというか、活動しなければならないという意味ではないと思いますよね。心がけの問題ですから。イエス様とともにどれだけ日々の生活を徹底的に、100パーセント、歩んで行く、そういう決心と、そういう思いで一日一日を過ごすことができるかどうか、だと思います。だから、少々苦しいとか、調子が悪いとか、うまくいかないとか、ということでひっかかる必要性はないということですね。それは、もう、あたりまえだということで。でも、イエスとともに苦難を背負いながら、本当に大事なものを一生涯貫いていけるかどうか、そこに、私たちの生きている価値というか、意味があるんだろうと思います。この、貧しい人は幸いである、と言われたイエス様の心を私たち自身も、自分自身の貧しさや、自分自身の生き方を通して貫いて、その、幸いだ、ということを本当の意味で、全身全霊で幸いを生きていくことができるように、あらためて祈りたいと思います。

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