テキスト版 ルカ福音書6章27-38節「愛を生きるということ」

ルカ福音書6章27-38節「愛を生きるということ」
hanafusafukuin

ルカ福音書6章27-38節「愛を生きるということ」2008年9月11日シスターの黙想会、鎌倉

6:27 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。
6:28 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。
6:29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。
6:30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。
6:31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
6:32 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。
6:33 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。
6:34 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。
6:35 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。
6:36 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
6:37 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。
6:38 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

神様の憐み深さを生きるために

今日の福音書は、私たちが憐み深く生きることを主が私たちに望んでおられる、あなた方の父が憐み深いように、あなた方も憐み深い者となりなさい。結局のところ、私たちクリスチャンが目指すべき、日々実践すべき行いは、この、憐み深い者になる、という一点に集約されるものではないかという気がします。この憐み深さを、特に神様の憐み深さを、こういう黙想会で、多少なりとも黙想されたと思われますが、その憐み深さを、日々の生活の中で生きていくように私たちは努めなければならないというふうに思います。

神様の憐み深さは、まあ、それこそそ、底知れないものがやはりある。悪口を言う者に祝福を祈り、あなた方を侮辱する者のために祈りなさいと。あなたの頬を打つ者にはもう一方の頬を向けなさい、上着を奪う者には下着をも拒んではならない。結局これはイエス様のなさったことだ、と思います。イエス様が憐み深いからこそ私たちも憐み深く生きていくようにと、そういう、こう、徹底した姿を私たちに問いかけてるんだと思います。

私たちの証は?

日本の社会では、まだまだクリスチャンは少ないですが、やはりクリスチャンの評判というものが、この、愛深いものである、といこと、結局それを私たちが、どれだけ証ししていけるか、この、愛の無い日本の社会においてですね、それが私たちの一番大事な使命じゃないかなというふうに思います。

信者じゃない、まったくキリスト教と関係ない人と時々つきあったりすることがありますが、その、たとえばシスターとか、神父さんとか、とんでもない世間知らずで、もう、まったく世間とは関係なく生きてると…煙草は吸わないし、お酒も飲まないし、世間的な話をまったくしない、清廉潔白みたいなイメージで思っている人がいっぱいいてですね、驚くぐらい、イメージが、硬い。硬物というイメージで、見ている…まったく知らない人ですね、ちょっと知ってるいる人はそうでもないですけど、まったく知らない人に会うと、よっぽど、お固くまじめに生きてるというイメージが固定観念であるようですけれども、別にそれ自身がいいとも悪いともいえない。まじめな方もおられるし、ちょっと柔らかい方も、神父さんの中にはおられるわけです。でも、そういうイメージが、なんというか、多分、その、一番の根っこに、普通の日本人の中に植え付けられているような気がしますね。それはちょっと、ある意味で残念なことであるというか、つまり、それはキリスト教の本質ではないので。

愛の人としての証を立てる

やはりクリスチャンだとか、神父さんだとか、シスターだとか、ということイコール「愛の人」だ、という、そんなイメージが、ほんとの意味でクリスチャンじゃない人に植えつけられてなければ、ほんとの意味で、なんというか、こう、私たちの証しが足らない。その、まじめで世間知らずだというイメージは、たとえばマンガだとか、そういう所でそういう人たちが、ちょっと面白おかしく出てきたりとかですね…でも、それは本質的なことじゃないと思います。本当にクリスチャンだといえば、「愛の人」、愛をほんとに実践している人だということが、全然クリスチャンを知らない人であっても、そのようなイメージが、もし、皆にあるならば、それこそ私たちの宣教というか、生き方が成功している印じゃないかなと思います。どこまで愛を、私たちが日々の生活で生きてるか、それを改めてやはり問いかけなければならないし、結局毎日毎日、問われてるのは、そういうことだと思いますね。別にそれはクリスチャンだけでなしに、やはり日本人の気質として、真面目だということは明らかだと思いますね。他の民族と比べて。真面目だし、与えられてる任務を忠実にするという人たちはずっと多い。だから、それだけだと、なんというか、クリスチャンの輝きが足らない。プラス…忠実に熱心に与えられてることを真面目にこなす、というですね、日本人の持ってる特質は、美徳というか、僕は素晴らしいと思いますが、おそらくクリスチャンでなくてもそうなんですよね。そのようにしている人は世の中にいっぱいいるわけで、だからこそ、私たちがそれプラス、そこに、その、愛の心がどれだけこもっているか、愛の心をどれだけ生きてるか、しかも具体的な、日々の様々な場面で、ということだと思いますが、それをほんとの意味で生きていけるような恵みを願いたいと思います。

愛の原則

それと、もうひとこと、第一朗読で、コリントの教会への手紙の話が出てくるのですが、これもやはり愛の話ですね。コリントの町での問題は、偶像に供えられた肉が市場に出まわってたわけですね。というか、その、アフロデーテの神殿だか、まあ、ユダヤ教もそうですが、結局、お肉というのは貴重品であって、それは全部神殿で捧げられる供え物のわけですよね。で、お供え物になったものが、祭司が必要なものを取ったら、あとは、それが市場にまわってきて、皆がお金を出して買うようなかたちになってたわけで、だから異教の町に行けば、偶像に供えられた肉ばっかりだったわけです。その中で、偶像に供えられた肉を食べていいかどうかが、コリントの教会のひとつの問題だったのです。

自由と愛の原則とーパウロの結論

それで、パウロに手紙を書いて、どうしたらいいですか、という、その返答の部分が今日のところで、8章なんですが、パウロは結局ふたつの原則なんですね、それはやはり、自由と愛の原則を言っている。ひとつはなにかというと、偶像なんか、無いと。まあ、よく読んでいただいたらいいんですけど、唯一の神以外、他の神様はいない。だから、偶像に供えられたから、それで肉がけがれるとか、そんなことはない、と。だから私たちは、どんな肉だって食べていいんだ、ということをパウロは言うわけです。

しかしながら、この知識が誰にでもあるわけではない、と。だから、ある人々は今までの偶像になじんできた習慣に囚われて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いためにけがされるという…、どこかにお呼ばれして、どこかの家に訪ねて行って、食事の時にお肉の料理が出てきたら、あっ、と思って、偶像に供えられた肉かどうかとか、すごく心配になったりとか、いろいろする人がいて、そういう、ある意味では真面目人間だと思うんですけど、けれども、パウロはそういう人を良心の弱い人々だと言うんです。で、パウロの第二原則は、食物のことが私の兄弟たちをつまづかせるくらいなら、兄弟をつまづかせないために、私は今後けして肉を口にしません、と。

だから、周りの弱い人のことを考えて、偶像に供えられた肉を食べたら穢れるんじゃないかと心配する人々がいる以上、自分も肉を食べない、というのが彼の結論なんですね。愛の原則なんです。

もともと自由な気持ちで、すべてにおいて自由な気持ちがあるけれども、やはり、弱い人に合わせて、自分は弱い人に合わせる、という、愛の原則が二番目に来る。それを言ってるんですけど、私たちの生活上の問題は、結局はこういう具体的なことですよね。偶像に供えられた肉を食べるとか、食べないとか、食事がどうの、こうの、とか、部屋の片づけ方がどうのこうの、とか、まあ、わからないですけど…結局はそういう小さなことなんですよね。それが問題になって、お互いどうするかとか、こうするか、とか。抽象的なことではそんなに議論にならない。具体的なことだと思いますが…でも、パウロの原則は非常にはっきりしている。自由な気持ちで愛を生きていく、という。弱い人や、人々がつまづかせるポイントをつまづかせない生き方をする、とパウロは言ってるわけです。

愛を生きる生き方のポイント

これは愛を生きる生き方の非常に大事な点だと思います。だから、律法で一を裁くことは絶対にしないわけですよね。律法がこうだから、こうすべきで、あんたたちは皆従いなさい、とか、そういう乱暴なことを言うわけではない。自由な心から、愛をもって、その場その場の問題を決めていく。このような箇所が残っていること自身が、なにか、参考になるような気がしますが、もちろん私たちの問題は偶像に供えられた肉ではないですが、私たちがこのような、自由に基づいた、それは神様の心に基づいて、本当の意味で、日々の生活の具体的なことで愛を実践していける、そのような恵みを願たいと思います。

そこにおいてこそ、祈りの恵みとか、私たちが黙想している意味、価値、ですね、実りとか、そういうところにあると思います。そのような愛に生きることができるように祈りたいと思います。

記事URLをコピーしました