ルカ福音書17章7-10節「主に仕えるということ」

hanafusafukuin

2008年11月11日 ルカ福音書17章7-10節「主に仕えるということ」シスターの黙想会、大阪

17:7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。
17:8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。
17:9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。
17:10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

今日の福音書はルカの17章のところですが、今日の箇所は、神様の視点というんですかね、神の恵みから物事を見るというより、私たちが神様に向かっていく態度というか、どのような心掛けで、というようなことを問うているお話だと思います。しもべは、昼間は畑を耕したり羊飼っ
たりして働く。帰ってきたら、食事の用意をして、主人の食事の給仕をするという、ですね。まあ、そのようなことをしなさい、と言っているわけですね。たしかに、これは非常に大事なことではないかという気がします。私たちが神様に向かう態度は、やはり徹底的に仕えるということに尽きてるということだと思います。この、畑を耕すか、羊を飼うか、私たちは仕事を通して、活動を通して主に仕えているわけですが、私たちが仕えるということは、ただ、仕事をしたり、与えられた役割を果たすということだけではなくてですね、主の傍で、この場合は主の食事の準備と給仕をする、というですね、やはり神様の交わりそのものにおいても、私たちは仕える態度を、やはり徹底的にもっていくという、その重要性を説いてるように思います。

この、食事の給仕をするということは、ほんとに主人のすぐ傍でお仕えするということで、これもひとつのメタファーだと思います。いろいろな解釈ができると思いますが、やはり内的な態度であるし、私たちの祈りの心そのものを現わしてるんじゃないかと思いますね。私たちは、神様の活動を、というか、与えられた仕事を果たしていればそれでOKかといえばそういうことだけではない。私たちは、ミサにおいても祈りにおいても、ほんとに主の傍で仕えていく、多分、給仕をしながら…まあ、結局、この主人というのはイエス様になるんですが、イエス様の傍で、イエス様が食事をしているならば、やはり、ほんとの意味でイエス様と話も弾むでしょうし、直々に仕えていくような、そのような心がけが私たちにも必要だと思いますね。仕事とか、与えられたことをやっていればそれで私たちの修道者としての生き方があるかといえば、当然そんなことはないわけで、祈りにおいて、そして内的態度において、どれだけイエス様に仕えていけるか、しかも徹底的にですね、祈りにおいても、徹底的に、イエス様に仕える態度があるかどうか。それはほんとに、特に私たちにとって大切なこじゃないかと思います。修道生活というのは、仕事をすればいいというのとはまったくちがうわけで、もちろん与えられた仕事はしなければならないですが、やはり、イエス様の傍で、イエス様にほんとに仕えていく、そのような内的な態度、心掛けがあるかどうかですね。実際的な祈りの時間もそうでしょうし、仕事をしながらでもイエス様に仕えていく。そのような心掛けが、非常に大事ではないかというふうに思います。の、188名の殉教者の列福式が目前にひかえているわけですが、彼らのいろいろな記事とか読んで思うのは、キリシタンとして、信者の先輩としてほんとにすばらしいと思いますが、やはり日本人の信者だと思う面はすごくありますね。当時は戦国時代が終わるくらいの、(188殉教者の)みんなじゃないですけど、多くの人が武士であったり、武士の奥さんであったり、という人が多かったわけですが、ほんとうになんて言うんですか、こう、言葉で言えば、武士道というか、侍の魂というでというんですか、あるいは、その奥さんたちは、そういう言葉がいいのかどうかわからないんですが、大和撫子というか、ほんとに、「仕える」ということに徹底しているという気がしますね。現代は残念ながら、侍文化とか、武士道とか、実際ほとんど滅んでますけれども、「仕える」という
ことがほとんどもうあんまり無い時代になってしまったので、まあどっちかっていえば、自分が生き生きと生きていければいい、という時代になったわけで、人に仕えるということは実際上、表面的な文化から消えつつあるという気がしますが、まあ、民主主義の世の中になったので、そのようなことが弱くなっていますが、実際上、私たちはイエス様に対しては、武士道の気持ちというのは本当に、誰に仕えるのか、ということがですね、ものすごくはっきりしているし、この世に仕えてるわじゃなくてイエス様に徹底的に仕えてる。その生き方は見事だと思いますね
。それが私たち日本人の、信仰者の血に流れてるということはやはり思いますね。しかも、それは殉教者であっても、私たちもそうですが、別に食事の世話だけに仕えてるわけじゃなくて、結局イエス様が受難ー苦しみを…私たちの主人であるイエス様が、受難の苦しみをしていく、そこまで私たちは仕えなければならない。食事の世話くらいどおってことないわけですよね。もっとわたしたちは徹底的に、イエス様の苦しみや受難や、そういうところまで私たちは仕えなければならないのは当然ですね。12人の弟子たちは残念ながらそこまで仕えられなかったわけで、食事くらい一緒にしたでしょうけど、十字架になったら怖くなって逃げちゃったわけで、まあ、もちろん日本人の信者の中にも、いわゆる、ころんでしまった人がいっぱいいるでしょうが、でも、やはり仕えるというのは命懸け、時分の命をやはり、かけて仕えていくものであって、それはイエス様の苦しみにまで仕えなければならないし、私たちも自分の命を投げ打ってでもイエス様に仕えていく。実際できるかどうかわからないですが、そういう場面に立たされた時に。でも、私たちが仕えるのはここまでであるというのは間違いないわけですね。食事の給仕くらい、ある意味なんでもないわけですよね。それぐらい、当り前だと思います。私たちが仕えるというのはもっと徹底的に、もっと、自分の安楽さとか、自分が幸せか不幸せかとか、そういうことを越えて、イエスの受難まで、イエスの苦しみまで、徹底的に仕えられるかどうか。明らかに、殉教者の、日本人の先輩たちのキリシタンたちは、そこまで徹底してたわけですね。ものすごくはっきりしていた。イエス様に自分の命を捨ててでも仕えるということは、やはりその当時の武士道というですかね、男性も女性も、子供たちだってそうだったわけですが、そこまで徹底して仕えるということは、明らかだったわけですね。私たちがそのような殉教の場に立たされないことは…立たされないと思いますが、まあ、それはもちろん、わからないんですが、しかし私たちはそこまで徹底的に仕えていく覚悟というか、勇気というか、決断は、私たちの側は必要だと思います。そして、私たちは神様に対してこう言うだけで十分だと思いますね。「私どもはとるに足らないしもべです。しなければならないことをしただけです。」…このような態度が本当に仕える者の態度だと思いますね。そして神様は寛大に、私たち一人一人に1デナリオンの恵みを確実にくださると思いますね。別に、これだけ仕えたから、給料2倍くれとは神様に…イエス様に言うような人は実際おられないと思います。キリシタンにしても、どんな人にしてもですね。ほんとにと
るに足らないしもべで、しなければならないことをしただけ、そこで、他の人よりたくさん恵みをくれとか、そんなけちくさいことを言う人は、実際ほんと、いないと思いますね。与えられてる恵みで十分。しなければならないことをするだけで、実際は十分だと思います。仕えるというのは別に後からの報酬を願って仕えてるわけではない。仕えるということ自身に価値があるから、私たちは仕えている。この、ほんとの意味で、私たちがイエス様の弟子として、イエスのしもべとして、ほんとに100パーセント仕える者になっていけるように、当然、その、私たちに対して、主は必要な恵みを、寛大に、その、仕えることを貫いていけるように、必要な恵みを寛大に与えてくださるのも間違いないことだと思います。その、イエス様のくださる恵みに信頼しつつ、しもべとして徹底的に仕えることができる恵みを願いたいと思います。

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