ルカ福音書17章20-25節「神の国とは」

hanafusafukuin

2008年11月13日 ルカ福音書17章20-25節「神の国とは」シスターの黙想会、大阪

17:20 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。
17:21 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
17:22 それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。
17:23 『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。
17:24 稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。
17:25 しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。

今日のルカによる福音書17章は、どちらかというと終末のお話というかんじがしますが、世の終わりに近づくと、「神の国はここにあるとか、あそこにある」とか、言う人がいるのかもしれない。あるいは、イエス様の再臨というんで、「見よ、あそこだ、見よ、ここだ」というふうに言う人が出てくるのかもしれない。でも、イエス様の話は、そういう目に見えるかたちではっきりとあらわれてくるわけではないということですね。それをおっしゃっています。わたしたちも、この黙想を終えて、日々の生活の中に戻っていく中で、その、神の国、あるいはイエス様の姿をどのようなものとして見出していくのか、見つけていくのか、日々の生活の中でですね、それはたしかに大切なところがあるのではないかと思うんですね。

神の国については『ここにある』『あそこにある』と言えるものではない、と書いてあるんですね。私たちの目標というか、目的は、やはり神の国に入る、あるいは、神の国に生きていく、ということですが、それはあらかじめこういうものだ、ああいうものだというふうに、こう、かたちが決められるものではない、ということですね。むしろ神の国はあなたたちの間にある、と言っていて、私たちのこの、かかわりの中から、この、現われてくる、まあ、そういうものである。これはなかなか考えさせられるような気がします。やはり私たちは、たとえば共同体の生活のことを考えてみても、やはりある理想というか、こうしたい、ということがやはりあるわけで、もちろんそれが悪いというわけではないと思うんですが、そういうものを、なんていうんですかね、神の国とイコールに考えて、こうなければならない、というものをかたちとして持ちすぎると不自由さが生まれてくるのかもしれない。まあ、結婚生活もそうかもしれない。あまりにこうすべきだとか、ああすべきだとか考えていると、結局そうでないところが許せなくなって、ここもだめだとか、あそこもだめだとか。つまり、神の国をあまりにはっきりとかたちのある理想的なものとしてしまうと、イメージを持ってしまうと、逆に不自由になってしまうということはあるのかもしれない。もちろんわたしたちの共同体なり、人との交わりが、より理想的なものに、よりいいものになっていくことは確かに必要ですが、ただ、あまりにこういうものであるとか、神の国はここにあるとか、あそこにあるとか、あるかたちで、枠のあるものとして考えてしまうと、結局その枠に合わないものが捨てられてしまって、わたしたちの現実と合わない。しかも人を裁いたり、自分自身がいらいらしてしまうということはあるんじゃないかなという気がします。私の最も好きな言葉のひとつなんですが、ジャン・バニエという方がおられて、ラルシュ共同体という知的ハンディを持つ人と、健常者の人…アシスタントとが一緒に住む共同体運動ですね、というのをやっておられて、日本でも、静岡の「かなの家」というところがラルシュなんですが、世界で120か、130くらいの共同体があって、その共同体運動を始めたジャン・バニエという人ですね、が、言っておられることなんですけど、彼も永年知的ハンディを持つ人と、アシスタントと共に暮らしながら、共同体というものがどういうものであるのか、十分わかったうえで、彼はこう言うんですよね。理想的な共同体というのはいったいなんなのか、私たちが暮らす人々と…他の人々と暮らす共同体ですね。彼が言うには「理想的な共同体というのは、なんの問題もない共同体ではない。なんの問題もない共同体というのは、えてして問題が隠れてるだけ。問題が表に出ていないだけであって、それが理想的な共同体とは言えない。」と、彼は言うんですね。ついつい私たちは問題がない共同体を求めているわけですが、そこに本当の理想があるわけではない。で、ジャン・バニエが続けて言うんですが「では、理想的な共同体は何なのか、その共同体が抱えてる問題がなにかあるわけで、私たちはすべて光と影を持っている、光と闇と両方持ってるわけだから、ひとりひとりに闇もある。」それが集まれば、共同体として闇もあれば光も、両方混じってるわけですよね。彼が言うには、「理想的な共同体とは、個人の抱えてる問題、あるいは共同体が抱えてる問題と共に歩める共同体が理想的な共同体なんだ」というわけですよね。その、問題を、自分たちの問題として受け止めながら、問題とともに歩みながら、そこにいつしか、闇ですよね、闇の部分に聖霊の光があたって、それを乗り越える、あるいはその闇が光に変わっていくという願いを持ち続けながら、共に歩んで行ける共同体が、理想的な共同体だというわけですよね。だから、ここで言っている通りだと思うんですよね。神の国がここにあるとか、あそこにあるとか、なにか理想的なものがあって、それに私たちがこう、合わせていくというのではなくて、わたしたちの現実、私たちの個人の抱える問題もあれば、共同体の問題もある、そういうものと共に歩みながら、でも、その中で神の国が生まれてくる。その共同体の中で。だから、実に神の国はあなたがたの間にあるのだ、というんですよね、私たちが人と人との関わりの中で、まあ、その、相手を受け止めたり、問題に真摯に取り組んだり、あるいは、赦したり、受け止めたり、謙遜になったり。そういう私たちの間に神の国が生まれてくると。それこそ本当の神の国だし、それこそ本当の共同体だと。イエス様と、ジャン・バニエの言っていることと、なにか符合しているような感じがするんですよね。一足飛びに私たちはなにか、絵に描いた餅みたいな理想的な共同体というイメージがあって、その、イメージを思い描くことは別に悪いこととは思わないんですが、ただ、私たちは、それが神の国だとなにか考えないほうがいいんだろうと思うんですね。現実の私たちの交わりの中から神の国がどのように現われてくるのか、あるいは、神の国をどのようにお互い見つけていくのか、あるいはお互いどのように神の国を造っていけるのか。その営みの中にこそ、やはり私たちの一番大切なものがある。その中で私たちはやはり愛するということ、赦すということ、受け止めるということ、まあ、様々なことが具体的に問われてるわけですよね。その中で神の国が、やはり私たちの中に神の恵みによってやはり生まれてくると思うんですよね。というのを私たちは求め続けていくことだと思います。この、こうやれば神の国が生まれる、ということは…なんていうんですかね、無いんじゃないかと…まあ、無い、と言ったらオーバーかもしれませんけど、つまり、こういう規則をつくったらとか、こういうやり方でやったら、とか、なにか、こういう規則をみんなで守ったらとか、こういうビジョンで皆が歩んだらとか…もちろん、そういうふうにする営みしかない、と言えば無いんですが、そうすれば、必ずこういう神の国が出てくるというのはありえないんですよね、実際。私たちの現実の中から、私たちの間から、神の国が恵みによって現われてくる、で、神の国が現われてくる時は、やっぱり皆わかりますよね。ほっとしたり、嬉しかったり、お互いが和やかになったり。いつもいつもかといったらそうじゃない。神の国というのは現われるけど、しゅーっとしぼんでいくこともあるっていうか…。まあ、なんていうんですかね。だからまあ、これだけやったらできるというより、しょぼんと消えていくこともある、というふうに思いますね。でもまあ、それはそれで私たちの罪があるので、消えることもある。私たちが本当になにか心を配ったりするならば、私たちの、この、かかわりの中にですね、そこにほんとに喜びや自由や愛や、赦しや、そういうものが生まれてくる時に、神の国がぱーっと広がってくる中で…修道会もそうでしょうし、市民運動やっててもそうですし、人々とのかかわり、職場でもそうですし、現われてくるんですよね、ある時。それを私たちは待ち望みながら、それをほんとの意味で恵みとして受け止めながら歩んで行く時に、わたしたちは神様と共に歩みができてるというふうに言えるんじゃないかと思うんですね。闇の力も、荒みもあるので、逆に、苦しみ…個人だって荒みの時もあれば、共同体も荒みの時があるのは当然ですけどね。そういう時も忍耐強く祈りあいながら、助けあいながら歩んで行く時に、やはり神の国がある時お互いの間に広まってくる。それこそ、僕はほんとにお互いが大事にする求めていくものであろうと思いますね。ほんとに私たちの間の中で神の国はその時その時によって誕生してくる、生まれてくる、それを私たちは求めたいと思います。まあ、自分の力で、というよりは、謙遜に主に恵みを願いながら、互いに愛し合うというですね、この、生き方を求めながら、神の国が現われてくる。それこそ、私たちの共同体生活の最も喜ばしいものではないかなというふうに思います。そういうような神の国を、お互いが触媒となって、この、生まれてくるものに、なにかこう、寄与できるように…誰かが旗振って造りましょうと言って造れるものじゃない。むしろ、お互いが本当に日々の中で受け入れ愛し合う中で生まれてくるものだと思いますが、そういう神の国を目指して、神の国のうちに私たちが歩めるように祈りたいと思います。

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