マタイ福音書11章16-19節「神の思いと人の思い―そのずれ」

hanafusafukuin

2008年12月12日 マタイ福音書11章16-19節「神の思いと人の思い―そのずれ」病人のためのミサ 東京

11:16 今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。
11:17 『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』
11:18 ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、
11:19 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」

今日の福音書は神様の思いと人の思いがずれてしまっていることを、イエス様は言いたいんだと思います。笛を吹いたのに踊ってくれなかった…神様が、私たちに、共に喜んでほしいと思っているのに、喜びを分かち合えなかった。逆に、葬式の歌を歌って、悲しみを分かち合ってほしかったのに、悲しんでくれなかった、という神様と人間の考えのずれ、ということを言ってるのだと思います。人間と人間の間の関係でも、ずれがあるのはある意味仕方ないことかもしれません。

たとえば夫婦の人の話を聞くと、やっぱり旦那さんと奥さんで、一緒に暮らしていてもずれてしまうことがやはりある。ある、カップルの話ですけど、奥さんの方が、最近冬で「寒いね」とか言って…。奥さんとしては、ただ、共感してほしかったんですね。ところがご主人の方は
「今、太平洋高気圧が来て、冬型の気圧配置で」とか説明し出して、ほんとは寒いっていう気持ちを味わってほしかったのに、まあ、男性にありがちだけど、それをいちち説明しちゃう。そういう小さな食い違いとか、そういうことが私たち人間の上にあるのは、ある意味仕方ない。実際のところ、神様と私たちの関係も、思っている以上にずれているのかもしれないですね。なかなか神様の思いがわかっているようで、わかっていないので、けっきょく自分の秤というか、自分の考えとか思いで、こうだとか、このようになったらいいとか。でも神様はほんとはこうしてほしいとか、思っているんだけど、それがすれ違ってしまう。そういう現実があるのも認めなければならない。もっと言えばやはり、私たち自身の中にある分裂というか、かみあっていないところがあるというふうに考えてもいいのかもしれない。まあ、すべてがそうだとは言い切れないですけれども、病気であるということも、結局、なにか、こう、かみあっていないというのかな、こうなったらいいのになと思いながら実はこうである、とか、頭ではこうしたいと思うけど、身体が動かないからこうなっちゃうとか、ですね。まあ、結局病気ということも、必ずそうだとは言い切れないですが、やはりずれてるところがあってですね、その、ずれから、私たちは苦しんでるところがあるのかもしれない。そうだとしたら、やはり私たちが出発点としたらいいと思うのは、どこがずれているのか、自分の中で、自分の思いと、自分の現実、自分がこうしたらいいと思っている理想と、現実の自分とか、どこがどう、ずれているのか。というところをまず、認めていくところから始めたらいいのかもしれない。あるいは、神様と自分の関係でも、それが、どこが、どうずれているのか、というところから私たちは出発していったらいいのかもしれないと思います。その、ずれに気づいたら、ずれてるところを…まあ、急に直せるものじゃないかもしれないんですけど、少なくとも、ずれてるところを認めて、そこから少しずつ神様の歩みに自分の歩調を合わせていくなかで、私たちはなにか、とらわれとか、苦しみとか、そういうものから少しずつ解放される気がします。今日はたまたま、グアダルーペの聖母の祝日なんですね。日本ではあまり大きなお祝いはしないですが、アメリカ大陸では大きなお祝いをします。マリア様が、だいたい、現われるのは、どこでもそうですが、少女だったり、子供だったり、ま、、この場合男性ですけど、非常に単純な貧しい人であったり。まあ、そういう人になぜかマリア様が現われて、大事なことを伝える。だいたい周りの人は…すべての人がそうじゃないですけど、主任司祭とか、司教とかがだいたい堅い人で、なんでこの人にマリア様が現われるのか、とか、悪魔の仕業とか、なんとか、かんとか…。それはまったく、やっぱり、神様の考えてることと、人間が普通に判断することがずれちゃってるから、そういうことになってしまっているんですが…。マリア様にしろ、イエス様にしろ、私たちに望んでいることは、きっと単純でシンプルなことをひとりひとり願っておられる。それをすぐにもちろんぱっとわかる、ということはないですが、自分の気持ちや心を、神様にあわせようとしている時に、やはり大事なことは私たちに示される。それによって私たちはほんとの意味で、解放され、力を得ることができるのではないかなと思うんですね。本当に謙遜に、自分の今のありのままを認めて、神様にすべてをゆだねていけるようにしたいと思います。

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