2009年1月6日 マルコ福音書6章34~44節「コミットメント―生き方を神に約束するということ」CLCの集まり 広島にて

6:34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
6:35 そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。
6:36 人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」
6:37 これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。
6:38 イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」
6:39 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。
6:40 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。
6:41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。
6:42 すべての人が食べて満腹した。
6:43 そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。
6:44 パンを食べた人は男が五千人であった。

鎌倉の黙想の家をclcがやるようになって、私も、しばしば、clcの人と一緒に黙想の家をやっているということをあちこいでしゃべるようになって、そうするとclcのことを知らない人からよくclcってなんですかと聞かれるんですね。で、どれぐらい昔からやっているんですか、と聞かれて、まあ、そうですね、450年くらい昔からやってますと答えて、みんな目をまん丸にして驚いて、そんなに昔からやっているんですか、と…まあ、clcという名前になったのは40年前ですけれど、この2年くらいキリシタンの殉教とかいろいろと調べたり、勉強したりして、clcのルーツというのは、日本の場合、キリスト教が日本に来て初めのころから共同体というものがあったわけで、だから、日本のclcの歴史は40年どころか450年もある、というわけです。

実際のところキリシタンの時代は、小教区制度が作れなかったわけですね、迫害とかもあって、小教区制ができたのは明治になってからです。信教の自由が認められてからパリミッションの神父様が来られて、こういう地区ごとの教会を建てることができたわけですが、キリシタン時代はそれができなかったわけで、結局、共同体を作り上げてそれを結び合わせていたわけですね。それはもう、clcのやり方と同じだといえるのではないかと思います。さきほど話があったようにclcは3本柱と言ってですね、「霊操」というイグナチオの祈りと共同体の「分かち合い」ですね、それと「ミッション」を行うという、その3本柱でいっているわけです。実際、昨日だったかTさんというclcの人と話していたら、彼は、キリシタン時代の出版物を調べていて、「霊操」の本は残念ながら日本語では出ていなかったみたいなんですが、でも、ラテン語版の「霊操」の本が出版されていたのはほぼ間違いないそうです。聖書はまだ印刷されていなかったようですが、いわゆる教理の本はいろいろとあったようです。ラテン語の「霊操」の本が出版されていたということは、霊操をしていた人がいたというわけで、どのくらいの人が霊操に預かっていたかわかりませんけど。「霊操」の根本をごくごく簡単に言ったら「神の愛を知ること」だと思います。キリストとの交わりを深く深く実感すること、これが霊操の基本の基本かもしれない。そして3本柱を言い換えたら、「霊操」というのは「神の愛を深く知っている」、そして「共同体と分かち合い」というのは「仲間の支えの力を知っている」ということ、分かち合いと共同体を通してお互いを支えあって、励ましていくことの素晴らしさを知っている。「ミッション」ということを言うならば、そのようなお恵みを自分だけのためでなく周りの人と分かち合っていく、「奉仕する喜びを知っている」ということでしょう。まあ、その三つを生きていくという、それがclcの基本だと思います。それは結局clcだけでなくクリスチャンの基本であるのかもしれませんが、それを自分のものとして、徹底的に生きていきたいという人が誓約といって、約束をするわけですけれど、それも自分がそれができているからと言って約束するわけじゃなくて、そうしていきたい、という望みがあって、その生き方を一生深めていきたい、というですね、その望みの中に誓約というclcの生き方の意味があるのだと思います。いわゆる、本当に大事なものに対してそれに自分が真剣に賭けていくということを約束するのは、人間の本性にかなっていると。まあ、英語で誓約のことをコミットメントと言うんですが、世界総会でも議論になって、コミットメントすべきとか、すべきでない、とか、それは結局義務みたいなもんで人を縛るんじゃないかとか、なんとか、日本ではあまり最近はそういうことは議論されないんですけれど、でも、まだまだ、コミットメントなんてのはなんだか、という人もいて。しかし、コミットメントというのはその人の生き方をそれに縛るとか、型にはめ込むということではなくて、人間の義務とか、本性だと思うんですよ。いいものだったら、それを自分の生き方としていきたいと思うのは自然なことではないかと思うんですよ。洗礼というのも、コミットメントのわけですよ。一生クリスチャンとして生きようという。結婚というのも、一生このパートナーと生きていこうというコミットメントですよ。clcの生き方が本当にぴんときている人が、コミットメントする、ということは僕はなんか、こう、お恵みだと思いますね。ま、、チャレンジというか、問われるものがあるから、たいていの人は誓約文を書くから、どんなことを書くか、とか、それが準備になると思いますね。書くことに慣れていない人もいますけど、そうやって自分の気持ちを神様に捧げて言葉化する、ということが大切じゃないかと思います。こういう気持ちで約束します、と言葉化して約束するのは、僕は非常に意味のあることだと思います。これから3人の方が誓約されるわけですが、できているから、というよりは、神の恵みによって道を歩むことが自分の喜びだし、生き甲斐だし、力だし、これからも神の恵みによって、支えられて生きていきたいと、神に恵みを願っていくような、そういうものであろうと思います。今日の福音書でいうならば、たくさんの人がお腹を空かせていて、パンを食べた人が男5000人であったと、まあ、この数え方がけしからんと、女性を入れたら1万人以上の人がいたと思われますが、でも、それでイエス様があなたたちが彼らに食べ物を与えなさい、と。…1万人以上の人に…これはもう、できないわけですよね。だから、わたしたちが200デナリオンものパンを買ってきて彼らに食べさせるのですかって…できません、と言ってるわけですよね。200万円くらいですよ。1万人の人に食べさせるんですから200万円あったって一人当たり200円くらいでしかないですよ。とても自分たちではできないと、弱音を吐くわけですよ。でも、イエス様が言うわけですよ、パンはいくつあるのか、と、たった五つですよ、魚が2匹。たった五つのパンと2匹の魚。それだけだ、と言うわけです。現実を見れば、自分のことを振り返っても、まあ、なにもできないとか、日本の教会全体を見ても、力がないとか、なんとか、いろいろ…でもイエス様は五つのパンと2匹の魚を使って、1万人以上の人に食べ物を増やしてくださるわけですね。人間の力とまったく関係ないわけです。でもそのパンを増やしているときに、弟子たちが手伝うわけですね。弟子たちに渡しては配らせ、2匹の魚も皆に分配された、と。弟子たちが配っていくわけですが、わたしたちもイエス様の救いの業を見ながらですね、それを分配していくだけ。自分でパンをふやすとか、1万人の人に食べさせるとか、自分たちの力では無理なわけです。でもわたしたちはそのイエス様の救いの神秘に、恵みに預かって、その恵みを人々に分かち合っていく、それしかできないし、それをすることを、主がわたしたちに望んでいるんだと思います。その、わたしたち一人ひとりに与えられた主の恵みの不思議さと、それを人々に分かち合っていく、そういう役柄が与えられている。clcあるいはクリスチャンとして与えられているさまざまな恵みが私たちにある、その恵みを人々に分かち合っていく、そういうこともできる範囲の中でやっていければと思います。大きなこととか、そういうことではなくて、やはり、神様の御心というのは、多くの人にパンを与えたいたいという、神様の心は今も昔も変わらないと思います。イエス様の寛大な、愛と恵みを、わたしたちも多くの多くの人と分かち合っていきたいと思います。この、有期誓約を、皆で応援したいと思います。

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