2009年2月4日マルコ福音書6章1-6節「故郷を出てイエスとともに歩む」黙想会、鎌倉にて

6:1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。
6:2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。
6:3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。
6:4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。
6:5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。
6:6 そして、人々の不信仰に驚かれた。

今日のマルコの福音書のお話は、イエス様が故郷の、ナザレにですね、帰った時のエピソードが語られています。故郷に帰った時に、この、イエス様は逆に奇跡を行うことがあまりおできにならなかった、人々が不信仰だったから…不信仰に驚かれた、と、あります。故郷というのは、誰にとっても、基本的には大事なものだと思いますね。

ま、ずーっと故郷に暮らす人もいるでしょうが、現代の日本では自分の故郷を出て、別のところに住む人の方が現代では多いのかもしれない。故郷があるということは、私たちの心の安定になるというですかね、まあ、外国で働くとしたら、日本というのが故郷でしょうし、都会に出て働くとしたら、田舎というのは自分の故郷であって、自分のアイデンティティというか、自分の存在を安定させる、そいういう懐かしい場所であるという、これは多くの人にとって確かであると思います。故郷のない人は、なにか、不安定というか、自分の帰るべきところがなくて、どこかふわふわとしてしまうようになるのかもしれない。故郷があって、故郷に帰れるということが、まあ、大事なことだと思います。ホームレスになってしまわれると、多くは、実際もう故郷に帰れなくなってしまったからホームレスになってしまっちゃうわけなんですよね。仕事を失ったり、お金がないということだけではなくて、いろんな事情で故郷を喪失している人ですね。まあ、本当に困って、故郷に帰れる人は、完全なホームレスにはならないと思いますが、まあ、ホームレス、家がない、ということのひとつの問題点は帰るべき故郷を失っているという、そういう面も含まれていて、故郷というのはどれだけ人間にとって大事なものであるか、それはやはり、認めなければならないと思いますね。ただ、人間にとって一番大事な故郷が、場合によっては、イエス様の場合のように足かせになるというかですね、それがなにか、こう、問題になるということも当然起こりうるわけですね。この、故郷の人々はイエス様の子供時代を知っていたので、メシアであるイエス様を認めることが結局はできないわけですよね、あまりにイエス様と親しかったというか、まあ、近くに接していたので、かえってイエス様の本質的なところを見抜くことができなかったわけです。で、イエス様とは直接関係ないですけど、自分自身は神戸出身ですが、神戸に帰るのがあまり好きではないんですよね。なんか、昔の自分に戻るような気がして…特に、昔の未熟な自分に戻るような気がして…なにか、こう、不自由さを感じたりすることはあります。実際、預言者というのは、自分の故郷で敬われない。だからイエスはいろいろ奇跡を行うことがおできにならなかった、と書いてあってですね、で、人々の不信仰に驚かれた。故郷というものは私たちにとって大事なものであるけれども、人間を縛るものにもなる、そして、私たちが、やはりイエスとともに歩もうとするならば、そういう、悪い意味での故郷を、やっぱり乗り越えていかなくちゃならない。つまり、故郷から出発しなくちゃならない、ということはあるだろうと思いますね。故郷というのは、不信仰の塊りみたいなところなわけで、それをどう越えていくのか、故郷からどう出発できるのか、ということ、それは、そろそろ黙想が終わろうとしている私たちにとっての問だと思いますね。故郷を出て、やはり神の望むところに信仰をもって進んでいくということですね。アブラハムが故郷から出よ、と神様に言われたのは、なんと75歳ですよね。75歳の時に、故郷を出て他のところに行けと。そして信仰に生きよと言われたわけですよね。モーセは、故郷を出て、厳密には故郷ではないんですけど、とにかくエジプトに行け、と言われたのが80歳ですよね。まあ、昔と今とでは年齢の数え方が違うのかもしれないけれども、私たちも、黙想が終わったら、自分の修道院や家族のところに戻るわけですけれども、でも、やはり、故郷は出ていく、自分を縛っている不信仰の世界を出ていく、という、そういう決心とか覚悟というか、そういうものがいると思います。第一朗読の、ヘブライ人への手紙に、「だから、なえた手と、弱くなった膝を真っ直ぐにしなさい。足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろ癒されるように、自分の足で真っ直ぐな道を歩きなさい。」弱くなった足を真っ直ぐにして自分の足で歩きなさいと。もちろんこれは」象徴的なことでしょう。信仰する、ということを、フランシスコ会の本田神父さんですね、釜が崎で働いている、彼の訳した聖書の中では、信じるということをですね、「信頼をもって歩みをおこす」とあるんですよね。信じるということはとても能動的な行為であるということなんですね。信頼をもって、立ち上がって、歩みを起こしていく。それこそが、信仰をもった生き方だと、彼はそういう訳語を使っているのですが、それはあったていると思いますね。信仰するということは、イエスとともに歩んでいく、ということにつながっているわけで、だからこそ私たちはこの不信仰な故郷から出て、ですね、イエスとともに歩みをともにして行く、そういうものにつながっていかなければならないと思います。新たな生き方と、新たな道、そのためには弱くなった足を真っ直ぐにして自分の足で真っ直ぐ歩けと言ってるこのパウロの言葉を心に刻みたいと思います。それはもちろん自分の力で、というより、主の恵みによってだと思いますが、私たちが新たな歩みを主とともに起こしていけるように、新たな歩みを歩んでいけるように、祈りたいと思います。

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