マルコ7章14-23節「ルルドで願ったこと」

hanafusafukuin

2009年2月11日 マルコ7章14-23節「ルルドで願ったこと」癒しのミサ 東京にて

7:14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。
7:15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
7:17 イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。
7:18 イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。
7:19 それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」
7:20 更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。
7:21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、
7:22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、
7:23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

今日の福音書はマルコのところで、まあ、イエス様の不思議なことを語っているところです。この、外から人の体に入るものは、別に人を穢すわけではなく、むしろ、人の中から出てくるものが人を穢す、というふうにイエス様がおっしゃっています。私たち、体というか、特に病気の時にはですね、やはり、なにを食べるのか、という、そういう食べ物のことはとりわけ気になることだろうというふうに思います。ある病気は、やはり、この、食生活が悪いので病気になってしますということ、それは確かにあるので、やはりなにを食べるのか、場合によってはどういう薬を飲むのかということに、やはり私たちはかなり気が取られて、それもとても大事なことだというふうに思いますが、でも、イエス様はそれをさらに超えて、こう言われるわけですよね、外から人の体に入るものは、別に人を穢さない、と。むしろ人の中から出てくる、人の中にあるものが、実際は穢している、というようなことをおっしゃっています。まあ、確かに、ある意味そうかもしれない。

まあ、もともとここで言っている、イエス様の意味は、あの、どういうことかというと、病気のことを言っているわけじゃなくて、ファリサイ派の人々がですね、結局ユダヤ人というのは、その、なにを食べていいか、なにを食べたら悪いかというのが厳密だったんですね。だから、この、穢れたものを食べたら人間が穢れると。だから穢れないものを食べなければならない。穢れてるものは…たとえば、タコとか、イカとか、だめなんです…豚もだめなんです。そういうものを食べると、まあ、人間が穢れてしまう。まあ、そのようなことにいろいろ気を使っている人が多かったので、そういうもので別に人間は穢れないと、むしろ心の中にあることをもっと注意しなさいということをイエス様がおっしゃってるわけなんですよね。たしかにそういう面があるんじゃないかという気が、個人的にしますね。というのは、時々テレビを見てですね、昼間は普通テレビを見ないんですが、たまたま実家に帰ったりしたら、ま、家に帰ったりしたらたまたまテレビがついていたりしてですね、それで、なんとなく見て、お昼ごろに…なんでしたっけ、なんていう番組でしたっけ、うちの母親が毎日見ていてですね、で、毎日やっているわけですよね、豚肉はビタミンBがあるから食べたらいいとか、これはだめだとか、あれはだめだとか、うちの母親も一生懸命そういうことを聞いているわけですが、まあ、でも個人的に言うならばですね、非常に馬鹿げた番組だというふうにすごく思いました。というのは、なにを食べるかということをそんなに気にする必要性が、私たちの日常生活であるのか、日本のように、食生活が豊かなものであるならば、バランス良く食べれば十分じゃないかと思うんですよね。まあ、今も母親がそれを見てるかどうかわかりませんが、毎日それを見て、これがいいとか、あれが悪いとか、なんとか、納豆がダイエットにいいとか、バナナがダイエットにいいといったら、スーパーからなくなってしまう。私は、それほど体のことに気を使うならばむしろ、イエス様のおっしゃる通り、心に中ですよね、心の中にどういうものがあるのか、それをもっと私たちは気を配ったほうがどれほど幸せになれるんじゃないかという気がしますね。あの、美容法なのか、なんなのかわかりませんが、毒出し健康法?デトックスっていって、体の中から毒を出して、それでなんかこう、健康になりましょう、という。でも、体の毒を出すくらいだったら、まず、心の毒から出さないとだめなんじゃないかと、本当に思いますね、私たちは。まあ、もちろん、病気の時こそ、体のことがいろいろ気になるわけで、調子が悪いのは、あれを食べたらいいんじゃないかとか、これを食べたら悪いんじゃないかとか、いろいろそういうことも当然気になるし、もちろん大事なことですが、ポイントは、私たちの心の中にある、この、毒みたいなものを、どう、デトックスするか、ということのほうが…たとえば、心配症で、心配なことがあったり、イライラしたり、不安だったり、ですね、なにかこう、生活している中で、特に心の病気でも体の病気でもそうですが、心配や不安感、将来どうしようとか、あれがだめだったのか、これがだめだったのか、という、そのような毒が心の中にどんどんたまって、たまっちゃってですね、それをどうデトックスするか、ばあっと、外に出さない限り、結局は私たちは、その、もやもやとしたものに縛られてしまっている。で、結局は、この薬飲んでみようとか、そういうことももちろん大事ですが、それよりも、私たちの心の持ち方をすっきりしていくことのほうが、やっぱり大事かもしれない。というふうに思います。今日は、その、ルルドのマリア様の日、ということで、多くのカトリックの方はご存じでしょうが、ルルドというフランスの片田舎に、去年が150周年記念ですかね、そこの、ベルナッデッタという女の子に、マリア様がですね、現われて、いろいろ、この、彼女にお告げとかあってですね、それで、なんでしたっけ、ここほれわんわんじゃないですけど、ここを掘りなさいとかなんとか言われて掘ったら、泥水が出てきて、もっと掘ったらそこから泉が湧いてきてですね、それで、それが有名なルルドの泉ということで、いまだに水が湧いていて、その水を飲んだ人が、150年の間、数えきれない人が、病気が癒されたわけですよね。だから今でもルルドに多くの病気の方が行かれるわけです。皆さんの中でも行かれた方があるかもしれない。それで、ルルドの水はドンボスコ社かなにかに売ってますから、直接行かれない方はそれをちょっと飲んでみるのもいいかもしれないんですが…それで、ルルドに行くチャンスが一度あったんですね、実は私自身非常に病弱で、体の弱い人なんですよ。しょっちゅう寝込んでて、なんというかですね、こんなに病弱で、よく仕事してるなと思うんですが、ともかく、とても病弱で体が弱いんですね、それで、ルルドに行くから、私もちょっと癒しをお願いしたいと思ったんです。で、これはチャンスだからと思って、それでルルドに行ってですね、町はたいしたことない、こう、ずらっとお土産屋さんが並んで、どこかの温泉街みたいで、ちょっともうひとつがっかりしたようなところもあったんですけど、ただ、マリア様が現れた洞窟、グロットっていうんですけど、そこから湧いてくるところは、世の中にこんなに清いところがあるかと思うくらい、その、清らかな空気がそのあたりは流れているんですよね。で、そこに行って、行ったときにはミサをあるグループがされていたんですよね。で、その、グループの全員だったかどうかわからないんですけど、病気よいうよりは知的なハンディを持った方のグループで、その方々がミサに預かっていて、それで思ったんですね、キリスト教というのは貧しい人とか弱い人のためにある、で、その人に神様が恵みを与えたいからキリスト教がある、それをはっきり現すためにルルドがあるんだろうと思ったんですよね。巡礼していて、ヨーロッパのなにかこう、イタリアだったか、パリだったか、そのあたりから周っていったんですけど、大きな…特にサンピエトロ大聖堂みたいな、ああいう立派なものを見ると気持ちが萎えてきて、なんかこう、重い気持ちになってしまうんですが、ルルドの泉の周りにいるときは、本当にここに神様の心があると思いました。神様は本当に貧しい人をひとりひとり心から大切にされていると心から深く深く感じたんですね。最初行く時は、だから、マリア様に自分の弱い体を癒してほしいということをお願いしようと思って行ったんですが、その、ルルドがですね、ほんとに貧しさと神様の恵みに満ち溢れてるところなんです。で、僕自身、もう、癒しを願うことができなくなっちゃったんです。で、そこでなにを願ったかというと、貧しく生きれるように、神様に貧しい人にしてくださいというお祈りしかできなくなちゃったんですね。で、人がいる時はまだあれなんですけど、夕方くらいにまた一人で行ったら、もう、だれもいなくて、本当に神様の恵みというか、マリア様のあたたかい心がですね、包んでるんですよ。そういうところでひざまずいてお祈りしてたら、本当に貧しい人にしてくださいと、貧しさを願う以外に願うものがなくなってしまって、そこでずうっと、貧しい者にしてくださいと願続けていたんですが、今、自分が貧しい者になっているか、わからないんですが、でも、神様は明らかに、貧しい人を愛しておられる、罪人(つみびと)や病人や、貧しい人を心の底から愛しているということは間違いないと思います。だから、すべての人ではないですけど、だから、マリア様が貧しい人たちの特別のプレゼントとして、その、水を飲む人に癒しの恵みを与えられている、体の癒しだけですけどね、心の癒しを入れたらどれだけの人が癒されているのか、それこそ、もちろん、わからないくらいの人々が癒されている、それは当然、マリア様の心だし、イエス様の心、神様が私たちみんなに、貧しい私たちひとりひとりに、救いと愛の恵みを与えたいと思っているのは間違いないと思います。だからこそ、私たちは、神様の前で貧しい者としてひれ伏さなければならない。自分の弱さや、自分のいたらなさ、自分の心の中にある…まあ、いろいろあるわけですよね、罪意識とか、自己嫌悪とか、この世に対する怒りとか、いろいろいろいろあるかもしれない。そういうものを、貧しい者として、みんな手放してですね、神様の前で祈らなければならないと思いますね。で、その時に、というか、最初からそうですが、貧しいわたしたちひとりひとりを神様は愛してくださる、救ってくださる、共にいてくださる。そして私たちの苦しみをやわらげ、癒してくださるのは間違いないと思いますね。それが神様の心だからですね。その、マリア様と神様のほんとの心を思い起こしましょう。そのために、たとえば、ルルドという場所は、それを思い起こすために神様がわざわざ用意してくださった所だと思います。でも、それはルルドだけではない。世界中すべて、どこにおいても、神様は貧しい人、弱い人、病める人を心の底から愛しておられる。助けたいと思っておられる。その、神様の愛に、私たちは本当に、ひれ伏して、本当に、貧しい者として、神様を礼拝し、そしてその神様から恵みをいただきたいと思います。癒しの恵み、励ましの恵み、そして勇気の力、心を平安にしていく主から出る恵みは限りないので、私たちひとりひとりが必要な恵みが得られるようにこのミサで祈りたいと思います。

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