2009年3月5日 マタイ7章7~12節「求めなさい」黙想会、鎌倉にて

7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
7:9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
7:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
7:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
7:12 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。

黙想会の最後にあたって、イエス様のメッセージは「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」というふうに、私たちにおっしゃっています。テーマとして、この四旬節の初めにあたり、ま、回心ですね、悔い改めというテーマで祈ってきましたけれども、私たちがどれぐらい深く変えられるか、それはもちろんわからないわけですが、でも、こう、回心して、悔いあらためて、そして自分がいたったい何を神様に求めて生きていくのか、どのような願いをもって生きていくのかということ、それを問いかけ、そしてそれを求めていくこと、これは非常に大事なことだと思います。

こうやってはっきり「求めなさい」と書いてある以上、私たちはやはり、求めなければならないだろうというふうに思うんですね。もちろん今あるもの、今与えられているものに感謝して、欲求不満という意味で、あれがほしい、これがほしいというのではなく、やはり私たちが神様に向かっていく時に、更に私たちが、なにが必要なのか、自分自身にとって、自分の生活にとって、自分の信仰生活にとって。それをこう、願っていく、それがなにかわかり、願っていくことが非常に大事だということですね。まあ、私たちには、欲求というか、欲望というものがあるので、まあ、実情はあれがほしいとか、これがほしいとか願って、それを求めてるわけですが、しかし、ほんとのところ自分がなにを求めてるのか、一番深いところの望みはいったいなんなのか、それを改めて、こういう回心の時に見つめなければならないし、それを願わなければならないだろうというふうに思います。まあ、この、霊操、というですかね、イグナチオの考えていたことですが、どれだけ私たちが神様に望んでいくのか、求めていくのか、ということですね。それによって主が与えてくださるものも確かに決まってくるというのはほんとだと思います。もともと神様は・・・なわけで、あるいは大金持ちなわけで、そして私たちにいろんなものを分かち合いたいと主は思っておられる、持ってるものをですね。この人間一人ひとりに分かち合いたい。でもですね、私たちが求めなければ神様はせっかくあげようと思ってるものが、まあ、与えられていないことが実際現実なのかもしれない、とうことだと思いますね。まあ、どういうたとえがいいかわからないですけど、せっかく神様がお茶をつごうと思ってるのに、コップに蓋をしてたらですね、お茶が入らない…横にじょぼじょぼっとこぼれてしまうようなかんじで…神様はある意味で私たちの器を恵みで満たしたいのに、多くの人は蓋をしてしまっていて、まあ、これでいいと、これぐらいでいいやと、いや、どうせだめだからと、あるいは、まあ、自分で努力してもだめだからと、コップに蓋をして、なにかこう、そこでとどまっちゃってる。せっかく神様がお茶つぎたくて、杯を満たしたいと思っても、私たちが蓋をしてしまっているならば、神様は注ぎようがないわけですね。私たちが求めているってことは、まあ、蓋を開けてですね、主よ、お恵みをくださいと、そして、今自分の置かれてる場で一番必要な恵みを主に謙遜に願っていく。自分の力でくれるものならば自分でつかめば、自分でやればいいわけですが、求めていくということは、自分が得ていない、わからないもの、そうしたくてもできない、それを私たちは謙遜に求めていく。まあ、若い人、中年の人、年取った人で、必要な恵みはまったく違うし、もちろん無理な願いをしても仕方がない。年取った人が、若い頃と同じような体力をくださいと願ったとしても、それはちょっとずれてるかもしれない。でも、与えられてる今の場で、まあ、わたしたちが、ほんとに求めるべきものを求めるならば、主は豊かに与えてくださる。そして与えられたものによって、私たちは大きな喜びと恵みの中でつつまれて生きていけるわけですよね。その、無限の神様の恵みがあるからこそ、私たちはどういう立場であったとしても、どういう時であっても、どういう困難があってもですね、私たちは求めていくことができるし、それは、求めなければならないものだと思いますね。求めないならば、神様も、嫌なんだったら、っていうかんじですね、まあ、なんかこう、引っ込まれてしまうということもあるかもしれないです。この世界にも、様々な苦しみで満ちているわけで、ひとりひとりの苦しみはまったく違うでしょうが、主はこういう人々を助けたくて、実際はうずうずしておられる。だからこそ私たちは必要な恵みを絶えず求めていく、そうしなければ、イエス様が十字架にかかった苦しみは、ある意味で無駄になってしまうし、イエス様が復活された恵みということも無駄になってしまう。だからこそ私たちは一生懸命主の恵みを願っていく。具体的な小さなことから大きなことまでですね、神様にひれ伏して願っていくことが必要だと思います。ただもちろん、自動販売機のようなものではないので、これだけ願ったらこれだけ恵みが得られるというものではない。そこが不思議なところですが、主は私たちが願う以上に、神様は私たちが必要なものがわかるわけだし、求めながら私たちに気付いてほしいことも、それはまったく人によっても場合によっても違うので、それはなんとも言えないんですが、私たちがどれほど恵みを求めていけるか、それはよく見分けねばならないことだと思います。まあ、一人の、高校生ですね、あの、女子高校生だったわけですが、ある時突然、医学部に入りたいと、医者になりたいということを、急に考えてですね、親に言って、で、親は驚いて、ミッションスクールでもない、普通の、平々凡々としたうちだったんですが、クリスチャンのうちではあったんですが、で、娘さんがですね、医者になりたいと突然言い出してですね、別に受験校でもない普通の高校に行ってて、そういうことも考えてもいなくて、お父さんも驚いて、自分の給料考えたら、とてもじゃないけど私立は無理、行きたいんだったら国立に行きなさいと…それで、一生懸命勉強して、で、お父さんも必死にお祈りして、どうか娘の希望がかなうように、まあ、一生懸命お祈りして、一年たったか、二年たったか、で、彼女がいろいろ学校受けるんですが、ことごとく落ちていくわけですよね。その、学費のかからないところは結構まあ、限られてるでしょうし、で、お父さんも考え込んで、でも一生懸命お祈りして、なんとか娘が受かるように…でも、祈って祈って祈るうちに、お父さんは、こう気づいたんですね、ある日突然、一生懸命お祈りしてたんですけど、やっぱり自分のエゴだと。子供がやっぱり大学に、医学部に入るというのはやっぱり自分のエゴだと最終的にはお父さんが気づいて、そして、その気持ちを神様に捧げたんですね、神様に回心の祈り、悔い改めの祈りをして、主よ、ごめんなさい、と、自分の望みを押し付けてましたと。そして神様のみこころのままに、あなたのなさるようにしてください、というふうに、心の底からお父さんがお祈りを捧げたんですね。で、その次の日に、最後の合格発表があって、最後の合格発表で、その娘さんが、医学部に合格発表が出たんですよね。その、お父さんが言ってましたが、非常に深い霊的体験だった、あれほど一生懸命、祈って祈って、祈り込んでいって、でも結局自分のエゴだと思って、その望みを手放して、主に捧げたとたん、神様から、その願ってた恵みが得られたと。まあ、彼が願って本当に得たものは、神のみこころだったわけですね、自分の自我ではなくて、神のみこころを生きるというのはどういうことなのか、まあ、そういうことを示されたことが、たぶん一番霊的な体験だったんだろうと思いますね。私たちも、ま、求めなければならない。求めるところから始まって、なにをくださるかは、わからないわけですね。願った通りかもしれないし、願った通りではないかもしれない。でも、与えられるものは当然、自分が始め考えていた以上のものを主が準備してくださっている。まあ、そのために、私たちは回心や悔い改めや、気づきや、様々なことが必要かもしれない。でもそのような学びさえ、やはり、私たちが神様に向かっていくときに与えられているのだと思います。まあ、難しい、私たちは御旨ののままにと祈らなければならないし、やはり恵みをいただきたいと祈らなければならないけれども、でも、その二つは実際は矛盾しないと思いますね。ほんとに神様のみこころにかなうものは、結局私が本当に望んでるものに最終的にはつながると思いますが、神様の本当の御旨が、自分自身の生活で実現していくように、そしてそれをこそ、心の底から私たちが恵みを願っていけるように祈りたいと思います。

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