2009年3月7日 マタイ5章43~45節「神の完全は」黙想会 神戸

5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
5:45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
5:46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。
5:47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
5:48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

今日はパウロの手紙を通して祈りを深めてきたわけですが、最後に、これはパウロではないですが、マタイの5章で、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい、というふうに、主が私たちに呼びかけておられます。まあ、完全な、ということが、なかなか、どうとったらいいのか非常に難しい。いわゆる完璧主義者のようになれと私たちに言っているというような完璧なのか、そうだとしたら、結局は、律法を完全にまもらなくちゃならない、というようなですね、なにか落とし穴に落ちてしまう可能性もある。

実際トルストイはそういう傾向があって、山上の垂訓を完全に守ろうとして、結局守りきれないんで、結局はノイローゼになって最後はまあ、死んでしまった、と。そのような悲劇が生まれることもある。ただ、この、コンテクストからいうと、イエス様の命令はこうなんですよね。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい、ユダヤ人は隣人を愛し、敵を憎めと、まあ、ユダヤ人というか、旧約聖書には書いてあるわけですね、ま、敵と味方をとにかく分けて、で、味方を愛して、敵と戦え、というわけですね。これは確かに、なんていうか、アラブの今も昔も変わらないですが、血で血を洗う戦いをやっている地域においては、やはり仲間で結束しないと、つまり隣人同士力を合わせないと、敵と対抗できない。だから敵と味方を分けてですね、いかに敵と闘っていくために仲間同士が結束しなくちゃならないかというですね、そういう、まあ、深刻な現状の中から出てきてる言葉であるということは言えるだろうと思いますね。特にユダヤ人は主義主張が強い民族で、とにかく、ユダヤ人が3人いたら、いや、ユダヤ人が二人いたら、政党が三つできるというくらい意見がばらばらだし、この、まとまらない。2月に総選挙があったんですね、イスラエルで。いわゆる、小党乱立なので、どこの政党も過半数とれないから、多数派工作するしかないんですよね。いまだに連立政権組めてないわけですが、過半数占める…国会でですね…過半数占めないと、とにかく、どれが与党になるかすらいまだに決まらないというかんじでやってる、その中でほんとに誰が敵で、誰が味方か分けて、とにかく味方同士で結束しないと、敵に勝てないみたいなですね、でも、イエス様の教えはそれを超えてるわけですよね。敵とか味方とかいう区分を超えて、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れという教えなわけです。だから、それがどういうところに根拠があるかというと、神様がそうだからです。神様が、悪人にも善人にも太陽を昇らせてくれる、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。神様は、人間が勝手にこっちがいいとか、こっちが悪いとか分けてる、その、区分を超えて、神様はすべての人を愛している。その視点に立てるかどうかを、イエスは問うているわけですよね。天の父が完全であるということは、愛が完全である、こちっだけ愛してこっちは愛さないという、そのような部分的な愛ではなくて、神様の、全体を愛するというその愛の、その立場に…く考えなさいと、私たちもそのような愛を生きていきなさいということが、この、天の父が完全であるならば、私たちも完全になる、その、愛を問うてるわけですよね、ここで言ってる一番大切なポイントは。で、そうならないと、私たちは愛を生きることにならないというのは事実だと思うんですね。これをやはり、パウロはよくわかってたわけです。それまでの人は、やはりユダヤ人と異邦人を分けなければ気が済まない。ユダヤ人だけとにかくなんとかなっても異邦人は知りませんという、そういう分けるのを超えていけたというのは、プロはその神様の完全な愛がなにかということをわかっていたからですね。その、人間の枠を超えていけたというわけなんですよね。そこに、やはり、パウロの凄さがある。でも、パウロが凄いんじゃなくて、神様が凄いってことですね。人間の区分を超えていく、で、その視点に私たちが、どう立っていけるのか、ということを問うてるんだというふうに思います。とにかく旧約聖書を読んでいたら、頭が痛くなるところもある。清い動物と、清くない動物を分けてですね、とにかく、話が、ただ分ける話なんですよ。穢れてると、穢れていない、穢れを避けて、清いものだけやれ、という…。食事もそうだし、手を洗うとか、なんとか、なんとか…皮膚病と病気の話なんか出てきて、いろいろいろいろ、全部が分けているんですよね。いいと、悪い、穢れてると穢れていない、で、私たちも、ついついそうなるわけですよ。この人は味方だとか、この人は敵だとか、この人は付き合いやすいとか、付き合いにくいとか、こう、分けて…やってるから、結局は愛が無くなっちゃうわけです。神様の完全な愛に立たなければ、結局私たちの悩みが解決しないわけですよね。こっちがよくて、こっちが悪いとか…。神様の完全な愛に私たちがどのように立っていけるのか、いわゆる、人間が引いた境界線をどう越えていけるのか。神様の立っているところは境界線が無い、で、そこで私たちは神様の愛の視点から物事を考えたときに、私たちの歩んで行く道も見つかると思いますね。だから、結局は、病気だから悪くて、健康だからいい、とかですね、あるいは金持ちがよくて、貧乏が悪いとか、そう、人間が勝手に線を引いてる時に、私たちの悩みとか苦しみが、そこから出てくるわけです。でも、ほんとにそうだかわからない。神様は、病人も健康な人も愛してる。金持ちも貧しい人も愛してるという、神様の完全な視点から見てったら、私たちの小さな悩みとか、その、境界線とか、敷居を越えていける。そのところに本当の意味で、ガラテアにあった、自由と愛が出てくるわけですよね。神様がそうだからという、神の視点に立った時に、私たちはほんとの自由さと、愛の心を生きて行けるんじゃないかなと思います。ま、そのような完全さですね。完璧主義になれと言ってるのではなくて、神様の大きな愛の中で、私たちが、そこに視点を置いて、そこから生きていけるように、そういう、まあ、問いかけだと思います。ま、パウロのその、大きさというのかな、なにか、この、視点の広さということになるのかもしれない。そういうところに私たちも立ちたいと思いますね。あまり小さななところで、これだけとか、こっちだけとかみたいなかんじで考えると、どうしても狭くなってしまって、そこから悩みが限りなく…争いが限りなく出てきてしまう。ま、そのようなことで、私たちが、神様の豊かさ、深さと広さ、神の愛の…それを生きていけるように願たいと思います。それは別に、大きく考えるということは、私たちが謙遜になることと、別物ではないわけですよね。ほんとに謙遜になったときに、自分の囚われとか、小さな物の見方を置いて、神の前で頭をたれて、謙遜になった時にこそ、そにような大きな世界というか、神様の見方が開かれてくるんじゃないかと思いますね。ちょっと長くなりますけど、プラス、もうちょっとだけ言うと、完全という言葉はもうひとつの意味があるんですね。それは、ヘブライ語で、完全、というのは「ありのまま」という意味なんですよね、ヘブライ語では。たとえば、ダイヤモンドの原石が出てきたら、それは、ヘブライ語で「完全な石」だ、というんですね。つまり、人工的にカットする前の。「生(き)」のままの。それが完全であるということなんです。でも、結局は同じことになるんです。つまり、完全ということが、ありのままであるならば、ありのままであるものを、いいとか、悪いとか、人間が勝手にカットして、こっちが悪いとかこっちがいいとか、適当に人間がわけているから完全さがなくなってるわけですよね。ほんとにありのままであるならば、別に、それは完全なわけです。ありのままであるってことは、完全であるってことです。人間が勝手に線を引かなければ。いいとか、悪いとか、ヘブライ人だとか、異邦人だとか、なんとか、かんとか、いうことなんですが、そこにある神様の大きさだけじゃなしに、ひとつひとつのものを完全なものとして認めてくださってる神の恵みのありがたさですね。これがもうひとつの完全さですね。ふたつの意味があって、どちらを取るか、ま、実際どっちとっても同じなんです。どちらの読み方をしても、結局は私たちは神様はすべてを良しとしてくださるという中で、私も良しとして生きてくのか、すべてのものを良しとして生きていくのか、そういう中で本当に普遍的なもの、神様の心があらわれてくるんじゃないかなと思いますが、パウロの大きさと、パウロの謙遜さ、そしてありのままを大切にしたその生き方、すべてひっくるめて、私たちが日々の生活で歩んでいけるように祈りたいと思います。

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