マタイ16章13-23節「イエスが与えた名前ーペトロの信仰告白」2008年8月7日シスターの黙想会、青森

16:13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
16:14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
16:15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
16:16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
16:17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
16:18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
16:19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
16:20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
16:21 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
16:22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」
16:23 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

今日の、このマタイの16章は、いわゆる「ペトロの信仰告白」のところになります。イエス自身が弟子たちに、自分のことを何者だといってるのかと。噂では洗礼者ヨハネだとか、エリアだとかエレミアだとか…そういうふうに言う人たちがいたわけです。ま、イエスの評価というか、イエスが誰であるかとかはっきりしていなかった。そこでイエスが弟子たちに聞くわけです。
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するとペトロが「あなたはメシア、生ける神の子だ」、イエスこそメシアであり、生ける神の子だ、と答えたわけですね。それに対してイエス様が、それを、この、褒めるというか、あなたは幸いだ、と言うわけですね。ただ、この時ペトロが本当にイエスがメシアで生ける神の子だということがどういう意味かわかっていたかどうかは、実はやはりまだわかっていなかったわけで、それはただ、ユダヤ人のふつうの考えで、イスラエルを救ってくださる、政治的な、軍事的な独立をもたらしてくれる、そういうメシアであるというふうにしか思っていなかったでしょうし、自分自身も、そうなったら右大臣か左大臣か、まあ、国務長官にでもなれると、まあ、そのような気持ちくらいだったと実際思われます。

だからこそ、この、メシアだということを打ち明けてから、なにをイエスが言うかというと、受難予告ですよね。ご自分が必ずエルサレムへ行って、多くの苦しみを受けて殺され、そして3日目に復活するという…まったく意味がわからなかったので、わざわざ、ペトロがイエスを脇へお連れして諫め始めた、それはまったくイエス様の使命と違うわけで、イエス様の方が、ペトロの方に、サタン引き下がれ、と非常に強い言葉で言います。

結局のところ、イエスが本当に誰であるのかペトロがわかったのは、十字架と復活を過ぎ越した後ですよね。十字架のところでまだわからない。でも、イエスの復活に預かって、やっと、イエスがメシアであり、神の子だということを悟ったんだと思います。だからこそ、わたしたちが、イエス様はいったい誰なのか、自分にとってですね、それはやはり時間のかかることでしょうし、様々な苦しみや、あるいは喜びを、体験して初めてわかってくることかもしれない。

この、あなたはメシア、生ける神の子です、という答えに、イエスがシモン・バルヨナ、と褒めた後にですね、あなたはペトロだ、と言って名前を与えるんですよね。もともとの彼の名前はシモン・バルヨナ、ヨナの子シモン、だったわけですが、なぜ、このシモンにペトロという名を与えたのか、これも非常に謎というか、まあ、ご存じのとおり、ペトロというのはギリシア語のペトラという岩という言葉からきていて、日本語で言ったら「巌」となるわけですが、なんでイエス様がシモンを「巌」と名付けたのか。

というのは、ペトロは人間的に言えば、全然巌のようなタイプじゃなかったわけで、よく言うんですけど、どっちかって言うと、巌じゃなくてコンニャクみたいなかんじだったわけで、まあ、くねくね、意志薄弱なわけですね、ちょっといい気になったと思ったら、湖の上で溺れそうになったり、一番大変だったのは、やはり最後の晩餐の時に、どこまでもついて行くと言いながら、数時間後には「この人は知らない」と言った。その後も結局は宣教活動をしていても、ユダヤ人の習慣に戻りそうになってパウロに怒られてるわけで、どっちかっていうと、まあ、裏表のあるタイプじゃないですけど、巌のような固いものじゃなくて、コンニャクのような軟らかいタイプ、流されやすく、意志薄弱で、なんというか、自分を貫けないタイプだというのは間違いないと。そのタイプのシモンに、おまえは巌だとイエス様が名づけるというですね。

名前というのは、聖書の中では非常に大事なものであって、それはその、肩書きじゃないんですね、その本質っていうか、実質を現す、一番深いその人を現すものが名前であると、だからイエスがペトロだ、巌だ、と言った時に、やはり本当に、ペトロに、巌のようなものになってほしかったのだと思います。でも、急にペトロがなれたかといったらそうじゃないわけで、それもやっぱり時間がかかっている。やはりイエスの十字架を通して、その復活を通して、宣教活動を通して、彼は少しずつ、神の恵みによって、巌のようなものになって、それで、初代教会の、まあ、ローマの司教、今のパパ様の一代目になったわけです。

イエスがだれであるのかということもそうだし、自分がいったい誰なのかということも、やはりわたしたちは時間をかけなければ、本当の姿というか、本当のものは出てこない。それは祈りと信仰生活を深める中においてこそわかってくるものであろうと思われます。

まあ、巌のような性格は誰かといったら、それはもう、ペトロじゃなくてパウロなんですよね。パウロは実際巌のような性格だったと思います。自分で決めたことは必ず成し遂げる、頑固な性格で、ぶれるということはほとんどない。猪突猛進で、周りの人がなんと言おうと、自分の決めたことをやっていく、まあ、強さがあった。そのかわり、融通の無さとか、なんというか、調停したりというか、そういうものはまったくできなかっただろうと思われます。頑固すぎて人の意見を聞き入れるということがまったくできなかったでしょう。彼は巌なんですよね。でも、彼には巌と名付けてない。

パウロももともとはサウロだったんですよね。で、回心の後、しばらくして、イエスに名付けられたかどうかはまあ、使徒言行録には書いてないですが、もともとはサウロで、使徒言行録で活躍しはじめてからパウロになる、彼も名前が変えられているわけですよね。じゃあ、パウロっていう名前がギリシア語でどういう意味なのか、コンコルダンスで引いてみたら、「小さいもの」、パウリ、という意味ですね。イエスはパウロに、小さな者であれ、というのが、イエスがパウロに望んだことですね。パウロが自分はいかに小さいものであるのか、それは多分急にはわからなかったと思う。若いころは確かにユダヤ人のエリートで、頭がいいのも間違いないし、実行力もあったし、むしろ自分に自信満々だったかもしれない。でも、宣教活動の中で、様々な苦しみにあってですね、うまくいかないことがたびたびあって、その中で彼は小さな者であることを、自分自身がですね、小さな者であることを受け入れていく、小さな者になったからこそ、本当に彼は宣教師としての器、神の御用を果たす本当の器になったんだと思います。

まあ、人それぞれ、神様から与えられている名前がある。それは一朝一夕になるものではない、やはり、神さまとの深い交わりと、日々の苦労や困難を通しながら、そのようなものに変えられていく、ペトロも巌のように変えられていった、パウロも小さな者に変えられていったわけですね。わたしたちひとりひとりも、同じだと思います。

ひとりひとり、主から呼ばれて、主から名前を与えられて、そして主から名前に基づいて使命を果たすように言われている。それはわたしたちひとりひとり同じだと思います。その、主との深い交わりの中から、そして祈りの生活、信仰生活を通して、本当の意味でわたしたちが自分に与えられたものになっていけるように、本来の神から見た自分自身になっていって、神様の、本当の意味での御用を果たしていくことができるように祈りたいと思います。

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