復活の主日 ヨハネ福音書20章1-9節「千の風になった方」

hanafusafukuin

2009年4月12日復活の主日 ヨハネ福音書20章1-9節「千の風になった方」黙想会 鎌倉

20:1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
20:2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
20:3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。
20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。
20:5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。
20:6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
20:7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。
20:8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。
20:9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。

今朗読したのはヨハネの20章の最初、マグダラのマリアもそうですし、シモンペテロももう一人の愛された弟子も、イエスの墓に行って、墓が空っぽであることをですね、空の墓、まあ、それがイエス様の復活の最初の出発点になるんですね。墓が空っぽであった。だいたい私たちもお墓参りに行って…まあ、その、日本人の習慣ですね、お墓参りに行って、まあ、亡くなった人に会いに行くわけですが、イエスの場合はお墓参りしてもしょうがない。お墓は空っぽだから。

じゃあ、墓が空っぽだとしたら、イエスはどこにいるのか。それはイエスは生きておられる、ということでしょうね。墓場にいないとすれば、私たちの世界の中にイエスが生きておられる。これは、復活の第一のメッセージであるということのわけですね。2,3年前だったか、紅白で歌われて有名になったですね、「千の風になって」っていう歌があって、まあ、新井満ていう人がもともと訳して曲をつけたんですね。この、新井満て人は実は大学の先輩なんです。寮の先輩でもあって、この人、カトリックだったような気もするんですが違うかもしれない。ちょっとはっきりしない。それで、ちょっと親しみがあるんですが、彼は最初は、あの、友人の奥さんが亡くなったんで、そのためにこの歌を作ったんですね。プレゼントするためにですね。もともとの原文は英語なんですよね。英語を、彼が自分で訳したやつを、自分で節回しをつけて歌ったのが最初で、紅白で歌ったのは秋山さんだったんですけど、その前からずっと新井満が自分で作曲して歌っていたんですね。で、私のお墓の前で泣かないでください、そこに私はいません、眠ってなんかいません。千の風になって大きな空を吹きわたっていると言っているわけですよね。これはカトリック的にはいろいろ問題があって…カトリックで言ったら亡くなった人は天国か地獄か、煉獄へ行くのであって、この世でふらふら、浮遊霊というか、地縛霊というか…教義的には都合が合わないのですが、もちろん、これは教えの問題ではなくもうちょっとポエティックに言ってるわけですよね。カトリック的には亡くなった人は天国で待ってるわけだから、亡くなったら天国で会えるというのが私たちの考えなんですけど、ただ、この千の風になってる唯一の方はイエス様ですね。イエスは復活された、で、生きておられるとしたら、イエス様こそ、別に天国でゆっくりされているわけじゃない。イエス様は復活されたからこそ、千の風になって、私たちの日々の生活の中に、ある場合はそよ風として、ある場合は強い風として、私たちの中にいてくださってるわけですよね。朝は鳥になってあなたを目覚めさせる。夜は星になってなたを守る。大きな空を吹きわたっています、と、ですね。これはイエス様の復活として味わうと非常になにかその通りだというような感じがしますね。墓の中にいないから、私たちとともに…だから本当に唯一、お墓参りする必要性がないのがイエス様だということになる…まあ、もちろん、カトリックだからといってお墓参りをしない、という必要はないんですけど…天国にいるんだから…それはそうなんですが、その、イエス様の復活の恵というか力、風といったらなんというか、どちらかというと聖霊的になるんで、聖霊のイメージがもっと入ってる表現になるわけですが、やはり私たちがイエス様の復活の恵み、聖霊の風を、日々の生活の中で感じていく、感じていけるということが、私たちに与えられている復活の大きな恵みですね。でも私たちはそのために…そのためにというか、それをもっと感じるために、私たち自身をなんというか、空っぽにするというか、自分自身の中にいろいろ詰まっていてですね、自分の考えとか、思いとか、計画とか、いらいらとか。やっぱり、イエス様の復活の力が感じられない。つまり、自分をほんとに空っぽに、なんにもなくしていく、というかな、その中で、イエス様の復活した恵みが、私の心というか、存在そのものを包んでくださる。そして、世界に働いている復活の恵みにも、私たちはもっと心を開いて生きていけるということがいえるんじゃないかと思います。基本的に私たちの信じてるイエス様が私たちに与えてくださるのは、幸せ、喜び、平和、愛、赦し、節制、寛容、そのようなものですよね。それは、私たちが、なんらかの意味で古い自分に死んで空っぽになっていくなかでそのようなものが湧いてくるような、そのようなものですね。まあ、人によるでしょうが、この黙想会で、古い自分に死ぬ…いらない、囚われているもの、で、そういうものに死んでみたときに、イエス様の復活の力がより強く私たちに働いてくる。それは私たちを本当に自由なものにして、私たちを愛で満たしてくださる。そして、人々に平和をわかち合っていけるような、そういうものである、ということですね。まあ、この、千の風になって、私たちの周りを、心の中を、通りぬけてくださる復活の力、これを信じて、私たちがまた歩んでいくことができるように祈りたいと思います。

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