2009年4月25日聖マルコの祝日 マルコ福音書16章15-20節「新しい言葉で語ろう」、黙想会、藤沢にて

16:15 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。
16:16 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。
16:17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。
16:18 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」
16:19 主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。
16:20 一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。

今日はちょうど、聖マルコ、福音記者の祝日にあったっています。そして朗読がマルコ福音書の一番最後のところが朗読さました。復活した主が最後に弟子たちに、全世界に行ってすべての作られたものに福音を宣べ伝えなさい、というふうにおっしゃいます。私たちにも、この、福音宣教命令というのが、やはり、言われているのだと思いますね。私たちはやはり、全世界、というとオーバーですが、私たちの周りに、開かれた心で、神の愛を、キリストを宣べ伝えていくような、そのような心をもって歩みなさい、ということを言っておられるのだと思います。

信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける、と書いてありますが、ここだけ取り上げると、まあ、ちょっと・・・。洗礼を受ける人は天国で、洗礼を受けない人は地獄であるというふうに・・・一昔前の・・・まあ、二昔前の考えになってしまうんですが、ここで言ってる洗礼というのは、ただ単に、儀式的に受けるか受けないか、ということではなくて、今日の午前中に見たように、イエス様を信じて、イエス様とともに水に沈んで、イエスとともに水から上がって、天が開かれてくる、という恵みの世界に、私たちがイエス様を信じながら歩んでいくかどうかということですよね。当然そうすれば、救いの世界が広がってくる。そうしなければ、やはり救いの世界は広がってこないわけですよね。私たちが本当にイエス様を信じて、主とともに沈んで、主とともに恵みの世界に向かって歩む、そういう道を私たちが歩むか歩まないか、ということを私たちに問いかけているんだと思いますね。まあ、この洗礼の場面のところ、もうちょっと言うならば、水に沈む、ということは・・・イエスの洗礼の場面ですが・・・結局は十字架のことだというわけですね。というのは、あれは悔い改めの洗礼なんですよね。水に沈ということは。でも、イエス様は罪を犯していないので、悔い改めの洗礼を受ける必要はなかったわけです。じゃあなんで悔い改めの洗礼を受けたのか。人々の罪を背負ってですね。それは結局は十字架でイエス様が亡くなる・・・水から出るということは復活の恵みを表している。私たちは十字架と復活を越えて、やはり、主の恵みの世界を味わっていける、その恵みを、私たちは実感として、日々の生活の中で味わっていく・・・ちょうど今復活節に入っていくので、この、主の復活の恵みの力、それを私たちが信じて歩んでいけるかどうか、実際それが私たちに今も、今日も与えられてる恵みによって私たちが歩もうとするかどうか。信じる者には次のしるしが伴う、と。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る、というわけですよね。だかといって毒蛇はつかまないほうがいいと思いますが・・・。プロテスタントだったかカトリックだったか忘れましたが、みんなの前でですね、この箇所があるから、害を受けない、と言って、蛇にかまれてそのまま死んでしまったという説教者がいたという話がありますが・・・。もちろん、文字通りのこともありますね。使徒言行録ではパウロが難破した後にマルタ島かなんかで毒蛇にかまれるんですよね。で、皆、この人は嵐から救われたけど、結局罪人だから死んでしまうだろうと思ったんだけど、結局、振り払ってですね、何事もなくパウロは元気だったんで、逆に皆、パウロは神の人だと・・・。でも、私たちがキリストの恵みで歩んでいく中で、新しい生き方と、新しい言葉が語れるか、ということだと思うんですね。語れるか、というより、その恵みが与えられている、それを生きていこうとするかどうか、ということだと思いますね。毒蛇にはかまれるチャンスはそうないかもしれませんが、でも、この世界には、毒のある言葉とか、どこにでもあるので、もう、毒ある言葉を聴いただけでがっくり落ち込んでですね、その、毒にやられてしまって3日くらい立ち直れなかったりして・・・まあ、悪意のあるなんかですね、そういったものに傷つけられてですね・・・。私たちが神の恵みにより立つならば、やっぱりそういう心ない言葉であろうと、毒があろうと、それを跳ね除ける力が私たちに与えられている、ということですね。あるいは、いちいちそういう毒のあるものに振り回されて、いちいちあの人がこう言ったからとか、そういう毒に振り回されないで、私たちは神の愛を貫いて生きていくかどうかです。新しい言葉を語る、と言ってるわけですね、やっぱり私たちは新しい言葉を語らなければならない。いつも、恨み節みたいな愚痴ばっかり言ってる・・・としたら、新しい言葉じゃないと思います。やっぱり、恵みの言葉、感謝するとか、人をほめる、あるいは、ちょっとした親切な言葉を語るっていう、そうした新しい言葉を神の恵みの中で、語ってることだと思います。ちょっと、やはり、喜びの言葉を語るだけで、人間の気持ちはやはり変わりますからね。いつものように、なんか、愚痴ばっかり、文句ばっかり言うよりは、ちょっとほめ言葉とか、なにか今日一日の恵みだったことを、新しい言葉として私たちが語るように心がければ、あるいは、語るだけじゃなくて新しい言葉を聴いていくことも必要でしょうし、私たちは絶えずそのような神の恵みの新しさに招かれている。それは人間の力じゃなくて、復活の神の力によってだということですね。自分の力でやれということではなくて、そうだ、と。それができる、と、書いてある。その言葉を信頼して、私たちは新しい言葉と新しい行いを日々行っていく。それが、やはり自分も幸せだし、周りの人も明らかに幸せにしていくと思います。そうであるならば、少々の人間のくだらない毒かなんかに振り回されてですね、怒ったりする必要はないわけですよね。そのような恵みの世界を復活した主が保障してくださっている。それはなんのためかといえば、人々に愛を持って接しているかということですよね。それは自分のためだけじゃなくて、福音を宣べ伝えていくという、積極的な愛の生き方の中でこそ、新しい言葉や新しい生き方が広がっていって、私も力づけられるし、周りも力づけられる。神の国の広がりがあるということですね。もちろん、悪の力とか毒というものは、この社会にいっぱい、嫌になるくらい詰まってますが・・・ほんとにしょっちゅう電車が止まってですね、人身事故で、どれだけ多くの人が絶望しているか・・・信じられないくらい多くの人が絶望と苦しみの中で、電車に身を投げなければならない苦しみがあるわけですね。この世に毒が回って、今、日本人皆が毒にやられてですね、倒れかけていることも事実だと思いますが、だからこそ、イエスの復活の恵み、復活の力が私たちに必要。そしてその力によって私たちは、今日も明日も、新しい言葉と新しい生き方をしていく恵みが与えられる。それを心がけていきましょう、と、イエスが私たちを励ましているわけですね。人間の力ではなく神の恵みによって。それを私たちは信じていきたいし、こういうときにちょっと振り返ることによって、力というかエネルギーを少しは確認していけるんじゃないでしょうかね。そっちの方向性に向かうならば、やっぱりまた力がわいてきますよ。新たな恵みと力が与えられて、主の復活の力がもっと働いてくる。それを生きていける。このほんとに素晴らしい神様の力ですよね。できるとかできないとかいうのではなくて、与えられている。それをもとに心から信じて、日々の生活の中で生きていけるように祈りたいと思います。

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