テキスト版 マルコ福音書12章38-44節「隠れていて尊いもの」

マルコ福音書12章38-44節「隠れていて尊いもの」2009年6月6日ミッションスクールの教員の黙想会、鎌倉
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マルコ福音書12章38-44節「隠れていて尊いもの」2009年6月6日ミッションスクールの教員の黙想会、鎌倉

12:38 イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、

12:39 会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、

12:40 また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

12:41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。

12:42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。

12:43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。

12:44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

この世の評価ではわからないもの

今日の福音書はマルコの福音の、イエス様が神殿で教えておられるときの話です。

当時は大きなユダヤ教の神殿があって、その広場でイエス様が教えていらした。神殿の境内なので、賽銭箱があったわけです。日本の神社もそうですが、お賽銭を入れるわけです。そういう宗教的な行為をしていて、大勢の金持ちが、たくさん入れていたところで、一人の貧しいやもめがほんのちょっとお金を入れていた、という対比ですね。レプトン銅貨2枚、1クラダランスを入れた、とあるんですが、計算法によりますが、大体現代でいえば100円くらい。100円くらいのお賽銭を入れたわけです。お金持ちはどれくらい入れたか、ちょっとわからないわけですが。何万円か、何十万円か入れたかもしれない。ふたつの生き方が対比で書かれているわけです。そして、神様が何を見ていられるか。何を、私たちの中で評価しておられるかということです。

これは、私たちの現代の教育でもあてはまるわけですし、私たちの社会でもあてはまるかもしれないのですが、結局は大勢の金持ちたちがお金をたくさん入れたことがこの世的には評価される。10万円か、20万円か…。この貧しいやもめは100円だから、みんなどうとも思わない。でも、神様が見る目は、この人がどれだけの献金をしたかという量を見るのではなくて、その人の心というか、気持ちを見ているわけです。気持ちだけの問題じゃないですけど、イエス様は言うわけですよね。この貧しいやもめは賽銭箱の中に入れている人の中で誰よりもたくさん入れた、と。100円が、生活費全部を入れた、というわけです。乏しい中から自分の持っているものをすべて、生活費を全部入れた。100円が生活費だから、そうとう貧しい人だったということがわかるわけですが、でも、その値段を見ているんじゃなくて、心から、その100円を神に奉げたというところをイエス様は評価しているわけですね。逆にお金持ちは、年収が1億あったか、2億あったかわからないけど、そのうちの10万円、20万円寄付して全然懐も痛まない。でも、人から見れば、10万円も20万円も入れて、この人凄いと思われたかもしれない。

神様の目のつけどころ

私たちの物事を見るポイントをみることが大事だと思うんですね。ついつい私たちは、どれだけ仕事をしたかとか、子供たちだったらば、学校でいい成績をあげたとか、あるいは、スポーツでものすごくいい成績をとったら評価される。これは世間と同じわけですが…。でも、神様が見ているポイントは違う。やはり、自分の持ってるものを、評価されるとか、されないとかじゃなくて、認められるとか、認められないとかじゃなく、自分の小さなできることを精一杯していく。これが評価されているわけです。神の目から見たら。これは、ほんとうにイエス様らしい考え方、キリスト教的な考え方だと本当に思いますね。

自分なりに精一杯捧げる


やはりこの世界は結局はお金持ちが社会的に地位が高かったり、能力が高かったり、人から認められるとかですね、評価されるとか、結局私たちも場合によっては人の評価に振り回されたり、人の目に振り回されたり、あるいは社会的な基準で物事を見てしまって、それで喜んだり、悲しんだり。でも、大事なのは、貧しいやもめの態度ですね。自分の持っていりものを精一杯奉げていく。たとえ100円、たったの100円を真心こめて奉げられるかどうか。これしか書いてないからこれ以上のことはなにもわからないのですが、100円が生活費だった貧しいやもめに、神様は1万円の献金をしろとは言わないわけで、でも、この100円持ってる人がたった1円しか奉げなければ神様もがっかりしたかもしれない。この、貧しいやもめは精一杯奉げた、ということですね。これはなにか、光になるというか、そういう気がしますね。

背伸びせずに自由であること


思いますけど、多くの日本人は…皆さん、全員とは言わないけれど、多くの人は頑張りすぎてると思いますね。やりすぎている、というか。もちろん人によりますよ。怠けている人もいるかもしれない。まあ、それはわからない。しかし、多くの日本人は頑張りすぎていると思いますね。でも、この貧しいやもめは頑張りすぎているわけではない。100円の献金を、そうしろと皆に強制されているわけでもない。追い詰められて100円出しているわけではなくて、自分の持っているものを喜んで真心から神様に奉げるんです。誰から評価されているわけでもなく、誰から圧迫されているわけでもなく。まったく自由な行為で神に奉げて、この人は平安だったと思いますね。でも、それを神様が評価されてる。その、自分が持っているものを自由な心で奉げられるかどうか。大前提だと思います。結局、学校教育でもそうですが、勉強が得意でない子供に東大に入れと言ったって無理なわけで…極端な話ですが、でも、ある子供たちは東大に入らなければ自分はだめな子供だと、自己卑下している子が多いと思いますね。自分はだめな人間だと。でも、そういうことを神様が問うているわけではまったくない。けれども、自分の持っているたった100円を、心から喜んで奉げられる気持ち、寛大さというか、それを主は、神様は喜んでくださっている。


人間にはできることと、できないことがあって、できないことをしようと思うことはやっぱり意味がないと思いますね。自分ができることを、する、ということが素晴らしいことになるということは、間違いないと思います。貧しいやもめは100円奉げて神様が喜ばれた。これはほんとうに福音的な気持ちがして素晴らしい話だと思いますね。
自分自身、生活に疲れたというか・・・時々空回りして、疲れてしまって、落ち込んだりすることありますが、でも、この貧しいやもめの話を思い出すと、励まされる気持ちがするんですよね。別にたいしたことじゃない。100円だから。でも、まったくたいしたことじゃないことを丁寧にできてる。これは素晴らしいことだと思いますね。人によりますが、まあ、自分自身のことも、評価してあげたらいいんじゃないかと思います。自分がやってる精一杯のことを。自分で自分を認めてあげたらいいんじゃないかなと。そういう自分を。日本人の多くの人が、自分に対して言ってもらいたい言葉はなにかというと、頑張ってるとか、自分を認めてあげる言葉・・・「頑張ってるじゃないか」、というそういう言葉が一番言ってほしい言葉のひとつなんです。この、貧しいやもめを神様が評価されたことを、私たちは大事にしたいと思いますね。

聖ヨセフの生き方の素晴らしさ


特に、今日、このミサでとりなしを願いたいヨセフ様というのは、まったく沈黙だし、目立たない人なんですよね。目立たないけど、マリアの夫として、イエス様の父親として、大工として、自分のできることを淡々とされて、人からの評価とか、目立つこともなにもない。けれども本当に大事な仕事を貫いてされたわけですね。縁の下の力持ちみたいな。それがヨセフのよさ、というのか。別に世間的に評価があるわけじゃないけれども、やっぱり隠れた中で真実を生きていく。その素晴らしさは神様が一番ご存知。皆からの評価とか、関係なしに。こういうヨセフ様の生き方の素晴らしさみたいな。


みなさんも、こういうことを中心とされると、まずは自分が楽だということと、本当にずれないところに自分の真実を賭けていける。それは大きな喜びと、なぐさめ、力だということですね。そのような貧しいやもめとか、ヨセフ様が、隠れながら光っている。なんでもないようで、素晴らしい。これは、キリスト教のひとつの真髄だと思いますが、一番素晴らしいポイントのひとつだと思いますね。こういうものを、私たちも実践していけるように、全体として、そういうかたちで光っていけるように祈りたいと思います。

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