2008年11月23日マタイ25章31-46節「あなたは愛を生きたか」列福式を前にして 王たるキリストのミサ
25:31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
25:32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
25:33 羊を右に、山羊を左に置く。
25:34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
25:37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
25:41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
25:42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、
25:43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
25:44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
25:45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
25:46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

今日は年間最後の主日になるので、王であるキリストという主日のお祝いをしています。イエス・キリストは王である、ということですね。その、王であるキリストを祝うために、今読んだマタイの25章が読まれたんだと思いますが、王であるキリストが一番はっきりしているのは世の終わりですね。世の終わりになれば栄光に輝いて、天使たちをみな従えて来て、そしてその栄光の座につく。このときに王であるキリストがはっきりと現われる時だ、ということですね。

しかも、それはイエス様が、ほんとの王としてこの世に来られた時に裁きがある、というですね。そして、羊と山羊を分けるように、右側に正しい人々、左側に悪い人々、ということで、分けられるわけですね。まあ、この、裁きというか、これをどのようにとらえるか、なかなかこう、怖い気持ちがします。というのはですね、私自身は幼児洗礼ではなくて、大学生になってから洗礼をうけたんですね。で、その、洗礼を受けた後から、神父になることを目指したんですが、子供の時は仏教ですね、家が仏教の家だったんですね。で、仏教のお話でも、裁きが出てくるわけですね。それはみなさんもご存知かもしれない。仏教のお話では、人間が死んだら、閻魔様の前に…閻魔大王ですね、キリストじゃなくて、閻魔大王という怖い人の前に連れていかれるわけです。で、閻魔大王はですね、大きな帳面を持ってるわけですね。それを閻魔帳といってですね、その人は生涯でどういうことをしたかということがこのノートに書いてあるわけです。で、その閻魔大王はですね、その閻魔帳を見て、お前は生きている間人殺しをしたから、お前はこうだとか、嘘をついた人は針千本だったかな、盗みをした人はこの地獄、あの地獄と決まっていて、閻魔帳にみんな私たちのしたことが書いてあるわけですよね。で、それを見て、お前は血の海の地獄に行けとか、なんとか、地獄が決まるわけですよ。それが、閻魔帳と、閻魔大王という、恐ろしいものが待ってるんですね。ただ、その、仏教で言ってるほうが個人的にはなんていうかこう、わかりやすいっていうか…なにがわかりやすいというと、悪いことをした人が…嘘をついたり、泥棒をしたり、悪いことをした人が地獄に行くっていうのは、理屈的にはわからなくもない。で、今日のお話ですけどね、今日のお話はちょっと違うんですよ。だれが地獄に行くか、誰が天国に行くか。飢えている人、渇いている人や、旅をしたり裸であったり、病気であったり、牢におられたりする、そういう小さな人々に親切にしたかどうかで、地獄行きか、地獄行きでないか決まる、ということなんですね。だから、閻魔様の規準とちがうんです。こっちの規準の方がどっちかというと怖い気がします。なんでかというと、たとえば皆さんがですね、一生涯誰にも迷惑をかけないで、真面目に、嘘もつかなかったし、泥棒もしなかったし、悪いことせずに一生涯生きたというふうに…まあ、そういう人生送ったとして、この、最期の裁きの場に立った時に、そのことはマタイの25章ではカウントされてないんですよね。小さな人々に親切にしたかどうかだけが規準なんですね。地獄に行く人たちは、親切にしなかった人たちが行くんですね。これはね、非常に厳しい規準だということです。小さな人や困ってる人に親切にした人が天国で、親切にしなかった人が地獄だということです。だから、嘘もつかない、泥棒もしない、真面目に生きてきたからといって、天国に入る保障がないんです、このお話では。小さな人々に親切にしなかった人々は、いくら真面目に生きてきたからといって、天国に入らない。むしろ、地獄に行くんですね。人殺しをしたとかいう人が地獄に行くんじゃなくて、貧しい人や困っている人を助けなかった人が地獄なんですね。この規準は閻魔様の規準よりも、イエス様の規準のほうがずっと厳しいと思います。私自身は。真面目に生きた、とか、そういう人々は天国行きを保障されてないんですよ。聖書の中では。このことは私たちよくよく黙想しなければならないことじゃないかなと思うんですね。だから、ミサの時に、回心の祈りがありましたよね。「私たちは思い、言葉、行い、怠りによって」…つまり、するべきことをしなかったことが、イエス様から見たら罪にあたる、ということですね。私たちがほんとに、じゃあ、貧しい人や弱い人を大事にしたかどうか。周りの人に親切にしているかどうかは、私たちがよくよく問わなければならないポイントだということですね。前の前の…長崎の市長、本島市長でしたかね、彼もテロで撃たれた。カトリック信者の方だったんですが、撃たれた時の後の記事に、彼のインタビューが載ってて…彼は撃たれた瞬間なにを考えたか…彼は助かったわけですが…撃たれた時にやはり、おばあさんから言われたことを思い出した。つまり、自分は今まで、困ってる人や、弱い人に親切にしてたかどうか、ということが思いだされて、そのことが、意識を失う前に考えたことだった、と書いてあったんですね。それこそ、クリスチャンですよ。人に、愛を生きたかどうか。困っている人や、周りで苦しんでる人に愛を配ったかどうか。それで、私たちは裁かれるわけです。一番最期に。それで私たちは天国に行くか、地獄に行くか、決まるんですね。そのことを私たちは心に刻まなければならないと思うんですね。日本人はだいたい真面目な国民なんで、真面目にするってことは得意だと思うんですね。学校に行ったらちゃんと勉強するとか、信者になったら毎日曜日教会に来るとか、きちんとするとか、ちゃんとするとか、日本人は得意な国民で、それはいいと思うんです。でも、それはあまり救いには関係ないんです。愛を生きたかどうかだけが問われている、ということを、私たちは心に刻まないといけないんですね。今回、私たちCLCのメンバーが来たのは、明日の列福式のために来てるわけですが、明日の188名の殉教者の中に、今日の話にぴったりの方がおられるわけですね。それはやはり、長崎の殉教者のミゲル薬屋ですね。彼は、ミゼリコルディアという…今で言ったらボランティア団体だと思います。困っている人や苦しんでる人を助ける…そのような団体のリーダーだったわけですよね。僕はミゲル薬屋のことをだいぶお祈りして…なんか、商売やってた、商売人なんですよね。わりと、外交的で、明るくて、腰が低くて、丁寧で、多分とても世話好きだったと思うんですよ。困っている人がいたら助けずにはいられない。そういうタイプだったんで、彼はミゼルコルディアに入って、苦しんでる人や困ってる人を助けてたんですね。彼の、最期の罪状書き、けっきょく、つかまって長崎市内を、市中引き回しですよね、最期は火あぶりになったんですけど、罪状書きに書いてあったのは、この者は、貧しい人や苦しんでる人を助けていた、ってのが罪状書きなんです。貧しい人や苦しんでる人の中には殉教した人の残された家族や、潜伏している神父さんもいたので、それがきっかけだったわけですが、彼の罪状書きは勲章だと思うんですね。貧しい人や苦しんでる人を助けていた。それで、殉教してるんですよ。でも、王たるキリストの前に立った時に、それは勲章になったわけですね。ほんとにすばらしいことで、それが長崎の、皆さんの大先輩の人だったわけですね。わたしたちの誇りだと思います。日本の信者の、ほんとに誇るべき人のひとりだと思いますね。ただ、もちろん彼が殉教の時代じゃなかったら、皆さんとまったく同じ…ここに座って、いつも世話をしているような人で、この中に何人もおられるような方の一人だったと思うんですよ。別に特別だったわけでもなんでもない。ほんとにここに書かれてるとおり、困ってる人や苦しんでる人がいたら、丁寧にひとりひとりを助けていた、たまたま、彼は厳しい時代だったんで、それによって殉教したわけですが、でも、それは私たちひとりひとりが、だれでもできることです。毎日の生活の中で。日々の生活の中で。当然私たちは、多分、殉教しない人が多いと思いますが、特別それで責められることもないでしょう。でも、私たちは毎日毎日、いったいなんのために生きてるのか。クリスチャンとして。周りに困ってる人や、苦しんでる人がいれば、さりげないかたちでいいから、人々を助ける。それだけでいいんですよ。それを私たちがしていく。それだけで、イエス様が、最終的には天国だと言ってくださる。この、キリスト教の教え、素晴らしいと思います。全然難しくない。しかも、私たちが日々、できることです。その、積み重ねの中で、ミゲル薬屋は殉教したわけですよね。その、積み重ねの中で、私たちも最後にイエス様が、よくやったね、と言って、私たちのしたことを評価してくださると思います。そのために親切にするわけじゃないですが…私たちがイエス様を信じて、王様であるイエス様を信じて歩んでるわけですね。それは全然難しいことではない。今日一日、あるいはこの一週間、ほんとに周りに苦しんでる人たちや、そういう人をちょっと親切にしていく。その積み重ねが私たちの信仰で一番大事なことだということですね。今日の福音と、ミゲル薬屋が私たちにそのことを語ってくださっていると思います。今日のミサそして明日の列福式を通してわたしたちが本当に日々の小さな毎日のちょっとした親切、愛の行いを生きていけるように、このミサでお祈りしたいと思います。

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