テキスト版 ヨハネ福音書 15章9-17節「イエスの伴侶として」2009年7月30日

ヨハネ福音書 15章9-17節「イエスの伴侶として」2009年7月30日
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ヨハネ福音書15章9-17節「イエスの伴侶として」2009年7月30日 シスターの金祝・銀祝のミサ 長崎

9:父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
10:わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
11:これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
12:わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
13:友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
14:わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15:もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
16:あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
17:互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

今朗読したのは、ヨハネの15章、イエス様が最後の晩餐で弟子たちと過ごした時に、長いお別れの説教、告別説教、その中で話されたところが朗読されました。

「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」と、イエス様がおっしゃいます。
みなさんの場合は「友」以上のものとしてイエスが関わってくださった、ともに歩んでくださったんだと思います。友であるよりも、修道生活において、イエス様がみなさんを伴侶として、パートナーとして、というか、妻としてともに歩む。友よりももっと深い伴侶として、イエス様がみなさん一人一人を呼び、ともに歩んでくださっているのだと思います。

誓願25周年、あるいは、50周年という永い間、イエス様の伴侶としてみなさんが歩まれたということは、みなさんにとっても大きな喜びでしょうが、何と言ってもイエス様にとって大きな喜びであるのは間違いないと思います。私自身がイエス様に代わってお礼を言いたいです。25年間、あるいは50年間、イエス様の伴侶としてずっと歩んでくださったことに心から感謝したいと思います。

もちろん様々な苦しみや、辛いことがあったり、自分自身が神様から離れてしまおうとする気持ちになったこともあったかもしれない。いろいろなことがありながら25年間、あるいは50年間、イエス様の伴侶として歩んできたことを、イエス様がどれほど満足されていることか、どれほど大きな喜びでみなさんのことを見ておられるか、それを思うと胸がいっぱいになるような気がします。

25年といえば、結婚していれば、子供が大学生だったり、もう社会人であったりで、もう一仕事終えたあとでしょうし、50年となれば、孫が社会人か何かになっていて、それほど永い間の神様ともにある生活を過ごしてきた。そして、その中でイエス様の望みはたった一つです・・・

「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」

25年、あるいは50年を通してどのような喜びを主から頂いたか、その喜び、恵み、それをかみしめられたらいいと思います。

夫婦になって結婚生活をする中でも様々な喜びがあると思います。苦しいこともあるでしょうが。
しかし、修道生活の中でイエス様を伴侶として歩んだ方々が与えられる喜びがどれほど貴重なもので大きいものであるか、やはりそれは皆さん方一人ひとりが心の中で感じられている喜びだと思います。

イエス様の望みは私たちと喜びを分かち合いたいことです。当然苦労もしなければならないけれども、苦労自身が目的ではなくて、苦労を通して、イエス様とともに様々なことで喜びを味わうということです。これが私たちに与えられているもので、決して忘れてはならないと思います。
25年や50年という区切りの時もそうでしょうが、日々の生活の中でイエス様と分かち合う喜び。イエス様は、この世のどんな男よりも素晴らしいと思います。間違いなく。時々結婚した奥さんが、ご主人の不満を色々私のところに言いに来ることが多々ありますけれど、私が言うのは、あなたの満足できるような人はいませんよ、普通の男じゃ無理ですよ、と・・・別に男性側の弁明をしているわけではないですけど、イエス様以上の人はいないわけです。そのイエス様と、パートナーとして日々歩んでいけるということですね、これ以上大きな喜びはこの世にありえないと思います。
それが、全ての人ができるわけではなく、イエス様の方が選んでいる。みなさんが望んだというより、イエス様がここに居てほしいという、伴侶になってほしいという呼びかけがあったからこそみなさんがこのような道を歩まれているわけです。そのイエス様の満足と喜びを、こういう時に思い起こして頂いたらいいと思います。

いろんなご夫婦を見ていて、非常にうまくいっているカップルもあれば、うまくいかないカップルもあるし、結婚して以来一度も喧嘩をしたことがない夫婦というのもおられるんです。全体の10%以下、いや、5%以下かもしれませんが。それはそれで驚きですけれども、逆にいつもいつも喧嘩しているのが30%くらい。他は、喧嘩したりしなかったり。組み合わせによって色々あるでしょうが。。。でも、どういうカップルであっても25年、50年経つと、だんだん似て来るのです。似た者夫婦というか、性格も違うし顔つきも違うんですが、永年ともに歩むほど、だんだん性格も似てきて、喧嘩してもしなくても、だんだん似て来るのです。こういったらなんですけれど、夫婦が並んでいるのを見て全く似ていない夫婦は大体仲が悪くて・・・仲がいい夫婦は、パッと見たらきょうだいのように見えるというか。
皆さん方もそうだと思います。イエス様と似た者夫婦、よりイエス様と似たものになって来る。長い間をかけて少しずつ。それは、自分らしさを失うわけではないけれど、見るだけで、イエス様との親しみがある、仲がいいことが伝わって来るような感じがする、そういうのが理想だと思います。場合によってはマリア様の雰囲気があるということもあるでしょうし。ともに歩んで、毎日ミサやお祈りをしているのですから、イエス様やマリア様に無意識的に、自然に似て来るような感じ、それが私たちの一番大事な点だし、それを人々が見て、イエス様やマリア様を見出すのだと思います。
改めて今まで歩んできた中で、親しくなったイエス様、マリア様に、どのような自分が関係があって、どのように歩んでいきたいのかということを噛み締めていただいたらいいのではないかと思います。

時々、長崎に来ることがあるのですが、長崎に来るたびに思うのは、日本のクリスチャンの故郷ということです。私は大学生で洗礼を受けて、成人洗礼ですし、両親も信者ではないので…家族の中で信者は未だに私だけなので、なんとなく「自分だけが信者なのだ」という気持ちがどこかあって、そのあと、イエズス会に入ってあちこちに行くわけですけど、それでも「自分だけが信仰者だ」という気持ちがどこかするのですが、長崎に来ると、去年の列福式もそうでしたが、巡礼地とかキリシタンゆかりのところに行って思うのは「ああ、自分のルーツはここだ」ということを本当に感じます。
自分の信仰が今ここにあるわけではなくて、日本人の多くのキリシタンたち、殉教者たち、様々な人たちの信仰の歴史の上に立っているということを、長崎に来ると、非常に強く感じます。私たちの信仰は自分だけで成り立っているわけではないことをしみじみ感じます。450年くらい前からの日本人の大先輩の信者たち、宣教師たち、日本人の神父さんたち、大多数の信徒の人々…多くの人たちを思い出すと、自分の根っこというか、それがそこにあるということを強く感じて安心します。大きな流れの中に自分もいる、ということを感じます。

皆さん方、長崎純心聖母会の皆さん方に会うと、いろんなことを感じます。長崎の長い伝統の上に皆さんが立っておられる。会としては75周年かもしれませんが、もっと長い歴史の上に立っておられる。皆さんが、25年、あるいは50年という修道生活もそれだけではなくて、長い長い歴史の中に育まれた信仰である。その歴史の上に立って、私たちの修道生活が成り立っているということも、思い起こさなければならないことの一つだし、だからこそ、私たちの今がある、伝統や長い歴史自身が私たちの誇りだと思います。私たちが寄って立つ本当の恵みの基礎だと思います。
その基盤に立って、新たに生きなければならない。50周年目の方は51年目、25周年の方は26年目、長い長い歴史の中のさらなる一歩を私たちは歩んで行くということです。それは、言葉で言えば、「創造的忠実」という修道者の持つべき愛です。「忠実」である、ということは、長い長い歴史の中に自分もいる、過去の恵みの中に私たちもいて、その恵みを大事にして行く。長崎純心聖母会の創立以来の良さを生きていかなければならない忠実さが必要だと思います。固有の家風というか、カリスマと言ったらちょっと硬い…家風というか、その家のやり方がある、それに忠実でなければならない。それは流れの中にあるわけだから…。プラス、その忠実さの中に新たなものを乗せて行く、単なる繰り返しではなくて、状況も時代も、流れも違うわけですから。いただいている伝統と恵みに忠実でありながら、創造的に、新たなものとして、新たな恵みを築いて行くよいうことも大事にしないといけないと思います。永遠に変らない伴侶としてのイエスさまとともに。

50年といえば、すでに戦後に入っていて、そろそろ経済成長時代に入っていたと思いますが、この50年間、25年間は、日本が上り調子で、日本がどんどん復興して行く、長崎の街も、原爆の傷から立ち直って行く成長の時代だったのではないかと思います、50年を取っても、25年を取っても…。ただ、これからの25年、50年はわからない、もっと厳しい混乱の時代混迷の時代が訪れるかもしれない。実際のところ、日本の教会全体が、修道会もそうですけれど、だんだん力を失って来るわけですし、無縁化とか、これからだんだんは今までの50年、25年よりも大変難しい、そういう時代が来ることをむしろ覚悟したほうがいいような気がします。日本の社会と教会が大きく変わることも想定しなければならない。その中で、私たちは、創造で忠実だから、先輩たちの恵みの中にある。これからさらに時代を合わせて、より良いものとして、伝統の前に屈むものとしてチャレンジが私たちに与えられているのだと思います。それはまた、苦しみかもしれない。しかし、同伴者であるイエスさまともっともっと喜びを分かちう、そういう可能性も秘めているかもしれない。

この25周年、50周年は大きなお祝いですから、今までの恵みを心から感謝して、今まで忠実に歩んでくださったイエスさまを賛えながら、私たちが未来に向かって、心を込めてイエスさまの伴侶として歩んでゆけますように、このミサでお祈りしたいと思います。

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