テキスト版 ルカ4章16-22節「神のマニフェスト」

ルカ4章16-22節「神のマニフェスト」
hanafusafukuin

ルカ福音書4章16-22節「神のマニフェスト」2009年8月1日癒しのミサ、東京

16:イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
17:預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
18:「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、
19:主の恵みの年を告げるためである。」
20:イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
21:そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
22:皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」

今朗読したのはルカの4章です。イエスさまが公生活を始められるごく最初の時の話ですが、故郷のナザレに行って安息日に聖書を朗読されたのですね。当時の会堂というのは、イメージではプロテスタントの聖堂のような感じで、トーラという、聖書が置いてあって、それを誰かが読んで、説教されたのだと思われます。

ここでイエスさまはイザヤ書を朗読したわけです。それは自分自身がどういう者であるか、これから何をするかということをみんなに語った箇所であるといわれています。いわゆる就任説教といって、これからメシアとして活動を始める最初の説教であったと言われています。

彼は、何と第一声をしゃべったか。「貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれた」主が私をメシアにされたのは、貧しい人に福音を告げ知らせるためだ、と言うのです。イエスさまがなさろうと思ったことは、ただ、この一言で要約できるのです。貧しい人に福音を告げ知らせることだ、と言うのです。

私たちはこのイエスさまの福音を聞くか聞かないか…心から受け入れるか、と言うことだと思います。

福音と言うのは一体何なのか。たった一言で言えるとしたら、「神の愛」ということだと思います。

神様は私たちを愛している、と言うのが福音の内容です。福音と言うのは英語で言ったら”Goodnews”、良い知らせ、それを私たち一人一人に告げたわけです。これを私たちがまず、信じるかどうか。
福音というのは「タダ」なのです。実は昨日役所に行って、定額給付金をもらってきたのですが、私は個人の銀行口座を持っていないので、役所まで行ってもらってきたのですが、あれは、ある意味タダなのです。日本人全員に配られたわけですが、福音というのはそれ以上のもので、しかも、皆んなに…、実はみんなではなくて、「貧しい人」と限定されているのですけど、貧しい人だけに、イエスさまは福音を告げ知らせたのです。定額給付金も、お金持ちにも配るかどうかでもめて、結局皆んなに配ることになったわけですが、福音は、貧しい人だけに、全くタダで私たちにくださるというものです。
「タダ」だ、というところがミソなのです。街中で、ただで配っているものは結構怪しかったり、危なかったりする。うまい話には裏がある、じゃないですが、「これだけ儲かる」と言ったら大抵皆、危ないと思うわけです。

しかし、神様が福音をタダで私たちにくださる、というわけで、これを信じるかどうかということですね。

特に、皆さんたちが病気で苦しんでいたり、色々あると、なかなかこれが信じ難い、ということがあると思います。実際、旧約聖書でははっきりしているのです。神様に祝福された人は羊がたくさんいて家族がたくさんいて、健康で、皆幸せで、そういう人は神様から祝福されていて、お金がなくて病気で、貧乏で、子供のいない人、子供のいない夫婦というのは祝福されていない、神様の恵みをもらっていない。だから、貧しい人というのは基本的に神の恵みがない人で、お金持ちで、健康で、社会的地位も高い人は、神の祝福がたくさんあるというふうに考えられていました。でも、イエスさまの場合は逆で、貧しい人だけに福音をくれるというので、ひっくり返っているわけです。それを私たちがまず、信じるかどうか、ということが、キリスト教の根本だと思います。

というのはなぜかというと、多くの人は「ふさわしくない」と何処かで思っているのです。
「病気になってしまった」としたら、何か自分が悪いことをしたからだとか、自分がダメだったからじゃないかとか、考えるわけです。どこか何かがまずかったんじゃないかとか、神の祝福が足りなかったから、何かの理由で罪を犯して、そうなって自分はこうなってしまったのではないかと考えがちです。

でも、イエスさまがそういうようなことを言っているところはどこにもありません。言っているのは「貧しい人に福音を告げ知らせる」ということだけです。

彼がどういう人を好きだったのか、イエス好みの人は…彼は、貧しい人と、病人と、罪人が好きだったのです。聖書の中ではっきりしていますが、もちろん、お金持ちを嫌っていたわけではないけれども、彼が特別好きだったのは、貧しい人と、病人と罪人です。だから、まさしく、その宣言なのです。貧しい人に福音を告げ知らせるためだと。もっと詳しく言えば、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にする、ということです。
口で「いいことがありますよ」というだけではなくて、そうした、ということです。
これが、政党などのマニフェストと違うところです。ああいうのは半分くらいは口だけで、全部できるとは誰も思っていないわけで、たとえ、オバマ大統領が就任演説で素晴らしいことを言ったとしても、人間がやっていることですから、全てはできないわけです。

しかし、イエス様は「そうする」という言葉と行いが一致しているわけですから、貧しい人に福音を告げる、と言ったら、実際、福音がいただける。それが「解放」であったり、「視力の回復」であったり「自由」であったりする。それを主が私たちにくださる、と約束してくださって、しかも、「この聖書の言葉は今日あなた方が耳にした時実現した」と書いてあります。このイエスの言葉は実現している。それを私たちは信じるからこそ、ここに集まってきて、神様に恵みを願っているのです。

一番大事なのは何かといったら、自分が貧しい者であることを認めること、つまり、貧しい人に、と言っているのだから、これはリップサービスではなくて、「そうだ」と思って受け入れるかどうかなのです。

ここの場合はどうかといったら、ここに集まったナザレの人々、ほとんどユダヤ人が、「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。この人はヨセフの子ではないか」と言ったわけです。子供の頃から知ってる、つまり、この人たちは信じなかった、ということなのです。あまりに話が良すぎて。しかも、(よく知っている)イエスという人があまりにうまい話をしているので、この人たちは残念ながら信じなかったのです。「ヨセフの子じゃないか」と。
マルコの福音書では、イエス様はあまりにも故郷の人たちが不信仰なのであまり病気を癒すことができなかった、と書いてあります。他のところではいっぱい病人を癒したのに、ナザレではできなかったのです。皆、不信仰だったから。イエス様の本当に素晴らしい福音を信じなかったのです。「ヨセフの息子が変なことを言い出した」とか。でも、言葉は素晴らしかったので、恵み深い言葉に驚いた、ということはあったのでしょうけど、驚いただけで、信じなかったから、結局はナザレではダメだったのです。結局イエス様と口喧嘩になって、最終的に「これを聞いた会堂内の人は皆憤慨し、総立ちになってイエスを街の外へ追い出し、街が立っている山の崖まで連れて行き突き落とそうとした」と。就任説教だったのにすでに殺されそうになっている。せっかくお恵みの話をしたのだけれども、ナザレの人々は馬鹿馬鹿しいと言うだけではなく、くだらないことを言っている、と言ってイエスを殺そうとした。最終的にはイエス様は十字架で殺されてしまうわけですが…
なんともったいないと言うか、せっかく恵やら癒しがたくさんあるのにナザレの人は信じなかったので結局は何もせずにイエス様は去って行ってしまった。私たちも、ナザレの人のように、信じないで、そんなことは無理だとか…、もちろん奇跡があることは稀かもしれない、でも、イエス様がこうおっしゃっている福音を私たちが本当に心に入れて、神様から愛されている者として、神様からいただく解放と自由を生きて行こうとするかどうか、やはり素直な心が一番必要とされている。これが、「貧しい人に福音を」ということだと思います。
マリア様が時々あちこちに現れたりしますが、大体、ベルナデッタとか、無学な子供とか、大体貧しい人に現れているのです。お金持ちとか学者とか、神父さんとか。そういうとか信じない、バカにして信じない人には現れません。

本当に大事なのは、私たちは貧しい者として神様に本当に恵みを願うかどうか、そしてその恵みを生きていこうとするかどうか。

私たちに神様が与えられる癒しというのは、色々な人を見ていて思うのですが、様々です。肉体の癒しもあるし、心の癒しもあるし、霊の癒しもあります。深いところが神様に繋げられるような。癒しといっても深さと広さと、人さまざまで、全く違うけれども、その恵みを素直に主に願うかどうか、それを貧しい者として、主がくださるものを受け取れるかどうか、それが私たちに問われていることだろうと思います。

神様は、私たちに恵みを与えたくて仕方がないのです。神様の性格からして、私たちに恵みと力をいつも与えたいとものすごく思っておられる。

でも、結構、人間の側が横向いてたり、いりませんと言っていたり、コップに蓋していたり、神様がせっかく恵みを注ごうとしても、注ぎきれないのではないかという気がします。
残念ながら。特に私たちは、20世紀、21世紀という、あまりに理性中心で合理的に物事を考える癖がついてしまって、貧しくて素朴な信仰を持てない、そしてイエスのしたことを疑ったりということになるのではないかと思います。
私たちがナザレの人のようになるのは悲劇です。イエス様が来て、説教までしてくれているのに、殺そうとして追い出したりして、本当に残念だと思います。
今でも私たちがそういうことであれば、イエス様が恵みを注ごうとしてもできないことがあると思います。

神様の願いはたった一つです。私たち人間が救われることです。地球上の人々が全員救われることが主の願いです。一人でも地獄に落としたり不幸になることは願っていません。それだけは間違いない。

その神様の心を自分の心に入れて神の愛を生きていこうとする、その心の開きがあるかどうか。どうせ、とか、もうダメじゃないかとか、神様は一体何をしているんだろうかとか、もう、自分はダメな奴だとか、周りの奴はダメな奴だとか、そう言っていても何もならないし、絶望的な気持ちになって、眠れなくなったりということもあるかもしれないですが、それは自分の気持ちです。自分の側から見た。
神様の側から見たらはっきりしていると思います。一人でも多くの人を助けたい。信者であろうがなかろうが。全ての人に恵みを与えたいということは間違いないと思います。

そのイエス様に信頼しましょう。願ったことをすぐに叶えてくださるかどうかは別ですが、私たちが寛大にイエス様を信じるならば、必要な恵みを与えてくださらないわけがないです。
私が言ったところでそれは人間の言葉ですが、イエス様が言ったのだからイエス様を信じる、それだけで十分だと思います。
イエス様を信じて、一人一人今日のミサでも、自分の人生の全体でも、イエス様がいつも豊かな恵みを与えてくださる、その恵みを信じて前向きに神様とともに喜びのうちに歩む恵みを願いたいと思います。

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