ルカ8章4-15節「神様の種まき」 2009年9月19日 黙想会

4:大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。
5:「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。
6:ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。
7:ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。
8:また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。
9:弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。
10:イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、/『彼らが見ても見えず、/聞いても理解できない』/ようになるためである。」
11:「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。
12:道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。
13:石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。
14:そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。
15:良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」

黙想会はこのミサまでということで、皆さんも日常生活に戻るわけですが、私自身皆さんとともに祈りを共にして、励みになり、力づけられるような気がしました。
時々、講話の中でテレジアのこととか話しましたけど、イエズス会の修練者から神学生の頃。イエズス会の書物だけでは物足りなくて、ミッションとか、そういうことはいいのですが、神様との交わり、内的な生活のためにはどうしても物足りない気持ちがして、アビラのテレジアとか、十字架のヨハネとか、リジュのテレーズの本などを読んで、それが一番の内的糧となりました。神との交わりを助けてくれるものだったのです。
特に一番助けられたのはリジュのテレーズで、修練院の時の自分の苦しい時、彼女に一番助けられて、すさみを乗り越えたことがありました。
神学生になってからもカルメル会の聖人たちの力づけられて、神様との交わりに助けられたと思っています。ある時期はあまりにもイエズス会の言っていることがピンとこないのでカルメル会にかわろうかと思ったりしましたが、神様がかわれと言っていいるとはあまり感じなかったので、それは実現しませんでした。しかも、神学生の時、ある時夢を見て、リジュのテレーズが夢に出て来て、テレーズが私に言うには「私はイグナチオの霊操によって養われました」ということを私に言ったのです。歴史的に言ったらちょっとありえないと思うのです。イエズス会員と接触する機会もなかっただろうし、霊操することもなかったと思いますが、夢の中でははっきりとそう言ったのです。
それは私へのメッセージだったのだと思います。あまり会の霊性にとらわれないで、イエズス会なのだからそのまま行きなさい、ということかと。それから私の中でもあまりこだわりがなくなって、イグナチオの霊操も素直に受けられるようになりました。もちろんカルメル会の伝統的な霊性も大好きで、自分なりに糧にしています。
イエズス会に入ったのも、たまたまで、イエズス会の学校に行っていたので、イエズス会の神父さんを知っていたので、深い理由があって入ったわけではないのですが、今は神様が呼ばれたのだと思っています。

やはり、神様の寛大さ、というか、教会の恵みの大きさというか、そういうものの中で私たちは養われていると思います。

今日の種まきのたとえですが、種をまいて、道端だったり、いばらだったり、良い土地であったり、いろいろであるわけですが、私は、土地がどうのこうのと言う以前に、神様が種を寛大にまいておられるというところに一番心が惹かれます。

普通の農業をする人だったら、良い土地だけに巻くのが普通で、実りのあるところだけにまいて、わざわざ道端にまいたりしない。石地のところにまいたりとか、ありえません。
神様は良い土地だけにまいているのではなくて石地であろうと、いばらであろうと、どんなところでも、芽が出ようと出まいと、いろんなところに神様がまいてくださっている。

どちらかと言うと、この話は神様の寛大さに心が打たれます。

種も色々、アビラのテレジアとか、リジュのテレーズとか、イグナチオの種もあれば、アシジのフランシスコの種もあれば、いろいろな種を寛大にまき続けてくださる。それを、誰であってもその糧を得て、誰しもそれを自分の栄養にして・・・マザーテレサにしてもそうですけど、全世界の宝だと思うし、多くのクリスチャンでない日本人も、マザーテレサのことはよく知っている。そこに神様が、マザーテレサを通して寛大に種をまかれているのだとおもいます。
それを、わかる人はわかる。わからない人はわからないのでしょうが。

私たちにまいてくださっている神様の多様さと豊かさ、そしてその広がり、私たちが宣教することも超えて神様がたねをまき続ける神様に信頼していきましょう。
神様はケチな方ではない、むしろ、有り余るものをいつも皆と分かち合おうとして、いろんなかたちで私たちに分かち合ってくださる。だから私たちも与えられたものは恵みとして、それをなるべく育てるように祈りにおいてもしなければならないし、周りの人にも、教会の本当に大きな恵みを与えてくださっている神様を、私たちも人々に分かち合っていく勤めもあると思います。
神様は実りを期待していないとは言い切れない。まいた種がなるべく実って神様に栄光を帰すような生き方を私たちがするように望んでおられるのも確かだと思います。一人一人違うし、会によっても違う。でも、会が違うことを超えて神様の恵みが働いている。それを私たちが受け取って、私たちなりに育てて人々と分かち合っていけるように祈りたいと思います。

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