ルカ福音書8章19-21節「大いなるイエスの心への巡礼」2009年年9月22日巡礼のための黙想会、鎌倉にて

19:さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。
20:そこでイエスに、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。
21:するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。

イエス様自身の家族は一体誰なのか。実際イエス様に母上とご兄弟(カトリックでは従兄弟ということになっていますが)が、来たわけです。イエス様にも当然、家族や親族はいたわけですが、イエス様は肉親の繋がりにあまりとらわれていなかったことが今日の福音書ではっきりとしていると思います。

イエスの言葉は「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と、はっきりと、イエス様につながっている者は、血の繋がりではないということをはっきりというわけです。その、意味、大切さというのは、よくよく黙想する価値のあるものです。

外国でも日本でもそうですが、血の繋がりというものはとても大事で、当時は特にそうだったと思います。社会保障とか、社会福祉がほとんど無かったので、家族が助け合って生きていく以外になかったのです。年金もなければ健康保険も無い。国が補償してくれることは何も無かったので、家族が、一族が助け合って・・・部族、ですか、助け合っていかなければならなかった。イラクなどは未だにそうですが、部族社会で、お互いが助け合って、敵から守らなければならないし、警察もどれだけ信用できるかわからないから、血の繋がっている者で結束して助け合っていくことが全ての基本の生き方なのです。イエス様の頃は、今の時代よりももっと、家族ということが重要であったわけです。

その中で、イエス様が血のつながりを超えた繋がりということをおっしゃったわけで、革新的だったと思います。
もし、この時イエス様がこれを言わなかったら、今頃、イエス様の兄弟の子供が代々キリスト教を継いで、イエスの子孫が血が繋がっているだけで尊敬されたりしていたのではないでしょうか。親鸞の子供が東と西の本願寺に分かれて未だに直系で王様のようになっているような、そうなった可能性は十分あります。そこは幸いだったことに、パパ様は選挙で選ばれて、血の繋がりとか言っていません。それを超えて行く、私たちのつながり、これは非常に大きな問題です。一つの家族だけの問題ではない。
結局、ユダヤ人である、ということは血の繋がりなのです。未だに異邦人とユダヤ人が結婚した場合、母親がユダヤ人だった場合、子供はユダヤ人だと認められるのですが、お父さんがユダヤ人で、お母さんが異邦人の場合は、子供は異邦人で、ユダヤ人ではないのです。アラブ人はアラブ人で血の繋がりがある。
血の繋がっていないもの同士で喧嘩をするのです。パレスチナ人とユダヤ人の喧嘩にしてもそうなのです。私たちにしても、日本人の血だとか、韓国人の血だとか、私たちも同じです。区別したり、喧嘩したり。そういうことで、永遠に喧嘩をしている。
それを、血の繋がり、地縁、民族を超えて、神のもとに繋がっていけるか。これは未だにチャレンジだと思います。ユダヤ人とパレスチナ人の非常に悲惨な戦いも、全く他人事だとは言えません。私たちはどこかで党派を作って、敵と味方、身内と、そうでない人たちと分裂し合っている、この社会、世界。カトリックとプロテスタントと喧嘩をしていたり、ギリシア正教会と対立していたり、キリスト教の中でも対立しているし、どこまでいっても違いを主張している社会というのは、人間の肉的な本性です。神様的なものではなく。

でも、イエス様はそれを超えた立場を取っておられる。神の言葉を聞いて、それを行う人たちこそ、家族の繋がりがある、と。
そこに私たちの気持ちを向けて行く必要性はあると思います。しかし、その立場には恵みなしには向かえません。神様を中心にした時に、我々がどのように行動して、どういうふうに繋がっていけるか。

今日の第一朗読はエズラ記ですが、この話は、第二神殿の建設の話なのです。第一神殿はソロモンが建てて、第二神殿がダリオス王の時代に、預言者ハガイとか、ザカリアの預言に従って建築をしていく。完成するのが、ヘロデ大王の時です。結局それはローマ軍に滅ぼされたので、ユダヤ人たちはいま第三神殿を造履帯と思っているわけです。これは、私たちクリスチャンにとっては、ある意味、どうでもいい、わけです。

私たちの神殿は誰なのか、イエス様自身が神殿。イエス様自身が私たちの神殿です。

ヨーロッパに行って、キリスト教の教会がすごいとかなんとか言っても、本当はそんなことは関係がないのです。私たちの本当の神殿はイエス様で、そのイエス様のもとで繋がっていく、本当の神殿を築くように私たちは今も呼ばれているのです。
実は、私は、イスラエルが好きなのは、キリスト教の変な大聖堂がないからなのです。笑。もちろん祈る場として大きな聖堂があっても構いませんが、私たちの神殿はイエス様ですから。教会というものがあろうが、なかろうが、私たちはイエス様を信じて、イエス様の体を建築していく。

お互いが助け合って、神の国を造っていくことこそ、私たちが神殿を建設していく最大のことだと思います。

私たちは、そういうものに向かって巡礼をしなければいけないと思います。もちろん、一人一人の願いとか、思いとか、ありますが、本当の意味で神の国を造っていくために、私たちの巡礼もある、ということです。
大いなる人類の和解のために、平和のために向かっていかなければならない。本当の意味でイエス様の望む社会、共同体を私たちが築いていけるように呼ばれていると思います。一人一人は、もちろん、力も弱いし、大したことはできないですが、小さな祈りと、場合によっては犠牲を捧げながら、周りの人に愛の奉仕をしていく時にこそ、イエス様の願いが叶えられていくと思います。
このようにイエス様が大事にしていることを私たちも大事にして、私たちが協力者としていけるように、この、大いなるイエス様の心に向かって巡礼の旅をできるように祈りたいと思います。

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