ミッション 2030 と 祈りを深めるセミナー
ニューズレター No.2  2017年6月30日発行 >>PDFファイルはこちらから

1.神との生きた交わりを深めるために(英神父)
1-1:毎月の祈りのカード:糾明から究明へ
祈りのカードは聖イグナチオの『霊操』を応用して作っています。先月は『霊操』 24 番から 26 番の特別糾明を簡単にして作ったものです。6 月のカードは、『霊 操』43 番一般糾明をもとに作りました。
第二バチカン公会議の前は罪の糾明にポイントが置かれていましたが、いまから 40 年ほど前に米国イエズス会のアッシェンブレナー神父(Fr.G.Ashenbrenner
S.J.)は神の恵みを中心とした「意識の究明」(Examination of Consciousness) を広く普及させました。これは糾明が罪を問いただす面を強調していたのと違っ て、究明によって日々の生活のうちに神さまの働きを見出していくようにするものです。
今回はこの「意識の究明」の簡単な方法を説明します。イグナチオ・デ・ロヨラ の考え方は忙しい生活をする現代人によく当てはまります。彼がイエズス会を始 めたときに、中世からの修道院に由来する多くの慣習を廃止したのですが、そ のひとつとして、長々とお祈りすることを止めました。その理由は 1 日に7回も 聖堂に集まって祈りをささげていたら(トラピストなどの観想修道会のように)、 活動する時間がなくなるからでした。
現在イエズス会員は1日に1時間の黙想することが義務になっています。しかし イグナチオ自身は絶対に 1 時間しなければいけないとは考えていませんでした。 あまりに忙しい時や、病気の時など、1 時間の黙想を省いてもよいと考えていました。その代わり究明だけは 5 分でも 10 分でも毎日必ずしなければならないと 考えていました。何故でしょう。イグナチオは日常生活の中で神さまのみ旨に従って生きているかどうかが、ほんとうに大切なことであると思っていたからです。
今年の『ミッション 2030』のテーマが「祈りを深める」となっていますが、これはたんに深めるということだけの話ではなく、私たちの生き方が神さまとの生き た交わりとなるようにという意味なのです。だから、毎日、短い時間でも究明によって、1 日をふりかえることはとても重要なことです。少なくとも寝る前に、 今日 1 日自分の生活が神さまのみ旨にかなっているかどうかをふりかえり、軌道 修正をする時間を取ります。これはイグナチオの霊性の肝であり、まさに中心な のです。ですからみなさんにも実践することをお勧めします。
朝、今日 1 日こう生きていきたいと願い、夕方あるいは寝る前に 15 分ぐらい、 無理であれば少なくとも 5 分かけて 1 日をふりかえり軌道修正をしてみてくださ い。これが祈りのカードの意味しているところです。これはイグナチオの霊操の精神そのものをみなさんも実践して見たらどうかということを勧めているのです。
特別糾明のところでは朝、昼、晩と1分ずつと勧めていましたが、ここでは15分 あるいは 5 分間、みなさんの生活の中でこの時間をとる工夫をすることがポイントになります。
ふりかえり方ですが、一般に祈りとは神さまと私の間にあって私から神さまへお 願いをすることと理解されていることが多いようです。これでは一方的で、交わ りにはなっていません。祈りは神さまと私の生きた交わりを観ていくこと、つま り神さまが自分にどのように働きかけたかを観ていくことなのです。
長い祈りの中でということもありますが、実際は日常の生活の中で神さまが私に 直接働きかけたこと、仕事や人を通して働きかけたことを通して神さまのみ旨を 見出していくことが大切になるのです。このことを『ミッション 2030』では「信仰と生活の統合」と表現しています。日々の出来事を通して働きかけている神さまの動きに気づくことなのです。
嬉しいことも悲しいことも一瞬のことで、すぐには考えることにはなりません。 ですから 15 分が無理ならすくなくとも 5 分はかけて、ふりかえることが望まれ ます。一番大切なのは月曜日から土曜日までの日々の生活の中でどう神さまの働きを見出していくかということです。
これが肝心なことですが、究明といっても分かりづらいでしょう。ですから今回、 簡単なことばを通して究明のやり方を紹介していきます。つまり「ありがとう」、 「ごめんなさい」、「お願いします」ということばを通してふりかえります。そう するとこれをきっかけとして具体的なことが分かってきます。
「ありがとう」については、日常生活のゴチャゴチャしたなかで何がお恵みだっ たのか、今日ラッキーだったことやよかったことなどを思い起こすことによって、 何が神さまの働きだったのか少しずつ分かってくるようになります。

つぎは「ごめんなさい」。失敗したこと、だめだったこと、心の中でゴチャゴチ ャしたことなどあると思いますが、自分自身に対してというよりも神さまに対し て何が「ごめんないさい」なのか分かってくるようになります。
最後に「お願いします」。神さまに「ごめんなさい」と思った点をどう克服して いくか、あるいはどのように解決していくか考えて、お願いしていくわけです。 自分に必要な糧を願うということですね。
そうしたら、朝、その「お願い」をして、夜か寝る前に「ありがとう」と「ごめ んなさい」についてふりかえり、このサイクルで日々実践していきます。
もちろんこれを実行していけばよいのですが、ノートやメモの形で残していくの が効果的です。イグナチオもノートをつけていたと言われています。何が「あり がとう」なのか、「ごめんなさい」なのか、何を「お願いする」のかを書きます。 なぜなら、そうすることでポイントをしっかりと意識化できるからです。
これは私の究明手帳です(英神父自身の究明ノートを実際に皆に見せている)。 大学時代指導司祭から教えてもらい、以来約 35 年間、ほぼ毎日手帳に記録し読 み返しています。たとえばそれぞれの点を書くとき色を変えて書いてもよいと思 います。とにかく書くことと読み返すことによってポイントが明確になってきま す。毎回ビッシリ書かなくても結構です。書ける分だけで十分です。継続が力と なります。
日常生活の生き方や仕事の仕方が神さまのみ旨にかなうようになることが大事 です。だからイグナチオの霊性は、この世をすべて捨ててただ神と一致するとい う垂直的なものではなく、日々生活の中で神との交わりを深めていく水平的な霊 性です。これは、信徒にもっともふさわしい霊性でしょう。日常生活を通して、 神との交わりを深め、神のみ旨を生きていくことをめざしていくのです。
私の意見ですが、忙しい人ほど究明が必要だと思います。これによって気持ちを 整え、職場で気持ちのリセットができます。私が学校の先生をしていたとき、ほ んとうにいそがしく毎日 1 時間の黙想は無理な状態でした。そのときお昼のご飯 の後に職員室でしていた究明は、短い時間でしたが、私にとってほんとうに大きな助けになりました。小さな手帳を開いて書いていたので周りの人は私が何をしているのか分かっていませんでした。
鎌倉の十二所に住んで東京で仕事をしていたとき、横須賀線を使っていました。 帰りの電車で座席が空き、座れるようになってから究明をしていました。この電 車のなかで前の椅子席が空いているときには、そこにイエスさまが座っていらっ しゃると思い、その日の出来事を今日はこんなことがよかったなどとイエスさま
に話しかけるようにして究明をしていました。
究明はかしこまったことでなく、長い時間を必要とするものではありません。ど こでもどんなときでもできます。お風呂に入りながらする人もいます。ですから このカードもそのような意味で作ってあります。究明のポイントは自分なりの方 法を見つけものにすることです。

2.聖書による神との生きた交わり(英神父) ありがとう、ごめんなさい、お願いします、対話しましょう(資料 1)
2-1:喜びと賛美:ありがとう ルカ 10 章 17-21
 七十二人、帰って来る
「72 人が喜んで帰って来て」と派遣された弟子たちが悪霊を追い出してきたことを イエスさまに嬉しそうに報告しましたが、イエスさまは逆に彼らをたしなめ「喜んで はならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」 と言われ、弟子たちの喜びのポイントを訂正されました。
わたしたちは何を喜ぶべきなのでしょうか。何が福音の喜びなのでしょうか。そして 「名」が天に記されるとはどういう意味なのでしょうか。
福音の喜びは、悪霊を追い出すような目に見える成果を言っているのではなく、 「あなたがたの名が天に記されること」と言っています。この「名」は、肩書などの ようなものではなく、みなさん自身の本質を現しているものであり、存在そのものが 神さまに受け入れられているということを意味しています。
この話のあと、聖書の中では珍しいのですが、イエスさまが喜びにあふれて「…あ なたをほめたたえます」とあり、たんなる感謝というよりも主に向かう賛美の祈りが 捧げられています。
そして「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」と続きます。
「これらのこと」とはいったい何でしょうか。はっきりと述べられていませんが、 私たちがそれぞれの生活の中で見つけていくものではないでしょうか。もっと難しいのは「知恵ある者や賢い者」には隠され、「幼子」にだけ示されているということ です。
子どものように素直な心で、先月でも今月でもよいので自分の生活をふりかえり、 「これらのこと」つまり福音の喜びを 5 つぐらいまで 5 分間ぐらい沈黙して究明してみましょう。

2-2:私の究明
英神父はご自分が感じた 4 つ喜びを挙げられました:
1 錬成会での高校生との分かち合い(ついさっきまでしていたところ)
2 AKB48 選抜総選挙の速報発表で無名の荻野由佳(ニックネーム、おぎゆか)さんが1 位となったこと(何度も YouTube を見たそうです)
3 教会の中のミーティングで、素晴らしい信徒の方たちとの出会い 4ゴールデンウィークに見た詩人・金子みすずさんと書家・金澤翔子さんのコラボ展 「ひびきあう詩と書」http://piropurin.com/event/misuzu_shoko201705
ここまではまだ究明ではありません。つぎのステップは、4 つの喜びを思い起こした あと、イエスさまがこれらの喜びをどうのように喜ばれているかを考え、イエスさま により一層近づくための出会いはどれだったのかをふりかえってみることが「究明」となります。イエスさまの視座からそれぞれの出会いをふりかえります。
それぞれの喜びがどうイエスさまの喜びにつながっているのかふりかえり、つなが っている出来事や出会いを神さまに感謝して賛美を捧げましょう。5 分ぐらいふりか えり、自分の腑に落とすようにしましょう。
(ちなみに英神父の場合は 4 番目のコラボ展だったそうです。)
2-3:悔い改め:ごめんなさい
ルカ 18 章 9-14
 「ファリサイ派の人と徴税人」 たんに失敗したから「ごめんなさい」と謝ることよりも、もう一歩自分の心の奥を観 て、イエスさまがそのことについて悲しんでいるかどうかふりかえってみることが ポイントとなります。
自分が悲しい、つらいと思っていても、イエスさまは悲しんではいないかもしれませんし、気にしていないかもしれません。この点を深くふりかえってからから神さまに 「ごめんなさい」をしたほうがよいと思います。そしてときには何にでもすぐ「ごめ んなさい」をせず、深く心に留めて置いてから神さまにお詫びするのもよいときがあ ります。
2-4:願う:お願いします
ルカ 18 章 35-43  エリコの近くで盲人をいやす
「願う」のは、これをして欲しい、あれをして欲しいという請求書型の願いではなく、 神さまが何を望まれているかということに焦点を当ててふりかえることが大切になります。

2-5:分からないこと:対話する
ルカ 10 章 38-42
分からないこと:対話する 実際に究明を始めると、何が「ありがとう」なのか、何が「ごめんなさい」なの か分からないこと、はっきりしないことの方がたくさんあります。例えば自分が 悪いのか相手が悪いのかはっきりしないことがよくあります。私がわるくないの であやまる必要はないのではないかなどはっきりしないことが出てきます。
日常のことはゴチャゴチャしていて、すぐに感謝したり、謝ったりするほどはっ きりしていないことのほうがたくさんあります。逆の言い方をしますと、大きな 問題はあまりないのかも知れません。このようにほんとうは分からないことの方 が多いので、分からないこと、何が悪いのか、あるいはどうしたらよいのかを究 明することがポイントになってきます。
朗読した「マルタとマリア」の話は有名ですが、なかなか腑に落ちにくい話です。 大勢の来客で忙しく働いているマルタとイエスさまのそばに居て何も働いていないマリアの話です。普通、真面目な人にはなかなか腑に落ちない話です。
あるとき雑誌の記事でマルタの方を誉めたことがあります。そのときは大きな反 響があり驚きました。よくぞマルタを褒めてくれたということで。
マリアは元々家事が上手でなかったからマルタを手伝っていなかったのではな いか。イエスさまはマルタの家には何度も訪れたことがあり、お互いに親しみを 感じていた。したがってマルタはイエスさまにマリアに手伝うようにと率直にお 願いをすることができた。それにイエスさまもすぐに応答された。この話のポイ ントはマルタとイエスさまの率直な対話であり、神さまの言葉を聞くことを優先
することをイエスさまがマルタに教えたことですね。
少し考えて見ましょう。そうすると、マルタがイエスに文句を言ったこと自体が、 すでに神さまとの生きた交わりになっているではありませんか。イエスさまはマルタのありのままの頼みに対して、ご自分の考えを率直に伝え、マルタに違う見 方もあることを教えています。つまり神さまが求めておられるのはたんに仕事を こなすことではなく、ご自分との交わりを一番大切にしてほしいと思っておられるわけです。
余談ですが、この聖書の箇所の前にはよきサマリア人の話があり、後には主の祈 りの話があります。続けて読むと神さまのみ旨が何であるのかを深く考えること ができますから一度黙想してみましょう。
2-6:究明のためのヒント
1 まず自分の中でモヤモヤしていることを書き出してください。一つでも幾つでも結構です。
2 つぎにいま自分のところにおられるイエスさまにマルタのように率直に自分
のモヤモヤについて質問でも、意見でも言ってください。
3 それについてのイエスさまの考え、あるいは返答を書いてください。
「意識の究明」ではここが肝となります。そして難しいところです。なぜなら人 はだいたいにおいて自分サイドで考えているからです。イエスさまのサイドから ものを見て考えることです。
私の場合はイエスさまの見方を書くときは別の色、例えば赤ペンで書くようにし ています。そうすればあとで赤を見ればイエスさまのことばであると分かります。 そしてときどきイエスさまが思いもつかないことをその出来事を通じて語られていたことに気がつきます。ほんとうに不思議ですが、よくあります。これが究明することのほんとうの意味だと思います。
自分の思いではなく、神さまが語りかけてくださっていることが何であるか理解 することができます。もちろん大きなことは 15 分の究明ではすぐに分からない ことの方が多いと思います。しかし毎日くり返し続けていくと分かってくるよう になることがあります。たとえ時間がかかって分かるとしても、この方がすぐに 分かることよりもはるかに大切だと思います。
例えばイグナチオは晩年にこう言っています。「たとえイエズス会が取り潰され ても、自分は 15 分究明すれば立ち直ることができる。」つまり 15 分で神さまの 意志がわかり、新たな道に向かって進んで行くことができると言っているのです。
私たちには 15 分間では無理かもしれませんが、とんでもないことが自分の身に 起きたとき、神さまが何を望まれているのかと考えることによって新たな道が見 えてくると思います。このように究明を通して神さまと対話していくことが大事 だと思います。
ちょうど教会の祈りの読書課(司祭・修道者が必ず唱える聖務日課があり、毎日 聖書朗読の箇所がある)で、今「ヨブ記」を読んでいます。この話はヨブの思い と神さまの思いが違うことがテーマです。ヨブは正しいことを自分がしていると 信じているのですが、あらゆる災難が彼に降りかかってきます。そして最後に神 さまの前で自分が被造物で、小さな者であることを認め、平和がもどってくると いう物語です。神さまの思いと人の思いの違いがはっきりと分かります。
「意識の究明」をするときは自分のすぐ前とか、横にイエスさまが座っていらっ しゃると想像すると効果的です。また聖書を読むことによってたくさんのよいヒ ントを受けることができます。さらにイエスさまから自分宛の手紙を書き残すの
もよい方法です。
自分の話で恐縮ですが、私がまだ 30 歳ごろ学校で先生をしていたのですが、大 きな失敗をして自分を責め深く落ちこんでいたことがありました。そのとき究明 でイエスさまの目から見たらどうだったのかと考えました。そうするとイエスさ まは何も責めていないことが分かり立ち直ることができました。
究明は実践することが大切です。自分の中だけで完結させるのではなく、神さま の観点から自分や出来事を究明してください。そして毎月の祈りのカードをその ためにぜひ活用してください。
3.終わりに
今回のセミナーには 130 名余の方々が参加され、英神父の講話「神との生きた交わ り」と「究明」について学びました。
前回のセミナーではミッション 2030 の進捗状況をみなさんにお伝えしましたが、 今回はとくにご報告するようなことがありませんでしたので報告を省きました。
6 月 4 日の教会祭ではザビエル聖堂で祈りを深める集いをしました。聖書通読、聖体 礼拝、ロザリオの祈り、共同体の一致を求める祈り、聖歌を歌おう、聖体賛美式を午 前 10 時から午後 3 時まで行い、大勢の信徒や求道者の方々が参加され静かに祈りを深めることができました。
「聖体礼拝の恵み」という題で援助マリア修道会の Sr.杉原が聖体礼拝の歴史と聖体 礼拝の意義を話されました。詳しくは資料 2 をご覧下さい。
また女子パウロ会教会案内所の Sr.冨田が「ロザリオの恵み」についてお話をされ、 ロザリオの祈りがいかに私たちの信仰生活を生き生きとしたものにしてくれるかに ついてお話になりました。実際に Sr.冨田はロザリオをいつもポケットに入れて持ち 歩かれており、ポケットに手を入れロザリオにふれると「祈りのスイッチ」がただち に ON になるそうです。シスターのお話のあと参加者全員でロザリオの祈りを先唱者 と交互に唱えました。
最後に英神父が聖体賛美式を司式され祈りの集いが終わりました。
4.次回のセミナー
 7月9日(日)午後4時から5時半までヨセフホールで行われます。
文責:英神父とミッション 2030 促進チーム

祈りを深めるセミナー 資料1 2017年6月11日
神との生きた交わりについて(ルカによる福音書)
1.喜びと賛美:ありがとう
 七十二人、帰ってくる
10:17 七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえも わたしたちに屈服します。」10:18 イエスは言われた。「わたしは、さたんが稲妻のよう に天から落ちるのをみていた。10:19 蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝 つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つ ない。10:20 しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。 むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
 喜びにあふれる
10:21 そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天の主である父よ、 あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような 者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。10:22 すべ てのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを 知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかに は、だれもいません。10:23 それから、イエスは弟子たちたちの方を振り向いて、彼ら だけに言われた。「あなたがたの見ている者は幸いだ。10:24 言っておくが、多くの預 言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなた がたが聞いているものを聞きたがったが、聞けなかったのである。」
2.悔い改め:ごめんなさい
 「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ
18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエス 次のたとえを話された。18:10「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ 派の人で、もう一人は徴税人だった。18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこの ように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を 犯す者でもなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。18:12 わた しは週に2度断食し、全収入の十分の一を捧げています。』18:13 ところが、徴税人は 遠くに立って、目を天にも上げようともせず、胸を打ちながら 言った。『神様、罪人の わたしを憐れんでください。』18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この 人であって、あのファリサイ派の人 ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
3.願う:お願いします
 エリコの近くで盲人をいやす
18:35 イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。 18:36 群衆が通って行くのを耳にして、「これはいったい何ごとですか」と尋ねた。 18:37 「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、18:38 彼は、「ダビデの子イエス よ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。18:39 先に行く人々が叱りつけて黙らせよ うとしたが、ますます、「ダビデの子、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。18:40 イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエ スはお尋ねになった。18:41 「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるよう になりたいのです」と言った。18:42 そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。 あなたの信仰があなたを救った。18:43 盲人はたちまち見えるようになり、神をほめた たえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。
4.分からないこと:対話する  マルタとマリア
10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタとい う女が、イエスを家に向かえ入れた。10:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリア は主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。10:40 マルタは、いろいろのもてな しのためにせわしく立ち働いていたが、そばに近寄っていった。「主よ、わたしの姉妹はわ たしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるよ うにおっしゃってください。」10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは 多くのことに思い悩み、心を乱している。10:42 しかし必要なことはただ一つだけであ る。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

《聖体礼拝の恵み》
祈りを深めるセミナー 資料2
援助マリア修道会 Sr 杉原法子
今日は「聖霊降臨」の祭日、そしてイグナチオ教会献堂記念の教会 祭、おめでとうございます。六週間にわたる復活節の豊かな典礼を生き てきて、その頂 点 に立 つ今 日 、聖 霊 のあふれる恵 みのもとで、こうして皆 さまとお祈 りの時 間 が持 てますことを嬉 しく思 います。イグナチオ教 会 では 2030年を目指す刷新の一歩が踏み出されました。その第一歩が「祈り を深 める」ということはとても意 義 があると思 います。皆 さんは、祈 りに結 ばれた共同体の一員であり、宣教は祈りを基にして初めて実を結ぶから です。
復活・昇天・聖霊降臨への歩みは、主の受難と死から始まった一 連の出来事でした。世界に神の「無償の愛」が示されたこの出来事を 復活秘儀(神秘)と呼びます。この出来事は歴史の中の一回限りの 出 来 事 ではなく、2000年 を超 える今 日 まで連 綿 として続 いています。 時代を超え、国を超えて、今も地球上で絶えることなく「再現」されて います。それがミサでありご聖 体 の秘 跡 です。
ヨハネ13章 の冒 頭 に、イエスは「極 みまで愛 された」とあります。人 間 同 士 の場 合 を考 えてみても、お互 いが真 に愛 し合 うとき、いつまでも 一 緒 にいたいと思 うのが自 然 の感 情 です。イエスさまも、最 後 の別 れ に臨 んで、愛 しておられた弟 子 たちといつまでも共 に居 たい、そして後 世 に生 きるわたしたちのためにも、この地 に留 まりたいと、切 なる望 みを 抱 かれたに違 いありません。この極 みない愛 が、ご聖 体 という、とてつも なく不 思 議 なことを可 能 にしたのでした。神 であるイエス・キリストが、私 たち人 間 のための食 べ物 となって、私 たちの内 に永 遠 に留 まることを 決 断 されたのです。
今 日 では、信 徒 たちは毎 日 でもご聖 体 をいただき、キリストご自 身 と 一 致 することができます。いつでもだれでも自 由 にいただけると思 ってい るこの聖体拝領は、1960年のバチカン公会議前までは自由ではあり ませんでした。私 どもの修 道 院 でも、年 配 のシスターたちは、修 道 院 長 に毎晩聖体拝領の許可を願っていたそうです。記録を読むと、年に何 回 とか、月 に何 回 とかいうふうに、人 によっても許 される回 数 は違 って いたようですが、聖 体 拝 領 は許 可 のもとで行 われていたことが分 かりま す。
聖体拝領がしばしばできない信徒たちの間に、「ご聖体の前で祈り、 イエスと一 致 したい。イエスと出 会 って渇 きを癒 されたい」という強い望みが生 まれ、聖 体 礼 拝 の出 発 点 となりました。こうして始 まった聖 体 礼拝は次第に発展し、一般信徒の間に大きな広がりを見せるのは1 3世 紀 に入 ってからです。
聖 体 の祝 日 が定 められたのが 1264 年 です。14世 紀 になると、顕 示台による聖体顕示の慣習が確立しました。教会や修道院では祭 壇にご聖体を顕示し、その前で聖体礼拝をし、賛美がささげられるよ うになりました。この聖体礼拝が教会の歴史の中で発展し、今日まで 大 切 に受 け継 がれているのです。パリのモンマルトル教 会 やマニラのセ ント・ジョセフ教会では、終日聖体顕示が行われています。多くの人々 が三々五々礼拝に訪れて、真剣に祈っていた姿が印象的でした。
創 立 者 マリ・テレーズ・ド・スビランは、1865年 創 立 に当 たり、シス ターたちに次 のような講 話 をしました。「不 熱 心 だったり、生 ぬるい修 道 者 であるより、火 事 で焼 け死 ぬほうがましです」と。
ちょうどその夜、はからずも修道院は火事に見舞われ、建物は全 壊 しました。しかし、シスターたちも与 っていた子 供 たちも全 員 無 事 に 救出されました。当時の地方新聞はこれを奇跡と報じました。
創立者は、この不思議な出来事に神の手を読み取り、修道会の 中心に聖体を据えたのです。その日から聖体の永久礼拝が始まりま した。「『苦 しみと積 極 的 献 身 によって救 いのために働 かれる主 キリスト と一 致 して、その贖 いの業 に参 与 したい』という大 きな望 みは、日 常 の 聖体礼拝を通して果たされます」と、彼女はその手記に書いていま す。
それ以来、聖体礼拝は援助マリア会の大切な使命の一つになりま した。時代の流れや場所によっては、永久礼拝は困難になっていきま したが、日 中 できるだけ長 く礼 拝 をつないでいく努 力 を続 けています。
世 の救 い為 に自 らを御 父 に捧 げられたキリストの贖 いに参 与 するため、 世界のあらゆる苦しみや痛みを聖体の前に運び、彼らの救いを祈りま す。
こうして日 々ご聖 体 におられる主 の奉 献 に与 り、砕 かれて食 べられ る存在になること、自分の時間や能力などを差し出し、そこから他者 のために生きる力を汲みます。日常生活の中での絶え間ない祈りは、 この望みを現実に生きる力と勇気を与えてくれます。
聖体礼拝の意義を2点にまとめてみます。一つは、贖いの秘儀に 与 ることです。聖 体 を礼 拝 しながら、イエスが全 生 涯 を通 して果 たされ た贖いの神秘を思い起こします。ご聖体の中にイエスの十字架をみつ め、わたしたち人 類 の罪 を命 懸 けで贖 ってくださった主 の苦 しみに自 分 も与 らせていただき、現 代 の苦 しむ世 界 のために祈 ることです。その意味 では、聖 体 礼 拝 そのものがミッションの役 割 を持 っています。主 のみ 前 に、キリストを知 らない人 、キリストから遠 ざかっているすべての人 を 差し出し、彼らのために祈る、個人的な主との出会いが社会的なミッ ションへと広 がっていくのです。
二つめは奉献です。聖体礼拝の間、わたしたちの存在自体を、聖 体 の形 のもとに現 存 されるキリストに捧 げます。イエスさまのお望 みのようにわたしを変 えてくださいと、自 らを明 け渡 すのです。福 者 マリ ー・テレーズは、会 憲 の中 に次 のように書 いています。「愛 の秘 跡 であ る聖体に絶えず眼を注ぐなら、どこまで自分に死に、神と人々に自分 を与 えなければならないかを思 い起 こさずにはいられないでしょう」。
聖体礼拝の沈黙の中でキリストに近くあることは、同時代を生きる 人 々を遠 ざけることではなく、人 々の喜 びや悲 しみに注 意 深 くあること です。私たちは、この聖体礼拝を通して、実際に大きな世界に出かけ て行 くことができます。その時 間 だけは、全 世 界 を抱 くほどに心 を大 き く広 げましょう。
ヨハネ福 音 書 17章 に、「すべての人 を一 つにしてください」と願 う、イ エスの最期の祈りがあります。争いの絶えない世界で分裂の痛みの
中 にある人 々を、愛 に渇 いて苦 しんでいる人 々を主 の前 に運 びましょう。 そしてわたしたちが彼 らと連 帯 を生 きることができるよう祈 り、世 界 がキ リストのもとに、一 致 できる日 を待 ち望 みましょう。
ご自分の命を与えてくださる決定的な賜物であるご聖体を礼拝す ること。そこから、私 たちは、溢 れるほどの恵 みをいただきます。「ご聖 体 は、すべてが流 れ出 る泉 であり、全 てがそこに帰 っていく場 である」からです。

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