ミッション2030と祈りを深めるセミナー ニューズレターNo.07>>PDF版はこちらから 

『勇気と寛大な心を持って出かけて行きなさい』 「ミッション 2030」-祈りを深める
ニューズレター2 月号    2018年3月7日発行 

1.はじめに:
2 月 14 日(日)、2017 年度最後の祈りを深めるセミナー「ミッション 2030 のふりかえりと展望と使命(ミッション)について」がマリア聖堂で開かれ、120 名近くの方々が参加されました。

「ミッション 2030」を支える 4 本柱各グループからの報告がありました(全体の内容はPDF版をご覧ください)
そのあと英神父が使命(ミッション)について話をされました。

5.使命(ミッション)について―英 隆一朗神父の講演

今回のセミナーが 2017 年度の最後の講演になります。この講演テーマを「使命(ミッション)」としたのは、「祈りを深める」からつぎの「福音を伝える」への架け橋とするためです。 1 月のセミナーでは「召命」、神からの呼びかけと私たちの応答について話をしましたが 今回は私たちが「召命」をしっかりと受けとめること、つまり「使命」について話します。

配付資料の 1.にある From Vocation to Mission のところをご覧ください。
この意味は神の呼びかけ、召命 (Vocation) に応えて神から遣わされていく (Mission) ということです。ふだん私たちは「ミサ」ということばを使いますが、このことばは、ラテン語ミサの終わりの「Ite Missa Est」と司祭が会衆に向かって言う派遣の挨拶に由来します。つまり私たちが「神に命を召され、神のために命を使うように派遣される」ことなのです。

「福音を伝える」とは「召命と使命」の統合した生き方です。そして私たちは使命と聞くとすぐに何か特別のことをする活動を考えがちですが、行動する前に「いかにあるか・いかに生きるか」(Being)、「心のありかた」、「生き方の方向性」をしっかりと考えることです。
それから「何をするか」(Doing)へと移って行くことになると思います。

では、「使命の領域」、私たちが使命を果たす場所は何処になるのでしょうか。
それは私たちの日常生活の中で100%神から召された命を使うことです。
月曜日から土曜日まで「自分がいかに使命を生きているか」ということです。日曜日に福音を感じ仲間とわかちあうことです。
ふつう一般の人にとっては家庭や働く場、たとえば会社が使命となっていると思います。いま置かれたところでいかに神の平和を作るかということではないでしょうか。またライフステージによってもそれぞれ違った使命(ミッション)があり、それをしっかりと生きて行くことだと思います。使命、自分のありかたが変わることも当然あることです。

教会奉仕を例にとれば信徒全員が教会奉仕をすることは理想ですが、人にはそれぞれ神がくださった賜物がありそれを生かす場は違うと思います。実際 20%ぐらいの人が教会奉仕に携わってもすごいことになります。また社会の特別な奉仕の場合でもやはり 20%ぐら いではないでしょうか。

どこに呼ばれ、どの使命を果たしていくかについてはマタイの福音書が参考になると思います。マタイには 5つの説教があり、10 章はミッションの心がまえをよく教えてくれます。この章にはイエスが弟子に呼びかけ、使命を与えるダイナミックな対話が展開されています。
ぜひこのマタイ 10 章のそれぞれの文節をゆっくり読み、つぎの二つの点を静かにふりかえってみてください:

1私は今、どこに遣わされているだろうか。主イエスはどこに遣わしているか。

2そこで、どう生きるように、何をするように、主イエスは望んでおられるだろうか。

最後に神の呼びかけに応え使命を実践された人を紹介します。ひとりは佐藤初女さんです。もうひとりは聖フランシスコ・サレジオです。

「森のイスキア」の主催者あるいは日本一のおむすび名人といえばご存知の方も多いと 思います。悩みや苦しみなどをもって来る人たちを受け入れ、おむすびを作り食事を通し て彼らの悩みや苦しみを癒やしていました。彼女のことを日本のマザー・テレサという人もいます。

実は、私も彼女を訪ねておむすびをいただきお話を聞かせていただいたことがあります。 彼女は、はじめ小学校の先生でした。その後、悩みや苦しんでいる人たちのために自宅を開放し彼らを受け入れていましたが、1992 年、岩木山麓に「森のイスキア」を建て、悩んでいる人たちをそこで受け入れ彼らの再出発の手助けしていました。

佐藤さんはカトリックの洗礼をうけたキリスト者です。ほんとうは教会で「イスキア」的仕事をしたかったそうですが、出来なかったので、新たな試みとしてご自分で「イスキア」を始め られたそうです。「イスキア」はイタリアのイスキア島に因んでつけたそうです。イスキア島 は自然が豊かで温泉もあり、数多くの病が癒やされたとの伝説があるところです。
彼女のしていた活動は、教会の中ではこれほど広まることはなかったと思います。むしろ外に出ることによって大勢の人たちに福音を伝えることができたのだと思います。彼女は難しい説教をしたわけではなく、唯々困っている人、悩んでいる人たちの話を静かに聴き、 おむすびと漬物と味噌汁の食事を通して彼らが問題を解決するのを支えていたのです。 残念でしたが彼女は 2016 年 2 月 1 日に帰天されました。しかし「森のイスキア」は現在も続けられており、各地で小さな森運動が広がっているようです。神からの呼びかけに応え 使命を(ミッション)を果たされた方です。

もうひとりは聖フランシスコ・サレジオです。
よく彼は、名前が同じなのでサレジオ会の創立者として間違われますが、サレジオ会はドン・ボスコが始めた社会的に困っている青少年のための修道会です。サレジオの名前はドン・ボスコが柔和の聖人フランシスコ・サレジオを尊敬していたからです。
ドン・ボスコは、聖フランシスコ・サレジオの有名なことば「ハエを捕まえるためには、酸っぱい酢の一樽よりも、蜜の一滴のほうが効果がある」という祈りをよく唱えていたそうです。

資料の「信心(祈りと使命として)の心得」を読んでください。
ここではだれでも、どんな生活の中でも、神の呼びかけを聴き、使命を見つけ、キリスト者として生き生きと生活ができると書かれています。とくに 2 頁中央にあるつぎの箇所は私たちの召命と使命に大きな勇気を与えてくれます:

「ミツバチは蜜を集めるとき、花を少しも傷めない。花は以前と少しも変わらず、触れられた気配もなく新鮮なまま残る。だが真の信心はそれよりもはるかに見事なことをするのである。それは信心がどんな召し出しも、また何の仕事も損なわないだけではなく、かえってそれを飾り、いっそう美しくする。」

5.その他
「祈りのセミナー」は 2 月のセミナーをもって終わりとなります。教会の年間予定表では 3 月 11 日に祈りのセミナーが記載されていますが中止になっておりますのでご注意ください。
以上 文責:英神父とミッション 2030 促進チーム

資料
使命(ミッション)について

1.from vocation to mission:神の呼びかけを聞き、神から遣わされていく召命から使命へ:神に命を召され、神のために命を使うように

2.使命=いかにあるか・いかに生きるか(Being)>何をするか・活動(Doing)

3.使命の領域
日常の生活(仕事・家庭) 100% 教会内の奉仕 20% 社会の特別な奉仕 20%

4.ミッションの心がまえ(マタイ 10 章)

10-1 イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。
10-5 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。10:6 むしろ、イスラエル の家の失われた羊のところへ行きなさい。
10-7 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。
10-8 病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い
払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。
10-9 帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。10:10 旅には袋も二枚の下
着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然であ
る。
10-11 町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その
人のもとにとどまりなさい。10:12 その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。10:13 家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。

5.一人ひとりへの質問(ふりかえりのポイント)

1 私は今、どこに遣わされているだろうか。主イエスはどこに遣わしているか。

2 そこで、どう生きるように、何をするように、主イエスは望んでおられるだろうか。

6.信心(祈りと使命として)の心得

神は万物を創造されたとき、草木がそれぞれの種に従って実をつけるようにお定めになった。教会の生ける草木であるキリスト者にも、神はその身分と召し出しに応じて信心の実を結ぶようお命じになるのである。
貴族、職人、使用人、君主、寡婦、未婚の女子、主婦などは、それぞれの身分に応じて信心を実践しなければならない。また、信心はそれを行う人の能力、仕事、義務に適したものでなければならない。
フォロテアよ、司教がカルトゥジオ会士のように隠遁生活をしようとしたり、夫婦がカプチン会士のように何の財産も持つまいとするのは適当なことだろうか。職人が修道士のように終日聖堂にこもり、修道士が人の世話をするために、司教のようにだれかれの別なく応対するのは当を得たことであろうか。そのような信心は愚かしく、常軌を逸し、認容できないものではないだろうか。
だが、こうした取り違えは珍しくないのである。フィロテアよ、真実な信心であれば何ものも損なわず、あらゆるものを完成する。そして、もし信心がその人の正しい召し出しに反するものであれば、確かに間違った信心なのである。

ミツバチは蜜を集めるとき、花を少しも傷めない。花は以前と少しも変わらず、触れられた 気配もなく新鮮なまま残る。だが、真の信心はそれよりもはるかに見事なことをするのである。それは、信心がどんな召し出しも、また何の仕事も損なわないだけではなく、かえってそれを飾り、いっそう美しくする。

宝石を蜜につけておくと、それぞれの石のそれぞれの色が輝きを増してくるように、信心を自分の召し出しに合わせる人は、その召し出しをさらによく果たすことができるようになる。信心があれば、いっそう平和な心で家族のことを配慮することができ、夫婦の愛情がいっそう誠実になり、君主への奉仕はさらに忠実になり、あらゆる仕事はこれまでよりも楽しく快いものとなるのである。
兵営や工房、君主の宮廷や夫婦の家庭から信心生活を締め出すのは間違いであり、異端である。フィロテアよ、純粋な観想生活に固有の信心、隠遁生活、あるいは修道生活に固有の信心が、こうした場所で実践できないのは無理もない。しかし、これら三つの信心の形の他にも、世間にあってさまざまな暮らしをしている人びとを完成に向かわせる、さまざまな信心生活の形もある。

だから、私たちはどこにいても完全な生活を望むことができるし、またそれを望まなければ ならないのである。

聖フランシスコ・サレジオ『信心生活入門』

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