1 第一講話
パパ様がワールドユースデーで若者に呼びかけた言葉が「勇気と寛大な心を持って寛大な心で出かけて行きなさい」。これが聖イグナチオ教会の年間テーマであった。(来年度も)。この精神はパパ様の「使徒的勧告 福音の喜び」に書いてあることに尽きる。
私たちは福音によって救われて喜びの中に生きている。それが根本であり、基本である。福音の喜びは福音宣教の泉である。

*私たちは福音の喜びをいつどこで、どのように体験してきたか。
どのような時も、誰でも、イエスとの「今この瞬間の」人格的出会いを新たにすることに招かれている。
*どこから出かけていくのか。「囚われの自己」から「真の自己」へ。

クリスチャンならば、このめぐみを味わい、喜びを感じていなければ。
▶︎「福音の喜び」序文1,3,8参照。

聖書では
ヨハネ4章7節〜「サマリアの女」
サマリアの女の問題。(おそらく男性問題で)「出かけていけない」心を閉ざした不幸な女性である。イエスとの出会いによって(イエスは境界線を越えて働きかける。「婦人よ私を信じなさい」「霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」)彼女自身の中から泉が涌きはじめ、「サマリアの女」は宣教者になる。(「イエスはメシアである」と宣べ伝える)

イエスとの出会いによって人は「霊と真実で生きるように」変えられ、人々のところに出かけていける。神との出会いなしには出かけていけない。
「プリメレアル(primereare)」(機先を制する、一番乗りをする、というような意味。パパ様の造語)、主が先に私たちを愛してくださったことを知っている共同体は恐れることなく前進し、宣教する共同体である。
▶︎「福音の喜び」第1章20,24参照

振り返りの黙想
*自分の人生の基盤となるイエスとの出会いはなんだったか。
*福音の救いの喜びはなんだっただろうか。小さなものでもいいのでふりかえって見つけてみよう。

2 第二講話
「救いの泉から水を汲む」絶えず、自分自身の中の福音の泉から常に水を汲むことが必要である。

「どこからどこへ出かけていくか」=回心
司牧的な回心は、いつも宣教にむかっていくような回心でなければならない。自己中心的なエリート集団になってはいけない。共同体が養成と派遣の場になっていなければ。
「復活したキリストの光といのちがいっそう不足している場にこそとどまり続けるよう努めてください」▶︎「福音の喜び」第1章30参照

聖書では ヨハネ3章1節〜21節「イエスとニコデモ」
ニコデモは社会的に地位の高い人出会ったが「夜」イエスに会いに来た。「生まれ変われなければならない」と言われる。イエスは一般論では話さないから、ニコデモに回心が必要だと言ったということ。「夜」は神が不在な象徴である。夜にイエスに会いに来たニコデモは神を見失っていたが、それがとらわれのためにわかっていなかった。私たちも、「今、生まれ変わって、どこから出なければならないか」を知る必要がある。「新たに生まれ変わらなければならない」というチャレンジをつきつけられているのである。霊の導きは、常に新たである。(「風は思いのままに吹く。。。」)

これは個人的なことだけではなく、社会についても言えること。

現代の危機=無関心のグローバリゼーション、自己の中に閉じこもること▶︎「福音の喜び」第2章2参照
「殺してはならない」=「排他性と格差のある経済を拒否せよ」▶︎「福音の喜び」第2章53参照
家庭の絆のもろさが深刻である。介護の問題などなど、解決不能。▶︎「福音の喜び」第2章66参照

聖書では
黙示3章14-22 「ラオデキアにある教会にあてた手紙」
「なまぬるい」状態。悔い改めなければならない。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。。。」イエスに向かって戸を開くことから。

振り返りの黙想
*自分、あるいは、自分を取り巻く社会はどこから「出て」いかなければならないか。自分の「闇」は?
自分の囚われ、苦しみの世界(「闇」)は「どこ」か?
闇から光の世界へ「出て行く」。

*自分の回心はどこにあるかを振り返ってみよう。

第3講話

どういうところに自分の「福音の喜び」があるか確認する必要がある。
どういうところに自分が閉じこめられているか。
どこへ行くのか。自分なりに、それぞれの方向性がある。

「都市を観想の目で見る」自分の生活を神様の目でみること。光、恵、そして、闇も。
どこにわたしたちが心を動かされるか。▶︎「福音の喜び」第2章71参照
都市のあり方はどんどん変わっている。その中で、福音の泉を見出し、求めるにはどうするか、神、人、環境との交わりの場を見出していくには。
「イエスの言葉が都市の精神のもっとも深い部分に触れるように。」
都市だけでなく、若者など。。。▶︎「福音の喜び」第2章72,73,74参照
福音宣教にもっとも苦労し、努力しているのはミッションスクールの宗教家の教師ではないか。血の滲むような努力をしている。若い人に信仰を伝えるのはたいへんなことである。
今の時代、家族にすら信仰を伝えられない。無理である。だからこそ、皆でやっていかなければならない。それぞれが、どこに向かっていくか、真剣に考えなければ。

聖書では
マルコ1章35-39節 イエスは宣教するために来た。
マタイ9章35-38節 「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果てて打ちひしがれているのを見て深く憐れまれた」ギリシア語での「深く憐れむ」という言葉は「神が人の苦しみを知るときに使われる言葉で、聖書ではここを含め3回しか使われていない。(放蕩息子、よきサマリア人)
マタイ10章5-6節 神が派遣している。「イスラエルの家の失われた羊」=苦しんだり迷ったりしている人へ。「異邦人の道へは行ってはならない。またサマリア人の町へ入ってはならない。」=やみくもにどこにでもいけばよいということではない。それぞれ行く先がある、ということ。しかし、必ず、どこかに派遣される。

すべてのキリスト者は宣教者である。
相手への「敬意と優しさ」
「人となった神、私たちのためにご自分を与え、今なお生きて、救いと友情を私たちに差し出す神の愛」という基本的なメッセージを伝えればよい。▶︎「福音の喜び」第3章120,127,128参照

福音宣教の社会的次元を考える必要性
自分自身が解放されたものとして、社会的に弱い立場の人のことも考えなさい。

聖書では
マルコ6章37節「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」

貧困の構造的問題の解決への協力のほか、日々遭遇する極めて具体的な窮乏を前にしての、日々の素朴な連帯も。▶︎「福音の喜び」第4章187,188参照
貧しい人のために教会は貧しくあってほしい。貧しい人は自分の苦しさをもって、キリストの苦しみを知っている。教会は彼らから福音化され、教会の歩みの中心に貧しい人たちがある。▶︎「福音の喜び」第4章189参照
貧困の構造的原因の解決は喫緊。格差社会の抜本的解決が必要。人々は住人でなく、「責任ある市民」であるべき。政治生活への参与は道徳的な義務である。(カトリック教会の社会的倫理は貧しい人の立場に立つこと、救いのいのちも含め、被造物全体のいのちを尊重すること)▶︎「福音の喜び」第4章202,215,220参照

振り返りの黙想
*自分はどこに派遣されているのか。
*社会的次元でどう関わっていけるか。

第4講話

何をしに行くか

聖書では
マタイ10章7-8「天の国は近づいた。」と宣べ伝えなさい。→言葉、対話を通しての宣教。
「病人を癒し、死者を生き返らせ、。。。悪霊を追い払いなさい」→愛の行いによる宣教。
福音(神の愛の喜び)を語り、福音の生き方を分かち合うこと。

しかし、「苦しみ」は福音宣教のチャンスでもある。そこにこそ福音の喜びが溢れてくるから。十字架がなければ復活はない。

聖霊とともにある福音宣教者は「祈り働く」人である。▶︎「福音の喜び」第5章259参照
「社会的、宣教的な重い責務を伴わない神秘主義的な提案」「回心させる霊性を伴わない社会的あるいは司牧的発言や実践」は役に立たない。▶︎「福音の喜び」第5章262参照
(福音宣教の保護者はフランシスコ・ザビエルとリジュのテレジアであることを思い起こそう)

どんな実を結ぶか

聖書では
ヨハネ15章1-17「わたしはまことのぶどうの木、私の父は農夫である。。。。。ぶどうの枝が木につながっていなければ自分で実を結ぶことができないように。。。。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたのうちにいつもあるならば、望むものをなんでも願いなさい」

福音宣教の第一の動機はイエスからの愛。イエスをますます愛するようになる救いの体験。
=出かけて行って実を結ぶ。聖霊の実り。
イエスの名によって願うならば、聖霊の実り、愛の実りが与えられる。▶︎「福音の喜び」第5章264参照

わたしたちが造られたのは福音を示すこと。イエスと友情を結び、兄弟姉妹を愛するため。
イエスと心をひとつにして願うこと(実を結ぶこと)が使命であると言える。

振り返りの黙想
*わたしはどんな実をむすぶのだろうか。どんな実を結びたいと願うか。(自分の使命はなんだろうか)

文責 A太郎

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