2015年12月13日の講座です。
音声のみで、雑音も多いので、 以下に文字起こしを掲載しました。
霊的識別についてで、とても重要な内容です。

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前回は二つの旗ということで、キリストの呼びかけに応えていくことが私たちには必要なのですが、サタンの呼びかけというものもあって、それに注意しなければならないということを話しました。

神の呼びかけと、神でないものの呼びかけを見分けることは霊操のなかのキーワード的な言葉で、「霊的識別」と言います。霊の働きを私たちが識別する、ということです。霊操の根本というか、イグナチオの霊性が、教会に一番貢献しているところだと思います。識別をする方法を霊操のなかで教える点がひとつ大きなポイントになっていて、皆さんの場合にもそうだと思いますけど、日常生活のなかで、私たちはごちゃごちゃになってなにがなんだかわからなくなったりするわけですけれども、霊操のなかで一番中心的な核になるところは、これ(識別)を学ぶというか、一人一人が(識別を)できるようになっていくことが一番大きなポイントです。

「霊操」の本ですと313番から書いてあるところですが、皆さんにお勧めするのは第1週の霊の識別の規定です。ここは何回も読まれて、自分の場合はどうなのかを振り返る時の材料にしていただけたらいいと思います。

「313霊魂に引き起こされる種々の動きをいくらか知覚するための規則。良い霊動を受け入れ、悪い霊動を退けるためである。」

私たちは祈りのなかでもそうですが、日常生活のなかでも様々な霊の動きに動かされている。良い霊動を受け入れ、悪い霊動を避けるという、これを実践されていったらいいのですが・・・314番、大罪に大罪を重ねている人は・・・悪い霊のほうが心地よいのですよ。かえって良心の呵責というものが辛かったりします。お聖堂に入ったら頭が痛くなるとか。お聖堂に入ったら心が落ち着くとかが普通ですけど、あまりにもめちゃめちゃな生活をしていると、かえって頭痛がするという、そういうこともあります。あまりにも悪いことをしている人は良いものが見えないのですね。霊魂の波長が合わないというか。一方、315番のような、心が神様に向かっているような人は神様からの良い霊の動きを心地よく感じ、励ましになったりするわけです。そして悪霊の働きは気持ち悪くなってくる。

それで、316番ですけれど、「霊的慰め」というのがあるんですね。これは、神様からのもので、ある時に、霊的に深めてくださる、また霊的に慰めを与えてくださる。それが、316番第三則「霊的慰めについて。霊魂のうちに内的な動きが引き起こされ・・・」これは内的なものなのです。ある時に、自分の心のなかに内的な、神をより愛したくなるような・・・「それで、霊魂が創造主への愛に燃え上がり、」いつもいつも燃え上がっているわけではなく、静けさだったりもしますが・・・神様を愛したいという喜びみたいなものがある。皆さんもご自分の経験のなかにあったと思います。神様への愛、信仰希望愛が強められて、神様を見出すこと、神と共にいることに喜びを見出す時、それが慰めということですね。
そして大事なことは、神様への愛の心が強まっていく時だということです。この世的な慰めとはちょっと違う。普通で考えたら、仕事がうまくいって、生活に問題がなくて、健康で、という、この世的にうまくいっているのを慰めだと考えがちですけれども、違うんですね、この世のこととリンクしていることも、していないこともあるので。神様に向かって愛の心が増大している時が慰めのときである。

逆に317番「霊的荒み第三則と真反対のことを荒みという」。何かと言うと、信仰希望愛が弱くなってしまう。神様を愛するのではなくてこの世のものに愛着が強くなってしまったりすることが荒みである、というのが私たちの霊的荒みで、霊的識別というのはそれに振り回されないで日常生活を深めていくということなのです。荒みのことでいえば、多くの人は仕事がうまくいかないとか、家庭で問題が起きたり・・・普通は荒みになりますけど、でも、微妙に、ちょっと違うんですよね。その困難のなかでも、神様に対して必死でお祈りしたり、神様に向かう気持ちがあったら荒みじゃないんですよね。逆に、人間関係もうまくいって、仕事もうまくいって、体も健康で、すべてがうまくいっている時には霊的慰めかといったらそうではない。神様への愛がかえって弱くなる人もいますから。この世のことがうまくいくと神様を求めない。だから自分の慰めと荒みの状態を知ることが必要です。この講座では気づきのエクササイズというのをやっていますが、これは、今の自分の状態が慰めなのか荒みなのか、知ることが目的なのです。そして、荒みの時は自分でどうするかということを軌道修正しながら日常の信仰生活を歩めるかどうかというところが大事なポイントになってきます。
体調に波があるのと同じで、霊的にも、神様に向かって盛り上がる時も、そうでもない時もあります。イグナチオのいいところは霊的な慰めと荒みを両方度々経験して、それにどう対処するかをルール化したというところです。
普通、洗礼を受けた時はだいたい霊的慰めです。洗礼を受けてしばらくも、そうです。皆がそうではないですけど、だいたいそれは2、3年しか続かない。だいたい荒みに入って教会に来なくなってしまう。だから、荒みの時にどうするかが非常に大事です。いつもいつも霊的慰めにあるわけではないので。逆にいつも荒みということもありません。波があるんです。その波を自分で上手に受け入れて信仰生活を歩むということが大事です。

それで、317番、霊的荒みということが書いてあるんですけど、荒みの時はどうなのか。318番「荒みの時の心構え」と書いてあります。これは案外参考になります。「荒みの時には絶対に事を変更してはならない」たったこれだけですけど、荒みの時の心構えは「変更しない」ということです。つまり、慰めの時に決めたことをそのままやりなさい。これは日常の小さなことでも当てはまる。例えば、毎日教会に来ようと決めていたり、当然、来たくなくなる。また、朝晩気づきのエクササイズをやろうと決めていて、慰めの時はできるけれど、荒みの時はしにくくなる。当たり前ですけれど。それを変更しないで続けることができるかどうかですね。気分で左右されなくて、決めたことを続けるということが大事なんです。案外それで、荒みに振り回されないひとつのポイントですね。仕事は荒みだろうと絶対さぼれないですけど、お祈りとかは絶対しなきゃいけないものではないからつい、さぼってしまいがちです。でも、荒みの時ほど決めたことを続けると、信仰希望愛が強められたりするものです。そして一番大切なのは「特に大きな事柄は決心しない」荒みの時には悪霊にやられているわけですから、神の導きが弱いのです。そういう時になにか決めたりすると、だいたいずれちゃう可能性があるのです。「荒みの時に大きな決断はしない」ちょっと調子が悪いから、あれやめよう、これやめよう、とか。調子がいい時、少なくとも悪くない時に大きな決断はしましょう、ということですね。

それで、319番「荒みの時は決して初めの決心を変更してはならない。それだけでなく、祈りと黙想(気づきのエクササイズ)に一層精進し、究明を入念にし、ふさわしい方法で苦行に力をいれるのは極めて有益である」実は荒みの時は、霊的なことをもうちょっと頑張ってやったら、少々の荒みはふっとんでしまうという。これはその通りだと思います。だいたい荒みの時は祈りたくないものですから、かえって荒みの時ほどいつもより時間をとって祈ったりすると少々の荒みは吹っ飛んでしまうことはあります。荒みに振り回されないようにこちらが主導権を握るようなやり方で対処していくことが大事です。

ただ、いつも荒みの時のことで、皆さんに注意するのは、現代は神経がやられている時代で、気をつけたほうがいいのは荒みと「うつ」は分けたほうがいいということです。霊的な荒みと、「うつ」・・・「うつ」はこころと体の疲れの問題ですから、「うつ」の時は頑張らないほうがいいです。純粋な荒みだったら319番でいいですけど、「うつ」で疲れている時は休憩したほうがいいので、頑張らないほうがいいです。気づきのエクササイズで識別することのひとつは「荒み」か「うつ」か、ということです。疲れているとしたら休憩をとったほうがいいです。もちろんケースバイケースですが。たとえば、疲れてくたくたになっていて、私のところに来て「信仰が弱い」と。「お祈りしないからだめなんです」とか。私から見ると、明らかに疲れている。お祈りを頑張るよりも休憩したほうがいい。このあたりは、分けて考えたほうがいいです。ストレスの時代ですから、すごく、鬱的なことが多いですね。ただ、荒みは荒みでしっかり認識しなければならない。たしかに、「うつ」の時の荒みは多いのですが、完全に一致はしないので、体の疲れと心の疲れを信仰の問題として考えすぎるとごちゃごちゃになってしまうから。「うつ」だったら休憩を大事にして体の疲れを取って、こころと体のバランスを取ることが大事です。信仰のこともそこから考えたほうがいいですね。

そして320番と321番ですか。「荒みの時はあまり落ち込まないように」ということです。がっかりしない。神様は力をくださっているし、見捨てられたわけでもない。そういう時にこそ希望を持って。前向きな気持ちで・・・いつかここを抜けることができるから。その状況を受け止めなさい。で、322番、「荒みに陥る原因は三つある。」ひとつは自分が怠慢だから。そういう荒みは生活を整えることで、すぐに慰めに変わる。二番目の荒みの原因は「神様があえて荒みを通らせることがある」それはなぜかというと、慰めの時に気づかないことに気づかせるために荒みをあたえることがある。神様は慰めだけを与えているわけではなくて、学びのために荒みをおくることもある。三番目のように、慰めが続くと人間は傲慢になり、神からの恵みであるということを忘れてしまうから、あえて荒みを神が送ることもある。そうすると、荒みの時はなにをすべきかといったら、気づきのエクササイズ、あるいは、振り返りをすることで、なぜ荒みに陥っているかよく見ることが必要です。忙しくて疲れているせいかもしれないし、神様が新たな神秘を開くために荒みにおいている可能性もある。あるいは、自分の罪によってそうなっている可能性もあって、荒みの時こそよく振り返る必要がある。日常生活の中で、皆さん調子が悪くなってきたら、やっぱりよく振り返って、どこがどうだったか問い直したり、信仰生活のあり方とか、神様が今なにを呼びかけているのかということをよく見直す必要性があるのです。普通神様が伝えたいことに気づいてそれを大切にしようと思ったら、荒みが終わることがよくある。その時点から慰めに変わることはよくあります。

だから、わたしとしては気づきは非常に大事だと思います。識別ということは、結局、気づくということですから。今の自分に対する神の呼びかけと神様のこころは何なのか、具体的に、同いう態度、どういうものの見方、生活のリズムかもしれないし、人との関わり方かもしれないし、それをちょっと見直して、軌道修正できるならば、荒みも恵みになる。だから、荒みになったら、ただ、助けてくれというだけでなく、ちょっと立ち止まって、それは一体どういうことなのかということを振り返る余裕を持っているといいということですね。荒みを通して学ぶことはかなり大きな宝です。大事なことが非常に多いですね。そういうことを少し見直していくように。

そして、323番と324番ですが、これは何かといったら慰めの時に、それが一生続くという誤解をしないで、謙遜に自分の歩んでいく道を確認しなさい、と。なかなか難しいです。慰めは消えますから、慰めなしでも歩めるように生活を整えなさい、ということです。慰めの時こそ謙遜に自分の無力さ小ささを認めなさい。逆に、荒みの時に自暴自棄になるのではなくて、そういうときこそ希望を持って、神様からの試練かもしれないと希望を持って歩みなさいと。これだけをするだけで、私たちは、慰めと荒みを受け止めながら日常生活の中で信仰生活をより確かなものにしてより神の御心にかなうものとして歩んでいけるように、この講座の最初から気づきのエクササイズをしたらいいというのは、こういうことおをしっかり見るためなんですね。毎日できればいいですけど、自分が荒みのときとか、慰めのときもほとんどしませんから、そういうときも、恵みをしっかり噛みしめて、自分の糧にして一歩一歩歩んでいけるようにできたらいいと思います。

325番からは荒みに陥れる敵、悪霊のことが書いてあります。参考にされるといいと思います。「敵はだだをこねる子供のようにふるまう」敵は、本当はそんなに強くなくて、はじめに毅然とした態度をとると強くでられないが、ずるずるいくと、だめなんですよ。どんどん力が強くなってあとからコントロールが効かなくなってくるところがあって、最初が肝心という。「気概ある態度で悪いものを退ける」というきっぱりした態度が大事なのです。326番、悪霊の特徴は隠れてやることです。秘密にすればするほど悪霊は働きやすくなる。霊的生活に於いて大事なのは「秘密を作らないこと」そういうところに悪霊は働きます。悩み事は信頼出来る人に相談するなどして、できるだけオープンにしたほうがいい。神様の働きは必ずオープンなのです。自分自身も気づかないことがありますから、気づきのエクササイズをして、神の前にオープンにして、光に当てる。

327番、これも非常に大事です。悪霊は皆さんの一番弱いところから攻めてきます。だから弱いところを警戒するようにします。一般的に言えば、多くの人は荒みに陥りやすいパターンがあるんですね。こういうやり方でいつも神様からずれてくるというパターンを認識していたらよいということなんです。自分自身の悪霊に敗けるパターンです。これに気づくと大体助かります。忙しさとか、人間関係でなにかとか、怒りっぽいことでなにかとか、パターンは様々ですが、悪霊は私たちのことをしっかり見ています。忙しいときほどこういうことは大事ですから、次回の勉強会まで、自分は慰めのときはどうか、荒みのときはどう流されるかということをチェックしてみる練習と、悪霊にやられるパターン、どう軌道修正したらよいかということ・・・慰めに帰れるポイント、どういうときに荒みに行くのかということをしっかり受け取って振り回されないようにすることと、どういうときに慰めになるかというパターンをしっかり意識して、なるべくそこに戻れるようにしていくといいと思います。慰めのときは、神といい関係が結べているときですから。あるみ言葉をきくといつも慰めの気持ちが湧いてくるとか、あるいは、あるイエス様のことを考えたら力づけられる。それをしっかり受け止めながら、なるべく悪霊の働きを避けながら、クリスチャンの道を深めていく・・・これは生涯だと思いますけど・・・一つのパターンが終わったら悪霊は次のパターンを考えていますから。霊魂が成長すればするほど。悪霊も違うパターンで霊魂を鍛えているのかもしれません。神様が悪霊の働きを許しているのかもしれません。

それでは振り返りの時間をとりましょう。
最近どういうことで慰めを受けたか。どういうきっかけで。それから、どういう荒みを受けて、そのきっかけはなんだったか。
具体的に、神様との関係を思い出しましょう。

日常生活は動きの中にあるので、気がつかないことが多い。それで、一日のなかで静かな時間を持って気づきを持つ。

第2週のもうひとつのテーマは「イエスをよく知り、より愛し、従う」ことです。
聖書マタイ福音書16章13節・・・イエスは自分にとって一体誰なのか、魅力は?どういうイエスに従いたいのか。を深めてほしい。慰めともつながるでしょう。

イエス様とパーソナルな関係を深めていくことは、生き方に深く関わるところです。イエスが誰かがわかると、自分が誰かがわかる。自分の使命がわかる。シモンバルヨナ→ペテロ(ヨナの子シモン→岩、ペトロが教会のリーダーになる、という使命。)みなさんにとって霊操を深めていくことの目的はひとつには自分の使命は何か、ということだと思います。それには、自分が誰か(自分のアイデンティティ)がわかった方が、わかりやすい。特に、イエスが誰かということにつながっていると。

近代くらいから、修道会には独自の使命があります。使命の違いがどこから来ているかというと、創立者のインスピレーションとか、イエスとの関わりから修道会の使命が決まってきます。たとえば御受難会。創立者の十字架の聖パウロの話には十字架の話しかでてこない。365日十字架を黙想しなさいといっている。十字架の聖パウロにとって十字架の恵みが決定的なものだった。また、シャルル・ド・フーコーという人がいて、小さい兄弟会と、小さい姉妹会、昔イグナチオ教会のトイレ掃除をしていました。創立者のなかにあったイエス様はナザレのイエス様だったんですよ。なので、隠れた観想生活と労働が使命です。マザーテレサの場合は「渇く」のイエス様が貧しい人々の中にいるという確信ですね。イグナチオのイエス様は復活したイエス様、全世界に行って福音を宣べ伝えなさいと言ったイエス様です。だからイエズス会の使命は福音宣教なんです。

あなたにとって、どういうイエス様が自分にとって慰めか、どういうイエス様に従いたいか。同じことをやっていても、使命を持ってやるということは、イエス様との交わりの中で働くということです。それは個人個人でまったく違う。そのイエス様の皆さんへの望みがわかるようになれば、さらに信仰が強められます。
イエス様自身はメシアと自分を認めてから、自分のメシアとしての使命(十字架にかかること)を語り始めました。そこでの、ペトロの言葉に「サタン引き下がれ」と言いますが、この、ペトロの言葉は悪魔の誘惑だったと思います。使命を生きるためには絶えず識別が必要で、イエス様でさえ識別が必要だったということです。そして、使命を果たすことは「自分の十字架を背負うこと」。私たちの働きにも、使命を生きるには、神の導きと、サタンの妨害が必ずある。しょっちゅう、ずれたり、ぶれたりしてしまいます。
自分をすてることは私は自分をどう使うか、ということだと思います。どう人々のために生きるか。命を使うか。これは、厳しさをともなうことで、決心が必要だと思います。

(この文章はDVD音声からのおよその文字起こしです。)

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