テキスト版 マルコ福音書3章20~21節「あの男は気が変になっている」

2009年2月4日 マルコ福音書3章20~21節「あの男は気が変になっている」養成練成会 鎌倉
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2009年2月4日 マルコ福音書3章20~21節「あの男は気が変になっている」養成練成会 鎌倉

3:20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
3:21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。

ここのマルコの福音書の3章のところですね、身内の人がイエスを取り押さえに来た、あの男は気が変になっていると言われた、というのです。

不思議な箇所ですけれども、身内の人達というのは、誰なのか、マリア様とヨセフ様は、身内でしょうし、いったい誰が身内なのか、親戚の人が取り押さえに来たのか。

それでも、イエス様の子供時代とかいろんなエピソードを、イエス様マリア様のことを、親族の人たちもある程度知ってたと思うのです。それなのに、あの男は気が変になっていると言って取り押さえに来たというのだから、どれほど、どれだけ、イエス様のことを皆が理解していなかったか。しかも身内の人がまったく理解していなっかったか、不思議な気がします。

だから、イエスの評判というのは、気が変になっていると、そういう評判だったというわけです。いかに、世間的なものとイエス様の生き方というのがちがっていたのかというしるしではないのかという気がします。

今朝、黙想しながら思い出したことのひとつなんですが、あるイエズス会の神学生の話です。

長い間会社勤めしてたんですが、たまたま休みの日に、普通の会社、建築関係の会社だったんですが、たまたま休みの日に神山復正病院という御殿場にある病院に、ハンセン病の、今はもうハンセン病の人は少ないんですけど、ハンセン病の人の施設に見学かなにかに行ってですね、非常によかったと、非常に素晴らしい体験だった、ということで帰ってきたんです。で、信者の人に言うだけならよかったのかもしれなかったけれど、会社の上司にすごくよかったと、話し始めたら、上司がすごく変な顔をして、「おまえ、もともと変なやつだと思ってたけど、まったくわからん」と。「まったく、ハンセン病のところになんで訪ねて行くのか、訪ねて行ったことがなんで素晴らしいのか、もう、おまえのことは今までようわからなかったけど、さっぱりわからない」と言われて、まったく相手にされなかった、という話を、苦笑いしながらされた、ということがありました。

実際そうかもしれない。クリスチャンになって生きていくこと自身が、気が変になっている、あるいはちょっとおかしい、とかですね、ちょっと理解されない、というぐらいでいいのかな、という気がします。

まあ、イエス様が気が変になっている、と言われたんだから、それに従っている私たちが、少々気が変になっていると周りから思われているくらいが一番クリスチャンらしいのかもしれない、もちろん私たちはもちろん反社会的なこととか、社会常識に反することをするということじゃないわけですよね、イエスが大事にしたものを、イエスが大事にしたと思うものを大事にしているときに、やっぱりある人々からは、気が変になったと、ちょっとおかしいと、まあ、思われてるぐらいが、やっぱりなにかぴったり…まあ、ぴったりくる、というのはおかしいかもしれない…、そういう時こそずれていない、と言えるかもしれない。

私たちの人生を振り返って、やはり少し変だと、なんか、周りと合わない、ずれてるとか、いろいろのことがあるかもしれない。でも、案外そういう時こそイエス様の生き方に深く結ばれているという可能性が実際あって、なにかそういうイエス様の生き方を基準にしていかない限り、結局は迷いの道に入って行くような気がします。

時々信者さんが、わたしのところに来て、お祈りのこととか、こう、自分の悩みを話して、時々というか、けっこうしばしばありますが、「私って変でしょうか?」と聞く人がいるんです。

「私の祈り方って変ですか?」とか「私の信仰って、ちょっと変じゃないでしょうか?」って聞く人が、わりとしばしばいるんですが、私が答えることは、「別に変でもいいでしょう」って。他の人と同じようにやっている必要性はまったくないのであって、変だったら変なりに、あなたなりに祈っていたら、あなたなりの信仰生活なんだから、まあ、それでいいでしょう、って言うんですが、なんか、変かどうかを気にしている人ってけっこう多くて、それでなんか、確信が持てないみたいで、私にいろいろ聞くのでしょう。

でも、変でもいいっていう、その人なりであればいいわけだから、別になにかスタンダードなものがあってそれに私たちは合わせなければならないということも、実際ないのかもしれない。どれだけ私たちがイエス様の生き方に、なにか自分を合わせるというか、なにか、こう、フィットしていくかというか、つながっているか、という、そいういうところから評価、自分の今の姿を、自分の人生を見直してくというポイントはそこにあるんじゃないかと思います。

というのは、イエス様が十字架にかかったということですよね。これがだいたい変だと思います。教祖様が、十字架にかかって死ぬという、それ自身が気が変になったとしか思えない。自分の命をわざわざ捧げて、人類を救う、というですね、あがないの業を行ったということ自身、気が変でなければ、ちょっと、まともな常識的なひとだったら、それすらできないであろうと、やはり思われますね。

マタイ16章で、イエス様が、これから私は十字架にかかって行くと、弟子たちにはっきり言ったら、ペトロが驚いて、イエスを脇にお連れして、そんなことはあってはいけませんと、ちょっと、やはり気が変になったと、ペトロは思ったんだと思うんですね、イエス様がですね。だから驚いて脇にお連れしたわけですけれども、でも、それがイエス様のに使命だったわけです。あきらかにちょっと、十字架にかかるということは気が変になってないとできないくらいのことですけど、そこに神の御旨があるからイエス様はそれをされた、気が変かどうかということじゃないんですよね。

私たちもそこに自分たちの生き方のポイントを合わせていったらいいんじゃないかと思います。

逆に言えば、気が変になったと思われる、思われててもいいんじゃないかと思うんですよね。私たち自身が、あまりに人の評価を気にしたり、周りを気にするから、変である、変でないか、そういうことばっかり気にして、なにか中心点がずれていく。逆にいえばイエス様も気が変だと言われてたんで、私たちも気が変だと言われるくらいで、ぴったりというか、それぐらいでいいのではないかと。

その中でむしろ、先ほど言った「不偏心」というかですね、なにか、とらわれのない心に、あるいは委ねていく心、あるいは、苦しみや、わたしたちの悲しみから、越えて行けるポイントというかなにかがつかめるかもしれない、まったく気が変だと言われたイエス様にならって私たちも、他人からどう思われようが、どんなものであろうが、それでも自分はこれでいいんだと思える、そういうポイントと生き方を、そういう中にある、イエス様とともに生きるという深い慰めを、心の中の平安と、愛に満たされた心というか、そういうものによって私たちは生きていくというか、生きるようにしたいと思います。

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