テキスト版 マタイ福音書5章13-16節「わたしたちは世の光なのだから」

マタイ5章13-16節「わたしたちは世の光なのだから」
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マタイ5章13-16節「わたしたちは世の光なのだから」2014年2月11日癒やしのミサ、東京

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。

あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。

そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

「すでに世の光である」という出発点から

今の福音書は、この前の日曜日の福音書を朗読しました。「あなた方は地の塩である」「あなた方は世の光である」とイエス様は言ってくださいます。5章の山上の説教の最初の頃のところ、ここで大事だと思うのは、あなた方は、つまり私たちですけれど、地の塩だ、と。そして世の光である、と言っているのです。地の塩になりなさい、と言っているわけではない。あるいは、世の光になりなさい、と言っているわけではなくて、世の光である、と言っている。

時々ここを読んで、私たちは世の光にならなくちゃならないとか、地の塩にならなくちゃならないと考える。それは全く間違いではないですけれど、「なりなさい」ではなく、「世の光である」と言っている。つまり、私たちは地の塩であって、世の光であることを自覚するというか、自覚して、そこから出発するようにということを書いてあるわけなのです。すでに世の光であるということに気がついて、世の光として生きていくようにと、主が励ましておられるというのです。だから、世の光であるという出発点から行かなければならない。

停電になったらどうする?

光は何かといえば、当然、暗闇を照らすということです。暗いところを照らすために光がある。金曜日から土曜日にかけて、雪が非常に降って、鎌倉に住んでいるんですが、そこも非常に雪が降って、土曜日の晩だったかな、錬成会をやっていたんですが、夜になったら突然電気が消えて、停電になってしまって。これから夜のセッションを始めようと思ったら停電になって。仕方がないので、蝋燭を持って来て。でも、セッションはできないからどうしようかと言っていたら電気がついたので、またセッションをやりましたが、停電の時は真っ暗になってしまいますから、どうするか、と言ってら、そこで光を持ってくることが大事なことになります。

イエズス会と他の修道会を比較するジョークがヨーロッパにはいろいろあるのですが、こんな話があります。ある時に、カルメル会の神父さんと、フランシスコ回の神父さんと、イエズス会の神父さんが一緒にいる時に停電になったそうです。その時に、フランシスコ会の神父さんは「我らの姉妹なる闇よ」と言って、暗闇を賛美する歌を歌ったそうです。カルメル会の神父さんはどうしたかというと、闇の神学というか、「私たちは暗闇を通して神と交わる」と、暗闇の神秘を語ったそうです。イエズス会の神父さんはどうしたかといったら、部屋を出て行ってブレーカーを直して電気をつけたっていう…。まあ、イエズス会がどうするかはともかく、暗闇を賛美したり、暗闇を味わうことには非常に意味がありますが、一番大事なのは光を灯すということになるわけで、案外当たり前だけれども、案外難しい。ブレーカーを直すくらいだったらすぐですが、この前みたいな場合は、蝋燭の火を持ってこなければならなかった。すぐできるわけじゃなくても、カトリック信者の家では大体蝋燭が何本かあるので、停電のとき便利ですが。洗礼式の蝋燭とか、いろいろ持っておられる方がいるだろうから、蝋燭の火をつけたりする。そうするとちょっとは明るくなって、なんとかできるわけですけど。

私たちが世の光だということは、結局そうなんですね。光を灯すかどうか、ということに結局なってくるのではないかと思います。

闇が深くても蝋燭は1本で足りる

具体的に、私たちの生活で言うならば、それは、いろんな信者さんが来て、皆さんもそうですが、大きな苦しみを抱えておられる。病を抱えておられる方も多いと思いますが、結局は暗闇の話なんですよね。言ってみれば。職場で嫌な人がいて、とんでもない人がいる、とか、家族の中でも、ご主人がとんでもない人で、とか、子どもがとんでもないことで、とか。大体暗闇の話で、どんなに暗闇が深いか、という話を私にする方はおられる。闇が深いということだけを。

ただ、それだけだったら暗闇は無くならない。そのように闇は深いかもしれないけれども、最終的には私は、暗闇が深ければ深いほど、蝋燭1本つけたらどうですか、と言うわけです。

そうしたら、ある人は、あ、そうか、と思って蝋燭をつけるかもしれないけれど、ある人は、とんでもない、と。暗闇が多すぎて、大体周りの人のせいですから。ご主人が悪いとか、職場の人が悪いとか。周りの人が悪いから自分がこうなっている、と暗闇に巻き込まれたままで、結局どこかで光を灯そうとしない限り、暗闇は無くならないのです。つまり、暗闇の愚痴を言ったり、暗闇がいかに深いかと言うことをいくら話していても、それで暗闇がなくなるんだったら暗闇の話をたくさんしたらいいと思いますけど、暗闇は無くならないのです。暗闇をなくそうと思ったら、電気をつけるだけなんですよ。実際のところ。

どうするか、難しいかもしれませんけど、でも、イエス様が私たちを世の光である、と言っていることは、私たちは灯すことができると言うことです。光を。別に、こんなに大きな電灯がつかなくても、蝋燭1本つければちょっと明るくなる。
不思議ですけど、当たり前のことですけど、暗闇を暗闇だけ取ろうと思っても取れないのですよ。こんなに暗闇がいっぱいあるからと言って、ほうきとちりとりでは取れないし、電気掃除機でも取れない。ほうきではいて暗闇を外に出そうと思っても出ないのです。暗闇を追い出す唯一の方法は光をつけるだけなのです。光をつければ暗闇はなくなるのです。

闇とは戦わない、囚われない

ですから、本当は暗闇と戦う必要性もない。暗闇と格闘する必要性もないのですよ。光をつければいい。ただそれだけなのです。暗闇に対する対処の本当の方法は。それをするかどうか、その積極性を、どんなに小さくてもいいので、1本蝋燭をつけたら、ちょっと明るいから、もう、そこから始まるわけですよ、その1本から。1本の小さな蝋燭を自分がつけようとするか。でも、世の光であるんだからつけられるんですよ。つけられるから、一人ひとり、世の光だとイエス様がおっしゃっているわけです。だから、あとは、照らすだけなんですよ。
「灯火を灯して、枡の下に置く者はいない。燭台の上に置く。なぜ燭台の上に置くかといったら、照らされるからです。よく見えるところにおけば置くほど闇が消えるからです。私たちは世の光であるということは、すでに光があるのです。その光を適切な形で照らせばいいのです。大きい小さいは関係ないのです。小さくても、ちょっと光ったら、闇はもう消えるのです。

闇に囚われていたら、それはやはり、負のスパイラルです。闇が闇を呼ぶ。まあ、闇の中にとどまる方が楽なこともあるかもしれないけれど。ニコデモがそうなんですけどね。ニコデモのところで、イエス様が、暗闇から光の方に来い、と言うわけですけど、そうしたら、暗闇だったらかえってわからないから楽、明るいところにきたらはっきり見ちゃうから行きたくない、と言う気持ちが私たちの中にも湧いてくるかもしれないですけど。

でも、光で照らす以外にないのですよ、本当に。暗闇の中にいるならば、ですね。しかも、自分で小さな光を灯すだけなんです。どんなに小さくてもいいからそれが灯れば、消えちゃうかもしれないけれど、またつければいいわけですから。そうして、大いなる暗闇を少しでも追っ払っていけば、私たちの生活には、光が少しずつ輝いてくる。それで私たちの生き方は十分じゃないかと思いますね。標語もありますよね。「暗いと嘆くよりも、進んで灯りをつけましょう」とか。私の今日の話は、そう言うことです。

小さな光でも、自分で灯そうと思ったら、神様から力をいただいて、小さくてもいいから灯す、ということです。重い病気で苦しんでいるとしたら、少しでも健康に、リハビリになることをちょっとするとか、少しでも体に良い食べ物をちょっと食べるとか、プラスのことをちょっとでも積み重ねていくならば、それは大きなものにつながっていくことはありうると思います。

小さな光に向かって

同僚のアルゼンチンから来た神父さんの話ですが、家は農場なんです。高校生になって初めて車を見た、と言っていましたけど…車、というのは普通の乗用車のことですが、中学生まではトラックしか見たことがなかったそうで、すごい田舎に住んでいたそうです。農場がどれぐらい広いかというと、大体ここから新宿くらいまでなんです。ひとつの家の農場の一辺が、ここから新宿くらい。それの正方形くらいが自分の農場なんです。私たちの考えを超えているくらい広い農場なんですが、そこで、お父さんが牛か何かを飼っていた。彼が言っていましたが、そういうところでピクニックとか行ったりして、何が怖いかと言ったら、道に迷って日が落ちてしまったら、ものすごく怖い。真っ暗。だだっ広いところで迷っちゃったら、真っ暗で何も見えない。それこそ暗闇の世界になってしまうから。しかも平野ですから、どこまで行っても野原が広がっているだけで。道から外れちゃったら。延々に野原で、もうどうしようもない。経験がないから私には、よくわからないのですが。で、その時、どうするかといったら、あまり歩き回らないほうがいい。歩けば歩くほど分からなくなりますから。どうするかといったら、地平線をよく見る。暗くなって来て地平線をよくよく見てみると、どこか一つくらい、小さな灯りがある。星なんかもすごいでしょうけど、地上のところに一点くらいはごく小さな小さな灯りが見える。小さな灯りが見えたら、あとはひたすらその光に向かって歩いていくだけというのです。平野といっても、金網があったり、小さな起伏もありますけど、灯りを見て、真っ直ぐに何時間も歩いていけば、それがだいたい人家なのです。人が住んでいるところで、電気をつけている、その電気なのです。だから、それを見て、ただ一直線に歩いていけばたどり着くと言ってましたけど。

私たちは光の子

私たちが世の光であることも、ほんの小さな光かもしれないですが、周りが全部暗闇で、ほとんど真っ暗闇に見えるかもしれないけれど、どこかに微かに、ちょっとでも光があれば、それでいいんですよ。小さな光に向かって歩いていく。イエス様の光を自分たちの生きる中心にして。でも、基本は私たちは世の光なんですから、私たちの存在そのものが光に支えられている。暗闇に覆われているように見えるだけです。ほんの小さな光でも、自分の心に入れて、それに向かって生きていくならば、それがだんだん大きな光になってくる。神様の恵みの中で。
その光を信じて、私たちが歩んでいけるようにしたいと思います。私たちは皆、光の子どもだ、とヨハネの福音書に出て来ますけれど、私たちは光の子どもだということを忘れないようにして、その光を生きていく、歩めるように、このミサでお祈りしたいと思います。

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