【ミサ説教】ルカ福音書7章31-35節「神の望み、人の望み」
ルカ福音書7章31-35節「神の望み、人の望み」2008年9月17日 信徒の黙想会 鎌倉にて
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ
- 神様と人間の思いは食い違いがちのようです
- 自分の望みを神様に押し付けているかもしれません
- でもそんな人生はなんとなく虚しく感じます
- 神様と自分の望みが一致した人生を歩むには?
7:31 「では、今の時代の人たちは何にたとえたらよいか。彼らは何に似ているか。
7:32 広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/泣いてくれなかった。』
7:33 洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、
7:34 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。
7:35 しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」
神の望み、人の望み
今日のルカ福音書では、イエスがたとえ話を言ってるわけです。今の時代の人たちといっても、2000年前の人たちですが、私たちのことを言っているようにも思えます。この、笛を吹いたのに踊ってくれなかった、葬式の歌を歌ったのに、この、泣いてくれなかった、という、この、くいちがいのことを言ってるわけです。ある人が笛を吹いたのに、それに合わせて、喜びというか、この、踊らなかったわけで、逆に葬式の歌を歌うと、泣いてくれない。そういうずれのようなものを言ってるわけですね。
それは、神様がそうしてほしいと、イエス様が笛を吹いているのに、それに合わせて私たち人間が踊らなかった、あるいは、この場合、葬式の歌を歌ったというのは洗礼者ヨハネのことかもしれない。でもその時に一緒に泣いてくれなかったというふうに、この神様の心と、人間の心のずれのようなものを語っているんだと思います。こういうずれを見ると…ちょっと風邪をひいてて…いつもなんですが…こういうずれを見ると、ある場合なんですけど、すべてがそうではないですが、なんかこう、夫婦関係とかですね、親しい仲間同士のずれのようなことと似ているような気がします。なんか、歩調が合わないので、どちらかが嬉しそうにしているのに、もう片方がしらっとしていたり、片方が悲しんでいるのに、片方がなにか悲しみが伝わらない…こう、人間と人間との、このずれのようなものを感じますね。人間同士だったら当然そういうことはある意味でみんな自我が強かったりするので、なかなか波長が合わない、ということは、まあ、残念だけど起こりうるだろうと思います。
自分の思い通りにしたいという根本的な気持ち
結局のところ、わたしたち人間の、多分心の奥底にある気持ちは、まあ、もちろんケースバイケースでいちがいには言えないかもしれないですが、やはり自分の思い通りにしたいというのが根本的な気持ちかもしれない。で、なるべく自分に合わせてほしいと、相手の方が、ですね。自分の方が合わせるのがいやだと…そこからどうしてもずれが来てしまうような気がします。
人間同士の場合は、なかなかそのずれが、お互いさまなので、どこかでそのずれを合わせていく努力というか、苦労というか、そういうものは避けられないでしょうけれども、もっと問題なのは、やはり神様と人間のずれの問題ですね。それが、私たち信仰者皆が、確かに問いかけなければならないポイントかもしれない。
それも、結局のところは、まあ、私たちはいろいろ、なにか願ったけど聞き入れてくれなかったとか、あるいは、神様は信じてるんだけど、なんでこんな苦しみを神様は私に与えるんですかとか、いろいろ神様にも文句を言いたくなったりすることはあるわけですね。でも、その根本的な気持ちはやはり同じで、自分が神様に合わせたいという気持ちが結局は無い、というですかね、結局自分の方向性に神様に合わせてほしいというのが、根本の問題ではないかという気がします。
全知全能の神様に私たちが合わせたほうがいいのか、神様が私たちに合わせるべきなのか、ということじゃないかなと、最終的な問いかけとして、ですね。
神様の心を自分の心にできるか?
カバロス神父さんという有名な方がおられて、最近日本語でも本が出たんですが、彼が言うには、神様と踊りを踊るという言い方をするんですが、結局波長が合わないと踊れないわけで、気持ちを通じ合わせて、なにか、そういう時に自分のことばっかり考えていたら踊りにならないというか、どこかぎくしゃくしてしまうことになってしまうと思うんですね。だから私たちは、もちろん自分の望みとか願いとか、いろいろあるわけですがやっぱり神様と波長を合わせて、一種の、踊ると言ってもいいかもしれない。あるいは共に歩むというかもしれない、その時に神の望みとか、神の喜びとか、神様の心を自分の心にしていくような態度が根本的かどうかということじゃないかなというふうに思うんですね。
神の望みに合っていない人生は虚しい
でも結局、神様の望みとかに合わさなければ、やっぱり、どこかになにか、こう、無理があるというか、心のなかに…表面的には楽しいかもしれないけれど、深いところになにか、虚しさとか、淋しさとか、あるいは、ちょっと違う、という感覚が湧いてくるんだろうと思います。じゃあ、なにに合わせるかと言ったら、会社の方針に合わせていたり、世間のやり方に合わせるならば、表面的には楽なんですけど、でも深いところじゃ、やっぱりどこかが違うというかですね、だから結局、汚染されたお米を売ったりとか、結局あんなことを…まあ、あれは極端な例ですが、結局私たちが世間に合わせていくと、どっかが破たんして、どこかに無理が結局は来てしまう。
でも、思い切って神様に、徹底的に自分を合わせるならば、結局はそこに、一番深いところから自由な気持ち、愛の気持ちが湧いてくるんじゃないかなと思いますね。最終的には自分のエゴとの…エゴを置いて、神と歩調を合わせられるかどうかという、その根本ですね。
そこに合わせなければ、結局は世間に合わせたり会社の社長に合わせたり、あるいは頑固なお父さんに合わせたりせざるをえないとか、まあ、わからない。ご主人に合わせるのが一番いいかどうかわからないですよね。人間に合わせたり、世間に合わせたりする時に、結局は私たちは不自由になったり、囚われたり…。
心の平安がポイント
心の奥に一番感じてくる、そういう平安ですね、心の中の安らぎ、そういう時が生まれてくるときが、僕は、神様と一番波長が合っている時だと思います。それを、まあ、霊操の中では識別という言葉を使いますけど、霊的識別ですね、なにが神の御旨なのか、結局、神様と自分の心の波長が合っているのか、あるいは、自分のわがままとか世間の流れとか、自分のこだわりとか、悪霊の働きとかに歩調を合わせるのか、結局私たちはどちらなのかということになるのだと思います。
そのためには、自分の囚われを置いて、やっぱり神の望みはなんなのかということを、素直な心で聴いてみないとやっぱりわからない。そうでない限りは、結局自分の望みばっかりを神様にお願いして、聞き入れられたとか、聞き入れられなかったとかというところで、なんか、神様に対しても、なんていうんですかね、結局自分の方向に神を引き寄せるか、引き寄せられないかみたいな話になってしまう傾向はあると思います。
本当の自由は神と心が一つになった時
パウロが、私たちは自由のために召し出された、とあるんですが、本当の自由は、神と心が一つになった時だと思います。それ以外に、人間のほんとの自由はないと思います。そこから、わたしたちのほんとの歩みが出発するんだと思います。知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される、なにがほんとに知恵の正しさなのか、神様に従って歩む中で、それは明らかだ、明らかだと証明されるということですね。
私たちはもちろん、囚われて、ずれてしまうことはいっぱいあるわけですが、でもやはり、ずれてるところからまた軌道修正して、神様と歩調を合わせるところに絶えず立ち戻っていくならば、私たちの歩みは、たしかに自由と愛と、聖霊の九つの実りが、明らかに出てくる人生だと思います。それこそ、私たちの本当の幸せと喜びにつながっていくと思います。
神様と歩調を合わせているなかで、そういうものは自然と湧き上がってくるものだと思いますが、世間の流れとか、人間の自我とか、それに逆らうものも当然いっぱいあって、戦わなければならないものも多いかと思いますが、そういうものに振り回されることなく、私たちが本当に大切にすべきものを本当に大切にして歩んでいくことができるように祈りたいと思います。
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