説教ライブ

【今日のミサ説教】マルコ福音書6章7-13節「手のひらのマリアさま」

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マルコ福音書6章7-13節「手のひらのマリアさま」2024年7月14日年間第15主日ミサ六甲カトリック教会

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

  • 宣教の旅に何も持たずに出かけるとはどういうことでしょうか?
  • 実際、お金を使わずに生活する試みをしている人もいて、不可能なことではないようです
  • ですが、何より大事なポイントは、物にとらわれていると神様の恵みが働く余地がなくなるということでしょう
  • 神父様はいろいろな囚われを手放したら、手のひらにマリアさまが立っていたという祈りの体験をしたそうです

囚われを手放すワーク、やってみようかな

福音朗読 マルコ6章1-6節

7〔そのとき、イエスは〕十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、8旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、
9ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
10また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。
11しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
12十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。
13そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

手のひらのマリアさま

今日の福音書はマルコの6章、12人の使徒をですね、宣教のために遣わすときの心掛けをイエス様がおっしゃるんですが、旅に派遣するっていうか、送る勧めとしては、やっぱりちょっとレベルを超えた不思議なことを、イエス様は、ちょっと常識外れなことをおっしゃいました。旅には杖1本の他何も持たず、パンも袋も帯の中に、金も持たせというわけですけど、杖と履物はいいんですが、パンも袋もお金も駄目っていうことですね。お弁当も駄目だし、旅行鞄も駄目と。一番困るのはお金を持っていかないっていうですね。ちょっとこれをどのように私達が生かしていけばいいかっていうことですけど、新神戸に行くためにバス代もなかったらどうやっていけば、新神戸に行ってもそっから切符買うお金がなくてですね、しかもパン持っていけなかったんだけどね、お弁当も持っていかず、お弁当を買うお金もなかったから、もうちょっとイエス様のすすめもちょっと非常識極まってるっていう感じがするような、厳しいことをおっしゃってる、それをどのように私達はどのように私達が実践するかということになりますね。

一銭も使わない生活・ミニマリストの生活

これは全くできないかって言ったら、だいぶ前ですけど、確かリーマン・ショックの後ぐらいだったと思うんです。テレビで資本主義金融資本主義の何か問題点みたいなドキュメンタリーがシリーズで、やってるのを見てですね、いろいろヘッジファンドがどうのこうのとかいろいろそういうシリーズだったんですけどそのうちの一つが、ドイツ人の女性が出てきてですね、その人がお金を全く使わない生活してるっていう人のドキュメンタリーでそれは非常に印象的だったんですね。若い頃は教員をしていたみたいで結婚もされてたみたいなんですけども、60代の後半か70代前半ぐらいだと思うんですけど、もう何年もお金使ってないって言うんですね。持ち物がカバン一つだけ小さなボストンバッグ一つだけに着替えがちょっと入ってるだけで、どういう生活してるかって、お金なしにね、どうやってるんですかって言ったら誰かが私の家に来てくれっていうふうに何かオファーがあって、切符付きで、それでその人のうちに行ってですね、そこでいかにお金を使わない生き方をするかっていうことを一緒に何か試してこうやると、いろいろお話をしたり、市場か何かに行ってこの捨てられてる野菜をただでもらってきて料理して作るとか、そうこうしてるうちに何かまた別の人から連絡があって、自分のうちにも来てほしいというので、そしてまたその何て言うんすかね、交通費なんかも一緒に送ってきてそれを何とか五、六年やってるっていう。ちょっと健康保険や年金はどうしたのか、ちょっと心配にはもちろんなりますけど、でもその人がなぜそういう生活してるかって言ったら、やはりこのあまりに私達がお金に囚われ取らわれすぎてるから、お金なしに生きていけるってことを実験してる自分があって、五、六年それをやってて、とにかく一銭もお金を使ってない、お金どころか家も服だってボストンバッグですから着替えもそんなないわけで、だから結局その泊まったところで、もらったりですね、あるいは交換したりしてるのかもしれないですけど、あの娘さんもおられて、お孫さんと一緒に、時々娘から連絡があって私の家に来てくれって言うから娘の家でも例えばしばらく滞在したり、そういう生活をしているということなんでですが、やはりちょっとびっくりという感じがしますね。

私達はやはりあれがなければ駄目だとかこれがなければ駄目だとか、あるあれがないから困るとかっていうのを考えてますけど、でも案外やっぱり私達が物にあんまりとらわれてしまうと、結局不自由な気持ちになるということと、心に余裕がなくなってしまう。そういうことは確かに私達の中にあるかもしれないというふうに、思います。ミニマリスト今流行っててYouTubeで出てきたりしてあれ、なるべく物を持たない生活を、しかも極限まで減らすっていうあの生活している人たちなんですが、でもミニマリストたちの言うことは大体、心の余裕ができる、時間の余裕ができて、生活がゆっくりできるようになる。ものが、なければないほどですね。それはそうかもしれない。

何もないところで神が働く

でもさらに私達は、あまりにこの物とか何かにとらわれない生活をすれば、ただもうちょっと神の恵みのうちに、つまり何か神の恵みを先取りして、先取りっていうか、結局人間の力で全部やってしまうと、結局、神様の働く余地がなくなってくる。そういうことはあるかもしれないというふうに思います。

小さき姉妹会っていう修道会があって、シャルル・ド・フーコーというフランス人の流れを汲んでいる。そこは本当に貧しさを大事にして、仕事も何かトイレ掃除するとか何かあんまりお金が儲からないことをするような形で、住んでるところものすごく貧しいところで、制服がジーンズのなんかそういう生地のを着てる人たちなんですけど、時々、一昔前なんで、今は多分やってないと思うんすけど、日本の僻地で住んでたりとかして、毎年に1回集会に集まるんですけど、ただ北海道の端に住んでて、東京か埼玉かどっかに集まるんですが、交通費がですね、500円なんですよ1人。500円でみんなやってくるんですよね。500円でどうやって、北海道から東京まで来れるのかと言ったらですね、みんなヒッチハイクしてくるって、お金がないから。長距離トラックに拾ってもらってそれで来るっていうんですよね。結局、だんだんやってくるともうみんなわかってくるし、シスターたちも親切だから、トラックの運転手も何かだんだんその人たちを乗せるの気持ちが良くなって、感謝されたり、何かちょっとした手作りのプレゼントとかもあったりしたら、それでもうネットワークができてて、だからそのときのシスターたちはもう日本全国どこに行くのを500円で行ける。結局何にもなかったら、なかったなりに、何か助け手が入ってくるし、なんか恵みが入ってくるから、何か不思議な繋がりが出てきてですね、それで500円で日本国中どこでも行けるっていう、自由さと助け合いの何かが生まれてくる。それはやはり一つのイエス様の言っているすすめを実践していく一つのやり方かもしれないと思う。

そうですね。私達はもちろんそこまで極端なことはできないけれども、でも結局私達が物とか、何かにお金とかに執着しても、あれが足らないとかやっぱり心配だからこうしとかないとか、そういうことばっかりに、ある程度もちろんしなきゃならないですけど、仕事ばっかりにとらわれてしまうと、やっぱり心の自由とか神様に働く余地というんですかね、スペースがなくなってしまうということは確かにあるかもしれないというふうに思います。

全てを手放したら手のひらにマリアさまが立っていた

ある時、だいぶ前ですけど信者さんと一緒に練成会が何かやってたんですよね。晩の祈りを、ある1人の信者さんが導いやってて、ちょっと細かいところは忘れたんですけどとにかく手を出しましょうっていうんですよね。手のひらをって。自分が今日1日か最近悩んでる、あるいはこうしなきゃならないものをちょっと数えてみて、それを握りしめるというんすかね、これを両手で私もあれもこれも、こういうことでこれこういう問題があってとかなそのときに。その次にその人がそれを手を開いて手放しましょうっていうんですよね。だからそれで、いろんな問題とか執着をぱっと手放しって、その後、僕の手のひらに何が残ったかって言ったら、祈りの中ですけど、手のひらにマリア様が立ってたんです。結局私達があれもこれも握りしめてこれも足らないとかこれだけ準備してとか・・・結局、神様が働かないんですよね。でも、私達の信仰生活の基本はやっぱ手放すとか、囚われを持たないとか、そうすると、マリア様が、神様が、そのスペースを埋めてくださって、そしてもっと大事大切なことを教えてくださったり、神の導きが現れるようになる。

そういうことが今日のイエス様の、これ福音宣教の話ですからね。やっぱり何でもかんでも揃っててやるんじゃなくて、足らない中であるからこそ、神の恵みと人々の善意が。だからどっかの家に招かれたらそこに泊まりなさいと。でも泊めた人も嬉しいと思うんですよね。そこでね、泊めて、その人たちとお話をする中で、やっぱり恵みが広がっていく。神様の恵みが広がっていく。何かそういうことの形で、福音を広めなさいとイエス様がおっしゃってるんだと思います。

だんだん世知辛い世の中になってきて、全てが値上げとか何とかかんとか、いろいろ難しいですけどこういうときだからこそ、執着を置いて、神の恵みに委ねるならば、私達はもっと喜びや恵みの溢れた生き方に招かれていることに気づくことができるんじゃないかと思います。全てのお金をね、持たないでってわけにいかないんですけど、でもなるべくやっぱり囚われと執着を置いて、神様に対する素直な単純な信頼の心で、歩んでいけるように、神に恵と力を願いましょう。

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