【ミサ説教】ヨハネ福音書9章1-15節「いやしのプロセスは未来志向

ヨハネ福音書9章1-15節「いやしのプロセスは未来志向」2025年2月24日年間いやしのミサ旅路の里
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ
- いろいろな問題の原因は詰まるところ原罪にあるのでしょうか?
- 私たちは、ついこのように後ろ向きに考えてしまいます
- ですが、いやしのプロセスを通じて神のみ業は実現します
- 未来に成就する神のみ業のために今はあるのです
福音朗読 ヨハネ福音書9章1-15節
1:ヨハネによる福音書/ 09章 01節
さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
2:ヨハネによる福音書/ 09章 02節
弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
3:ヨハネによる福音書/ 09章 03節
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
4:ヨハネによる福音書/ 09章 04節
わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。
5:ヨハネによる福音書/ 09章 05節
わたしは、世にいる間、世の光である。」
6:ヨハネによる福音書/ 09章 06節
こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
7:ヨハネによる福音書/ 09章 07節
そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
8:ヨハネによる福音書/ 09章 08節
近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。
9:ヨハネによる福音書/ 09章 09節
「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。
10:ヨハネによる福音書/ 09章 10節
そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、
11:ヨハネによる福音書/ 09章 11節
彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
12:ヨハネによる福音書/ 09章 12節
人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。
13:ヨハネによる福音書/ 09章 13節
人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。
14:ヨハネによる福音書/ 09章 14節
イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。
15:ヨハネによる福音書/ 09章 15節
そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」
いやしのプロセスは未来志向
今朗読したのはヨハネの9章のですね、生まれつき目の見えないこの盲人をイエス様が癒される、目が見えるようになったというお話なんですが、非常に印象的なお話だというふうに思います。盲人がいてですね、弟子たちが何気なくか、深く考えてか尋ねたんですね。「ラビ」って先生という意味ですけどね、「先生、この人が生まれつき目が見えないのが見えないのは誰が罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」っていうふうに尋ねるわけですね。私達が病気だけじゃないですけど、いろんなですね欠点とか問題があったときに、やっぱりいろいろ考えるわけで、やっぱり原因は何なのかっていうふうに考えるのが、実際は普通のことではあると思いますよね。
特にこの両親が罪を犯したからって言うんですけど、でもやっぱりよくよく考えたら、やはり親の影響とか家庭の影響が大きいですからね。だから目が見えるか見えないかはあれだけど、性格的なこととか、いろんな問題はやはりどういう親に育ったかっていうのは、案外決定的かなっていうのは強く思ったりすることでありますよね。
今日の第1朗読がこれまた気分の重い話なんですけどアダムとエヴァが人類の最初だったんですよね。アダムとエヴァが結局、神様がするなっていう、食べたら駄目っていう善悪を知る木の実から食べちゃって、それで罪を犯したから神様に怒られて、エデンの園から追い出されたわけですよね。最初の人類がそうやって罪を犯して二人から生まれた2番目の人間が、カインとアベルだったんですけど、そのカインとアベルが兄弟喧嘩っていうか、兄弟ってなかなかまだ難しいところがあるから、結局これはめちゃめちゃですけど、何とカインがアベルを殺しちゃうっていう。兄弟殺しをするってですね、2番目の人類が兄弟殺してるんだから、どんだけかって、何か実際はやっぱ思いますよね。
結局カトリックはカトリックは、一応プロテスタントもそうだと思うんすけど原罪っていう、人間生まれてるときから罪があると言ってるわけですからね。なんで罪があるかって言ったら祖先が罪を犯したから、私達はもう罪の傾向があるっていうふうに、それは別の教えではそう言ってるわけですから、だからもうあんまりねやっぱなんか楽観的に物事をやっぱ考えられない。
だから私達が親の影響を受けるのは、マイナスのプラスのこともありあるけど、マイナスの影響を受けるのもしゃあないかなっていうかですね。どういうどういう親に育てられたとか、どういう家庭で育ったとか、それはやっぱ大きな影響がやっぱないとはちょっとやっぱり言い切れない、とはやっぱ思いますし、場合によってはなんで自分がこんなに苦しいのかっていうように言うときは、カウンセリングとかね受けてねそれで自分の子供時代をちゃんと振り返ってどうだったかっていうことも、やっぱりプラスにはやっぱなると思いますね。
しかも、弟子たちはですね、両親が罪を犯したからですか。本人が罪を犯したからですか。本人の可能性もあるでしょう。やっぱりそれは病気になるのはそれは酒飲みすぎてアル中になるわけで、酒飲みすぎたら本人のせいですから。でもなんで酒飲みするかって言ったらそれはまた別の原因があるから飲まざるを得なかったとかですね。やっぱり罪の繋がりっていうか連鎖っていうか、なかなかアダムといえばカインとアベルからも延々と人間が罪を犯してきて、悪い影響を何らか受けてるっていうのは、何か論理的にどうかもちょっとわかんないっすよ、論理的に考えたらアダムとエヴァの次はなんで私達がなきゃならないのかって言ったら、論理的には難しいですけど、でもなんか実感というんですかね、やっぱ何かあるんじゃないかって、やっぱり思うところもあるし、そういうことをちゃんと何か原因をしっかり見つめ直した方がいいようなところもなきにしもあらずですけど、でもイエス様はその問いに答えないですよね。
答えないでこういうわけですよね。本人が罪を犯したからでも両親が罪を犯したからでもないと。神の業がこの人に現れるためだというですね、全然違う角度で病気とか、人間の性格的な欠点とか問題とかを、違う角度からやっぱり見られるということですよね。
これも僕は非常に大事なことで、結局、だから親がこうだったから自分がこうだって言ったら、なんか抜け道がないっていうか、誰が悪いんだったらもう、こんな自分に育てた親が悪いっていうことで、先がやっぱりなくなっちゃうけど、でもイエス様が神の業がその人に現れるためだ、というふうに未来に向けてそこからですね、神様の業の力が働いてくる、そういう視点でイエス様やっぱり見ててあんまりイエス様は過去のことがどうのこうのとか、あんまりおっしゃらないですよね。しかもあんまり運命論じゃない、こうだからこうなっちゃったってこともあんまりおっしゃらないし、結局やっぱり今の自分、そして今何かね多かれ少なかれ、何の問題もないってことはないでしょうから、でもそれを受け止めながら、この未来に向かってイエス様とともに神の業、そこから良いものがですね、どう出てくるのかっていうそういうやっぱ前向きな気持ちっていうかなそれで行くのがやっぱりイエス様のものの見方っていうか、私達はやっぱそのようにしていくっていうことの大事さはやはりあるというふうに思いますね。
今日は日中は教会で葬儀やってたんですけど、割と有名な眼科医のお医者さんでそれでちょっとそれでちょっと今日ここの箇所読んだんですけど、やっぱねもうかなりおじいちゃん亡くなったけど若い頃の話を聞いたら、やっぱり前向きなんですよね。
目の治療だって、今の治療が急にできたわけじゃなくて、やっぱり当時はいろいろあって、網膜剥離とか白内障とか、まだまだ治療方法がなかったんですよね。若い頃に外国でとか日本でとか、最新の治療、技術を取り入れて、少しずつそういう何て言うんすかね技術もちょっとずつ発展していって、昔治らなかった病気が治るようになった。だから逆に日本の他の病院で治らない目の病気がその病院だけで治ったんですよ。その当時はですね。だから非常に著名な有名なお医者さんになったんですけど、でもそれはやっぱり何でそこで治ったかと言ったら、最新の技術を取り入れたからですよね。他の病院は取り入れてなかったから、他の病院で治せない病気が神戸の病院だけでは治せたっていうですね。だけどそのためにはある治療の機会を買わなきゃならない。最新式のでも病院が買ってくれないからなんと本人が買ったって言うんですよね。どれぐらい値段かといったらフェラーリ1台分の値段。外国のあのスポーツカーか何か買うぐらいの値段だったっていうんですから。でも結局それを自分で買ったって。大したもんだけど結局ローンを払い続けたって言ってましたけど。でもやっぱりね、結局前向きに行くかどうかですよね。もちろんね全部が成功するわけじゃなくて、試行錯誤でしょうけど、でもやっぱり私達が何か問題を解決しようとか、癒しの恵みとかですね、あるいは赦しにしても、今の困難を乗り越えていこうとするなら、やっぱりいろいろ工夫していくっていうことがやっぱりどれだけ大事かっていうことですよね。
イエス様はですね、ちょっと現代から言ったら考えられないけど、どういうふうにして癒したかって言ったらイエスは地面に唾をして、唾で泥をこねてその人の目に塗ったっていうんですけど、今のお医者さんがそんな治療したら大変でしょう、泥を塗ったりしたら、もうそれだけで訴えられるみたいな。でもそのときのわかんない聖書学者がいろいろ言ってて、唾には何か何か殺菌作用があるとか、泥の中にはどうのこうのとか本当かどうかわかんないけど、でも結局やっぱりなんか、いろんな工夫してですね今は今まで泥なんか塗らないですね。塗った泥を木津川で洗ってこいとか何とかそんなことありえないけどでも今は今でまた違う形で癒しの方法とか道とかそれはやっぱりあるでしょう。それはね、その人を急に泥塗られてちょっとびっくりしたでしょうけど、でも今は今なりの方法があって、その人なりの癒しの道を主が示してくださるわけですから、私達はやっぱり前向きに前を向いて、やはりこのイエス様の業に協力していく。
病気だったら、やっぱり何か栄養にいいもの食べようとか、薬をちゃんと飲もうとか、あるいはやっぱなんかちょっとね、できる範囲でリハビリでやっぱ足腰を鍛えようとか病気によって違いますけど、そういう工夫の積み重ねの中で、やっぱり癒しの業っていうのはやっぱ起きてくると思いますね。あとはなんかやっぱ前向きに、やっぱり困難を越えていこうってする、自分はやらないといけないことがあるからっていうなんか前向きな気持ちもすごく大事だと思いますけどそのような中で、私達に癒しの力が働くし、勇気っていうんですかね。何か前に向いていく希望の力もやっぱり主が与えてくださると思うんですよね。そういう中で私達がこの神の業に向かって歩んでいける、そういうことをちょっと大事にしていくことができたらいいんではないかなと思います。
実際、ちょっともう読まないですけどこの話が長くて、その後えらいずっと話があって、目が見えるようななったことに対してもファリサイ派とかユダヤ人が怒ってて、そのどうのこうのって、この人実は迫害されてる。この後、結果会堂から追い出されちゃうっていうなんか、実はそれほど楽なあれじゃないんですよね。ここが実は始まりで結局街道で追い出されてそれで初めてイエス様に、この人は本当の意味でメシアのイエス様に出会うんですよね。
だから、癒しのプロセスがあって、後ろでこう書いてあるんですね。イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、あなたは人の子信じるかと言われた。彼は答えていったしその方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが、イエスは言われた。あなたはもうその人を見ているあなたを話してるのはその人だ自分自身がそうだ。彼は、彼が主を信じますと言ってひざまずくとイエスは言われた。私がこの世に来たのは裁くためである。こうして見えないものが見えるようになり、見えるものは見えないようになる、っていうふうに言うんですけどね。信仰の目が開かれるって話に結局繋がっていくんですけれどもね。
私達も様々な癒しのあるいは救いのレベルというのかがありますから、しっかりそれを受け止めながら、やはり何て言うんすかね、一つの試練が来ても、それを一つ乗り越えながら、神さまが示そうとされている、そこに私達がまた歩んでいけるようにですね、その恵みと力を願いたいと思います。
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