説教ライブ

【ミサ説教】ヨハネ福音書19章25-27節「十字架の下に立つ信仰」

hanafusafukuin

ヨハネ福音書19章25-27節「十字架の下に立つ信仰」2025年9月15日年悲しみの聖母 いやしのミサ旅路の里

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

今日は「悲しみの聖母」を黙想する日ですが、マリアさまは十字架の下でしっかりと「立っていた」。これは積極的な信仰の姿勢です。困難や苦しみは、嘆いていても解決しないこともあります。ですが、マリアさまとともに十字架の下に「立つ」ことができるなら、復活の希望に向かって力強く歩むことができるはずです。

神父さんの知り合いの障がいを持った女性の生涯のお話が聞けます

福音朗読  ヨハネ福音書 19章25-27節 

25:イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。
26:イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。
27:それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

十字架の下に立つ信仰

昨日9月14日、十字架賞賛の祝日に当たっているので、それに合わせてでしょうけれど、翌日の今日、マリア様の悲しみをこの。黙想する記念日になっています。読んだのがイエス様の十字架の時のことですが、十字架のそばには女性たちと、そして母とが立っていたというふうに書いてあるわけですね。

この、私たちが苦しみに接した時に、結局2つの態度を私たちは取るしかないわけで、一つはやはりその苦しみがなくなるように一生懸命解決するように努力する。病気をした時だったら、病気が治るように治療を受けたり、何かをし、様々なトラブルがあったらそれを解決しようと思って努力することが、やっぱり私たちには必要ですよね。

でも、解決できないことも結局多いわけで、人間の力でどうすることもできない様々な苦しみも、やはり私たちにあると思います。そういう場合に私たちができるもう一つの方法は何かと言ったら、今日のマリア様のように十字架の側に立ち続けるしかないというかですね、急に何かが変わるわけでもなくて、そこに立ち続けることが大事だということなんですよね。

このマリア様が立っているという、この聖書の中で立つというのは積極的な意味なんですよね。
ここの場面で時々、今いろんな西洋の絵画でいろいろあるんですけれども、一つの絵画ではマリア様がちょっと倒れていて、それをヨハネが支えるような絵があるんですけど、間違ってるんですよね。
立っていると書いてあるから、へなへなとなっているわけでは実際ないわけですよね。これも歌になっていて、ラテン語で「スタバトマーテル」という、この場面が歌になっている「スタバトマーテル」というのが、「母は立つ」という積極的な意味なんですよね。

だからマリア様は結局、イエス様の十字架はわが子が死んでいく姿を見ている。それは大きな苦しみなわけですけど、でもそれに巻き込まれずに立ち続ける力強さというのか、振り回されないその信仰の強さを守っていたということなんですよね。

結局、その十字架のそばに立ち続けることができたから、イエス様の復活の恵みにあずかって、大きな救いの力にあずかることができるようになったわけですけれど、やはりこの十字架のそばに立ち続けることができるかどうかということが、結局私たちのこの病気にしても障害にしても、苦しみにしても、その一番のポイントじゃないかと思いますね。

男の弟子たちは、結局、立ち続けることができなかったから、逃げちゃったり、裏切ったり、離れちゃったり、立ち続けることができなかったということであるわけですよね。

私たちはしばしば倒れてしまうので、ここで愛する弟子がいたというんですけれど、このヨハネということですが、やはりこうやって愛する弟子として名前を書いてないのは、私たちにそこに当てはめることができるからでしょう。
自分一人じゃなかなか立つことができないので、やっぱりマリアと共に私たちは自分自身の十字架、それが何であっても、それをしっかり受け止めて立ち続けることができるならば、それがいつか分からないけど復活の愛に支えられていく。そこに私たちが与っていく、その希望があると言うことだと思いますね。

今日は午前中に山口の教会下関の教会で葬儀ミサをやってきたんですけど、その人は60過ぎで、癌で、きっと僕より若い人で、癌で亡くなって亡くなられたんですけど、20歳の時にいわゆる障害者になったんですよね。

二十歳の時に車椅子になって、それからずっと車椅子の生活で。それでカトリックの障碍者の集まりのちょっとその地方のリーダーみたいな感じで活躍されてた方で、会社でも活躍されてたんですけど、彼女と色々とそばにいたから、ずっと亡くなる前に彼女とずっと喋りながら、亡くなる2日前にも彼女に会ったり、ほぼずっと一緒に過ごしてたんですけど。

でも彼女の話で一番なるほどなと思ったのは、大学生で20歳で障害が出て歩けなくなって車椅子になったんですけど、3ヶ月間は泣き悲しんでたというか。何もできない、何もできないっていうか。結局今までやりたいと思っていたことがいろいろできなくなって、留学に行く、アメリカに留学に行く計画もあったんですけど、結局障害者になって3ヶ月間はずっと泣いてたというか、学校も行かずにですね。

でも彼女はふと立ち止まって、結局3ヶ月間ずっと泣いたり悲しんだり、恨んだり、いろいろしてたけど、3ヶ月間そういうふうにしてたから何か変わるかと言ったら何にも変わらない。彼女はクリスチャンなんですけど、何にも変わらない。つまり泣き悲しんだりしてても結局何も変わらないから、もう泣くのをやめて、自分でできることをしましょうと決意をして、そこから生き方をガラッと変えたんですよね。

考えたら確かに泣いたり悩んだり苦しんだり。ただしてても実際は確かに何も変わらないから、実際意味がないと言ったらやっぱり意味がないということですよね。
それからどうしたかと言ったら、やっぱりまず学校に行かなきゃならない大学生で。だからまず最初にしたのは自動車の運転を勉強して、自動車に自分で乗れるようになったら行けますからね。車椅子の人、運転できるんですよ。足で使わない形で特殊な車があるので、運転免許を取って、それで学校に自分で行くようにしてね。
そんでもって学校側も偉かったと思いますけれど、彼女の取る授業を全部一回にしてくれたんですね。

昔の校舎だから別にエレベーターなんかないから大学側もえらかったと思いますけれども、今で言うと合理的配慮っていうんですけど、それを学校側もして、結局、だからアメリカの留学も行ったんですよね。多くの人の協力で。だからものすごく前向きで。

別に障害は変わらないわけですよね。
それは障害って治らないから障害というんですよ。

それで、でもその中で自分ができることを精一杯やっていくというか、ものすごい前向きな人で、彼女の前向きさにどれぐらいの人が助けられたかってことなんですけれどもね。

去年、癌が見つかっても結局治らない。
もう進行性の癌で、でも本当に時々愚痴を言うこともあったけれども、ほとんどやっぱり彼女の霊名がマグダラのマリアとマグダラのマリアも(十字架の下に)立っているんですけど、マリアマリア様と一緒にね。
だからやっぱりなんかもう全く振り回されてないで、自分の出来ることを淡々として整理しなきゃならないこともいろいろして、周りの人が泣いているのに、本人が一番泣いてなくて、結局この前の金曜日に亡くなられて、それで今朝葬儀だったんですけど、やはり十字架のそばに立って立ち続けるということは、やっぱり前向きな気持ちというのかな、やはりイエス様の復活に向かって歩んでいるっていう。

この、要するに悲しんだり悲しんだり泣いたりしても、苦しみそのものは変わらないんだから、じゃあそれをどう受け止めて前を向いて私たちが歩んでいくかという、ただそこだけにかかっている。
全てがうまくいくわけじゃないわけで、結局ちょっと今からすれば短めの彼女が終わっちゃいましたけれど、とにかく聖堂がもう人でいっぱいいっぱいで、友達とか関係者がいろいろおられて、で、外で警備やって、信者さんはクリスマスよりも人来ましたと。めちゃくちゃたくさんで、ほとんど未信者の子で、会社で働いてる。

いや、何かやはり素晴らしいなと思いましたけれど、私たちも小さな十字架や自分自身の十字架とか、あるいは誰かの十字架の傍に立たなきゃならないことも多々あると思います。
けれど、実際、心の中で泣こうが笑おうが、実際はどちらでもいいっていうか、結局、でも、自分が立たないでヘナヘナと倒れちゃったら、それは結局自分が損するだけで。

実際のところなかなか立ち上がらないから。苦しみだからみんな倒れちゃうわけですけど、でもやっぱりマリア様が立っていたということですよね。マグダラのマリアもそこで倒れないで立っていたということですから、その強さにあずかることができるように、そしてそこから少しでも私たちが希望を持って歩んでいけるようにですね、恵みを願いましょう。

そして、(彼女は)いろいろ苦しんでいる人に対してものすごく優しくて、まあ結局ね、結構倒れる人が多いですから、やっぱり苦しみが来たら、そういう人に寄り添って励まして、その人が立ち上がるまで、何て言うのかな、こうケアをしたりすること、素晴らしかったし。(彼女が亡くなったことは)非常に残念な気持ちですけど。

亡くなられたこと、残念な気持ちですが、でもやはり私たちも病気になったり、障害、あるいは私たちだっていつか死ぬわけですけれども、そんな中でもやはりこのマリア様にならって、十字架の下に立ちながら、やっぱりこのイエス様の復活に向かって歩んでいく力強さが与えられるようにですね、そういうのを願いながらミサを捧げたいと思います。

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