【ミサ説教】ルカ福音書18章35-43節「本当のことが見えたら」

ルカ福音書 18章35-43節「本当のことが見えたら」2025年11月17日年いやしのミサ旅路の里
私たちは実は見えていないことが多いのかもしれません。本当に大事なことが見えるようにイエス様に願いましょう。目の見えない人はイエス様のいやしをいただいてそのままイエス様に従いました。私たちも、一人ひとりにイエス様が開いてくださる道を歩みましょう。

年の黙想やら、引っ越しやらでご無沙汰していました。
神父さんは防府教会に赴任しました。
福音朗読 ルカ福音書 18:章35-43節
イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。
本当のことが見えたら
ちょうど今日の福音書は、ルカの18章イエス様のちょうど癒しのところですよね。ある盲人が、目の見えない人が物乞いをしていて、群衆が、多くの人が通っていくのを見て。目が見えないから他の人に聞くわけですよね。ナザレのイエスの通りだと言って、イエス様の評判はこの盲人も聞いていたのであろうと思われますから。それで彼は自分にも愛おしいと思ったのでしょうけど、ダビデのこういうイエスを、私を憐れんでくださいと叫んだわけですね。
でも、周りの人がうるさいから、叱りつけて黙らせようとしたが、ますます大きな声でダビデの声、私を憐れんでくださいと叫び続けたということですね。
実際、目の見えない人は目が見えないというのは非常に大きな、当たり前ですけど、大きなハンデなので、どこを歩いているのか分からないわけですから、やっぱり大きな声を出すしかないわけなんですよね。
目の見えない人と付き合っていると、実はこういうことが多くて、分からないことがあったら、結局集まりとかだったら、普通、目が見えてたら受付とかに行って、これはどうですかとか、そういう人と会っているわけですけど、目が見えない人は受付がどこか分からないから、だからこれほんとこれよくあることで、大きな声でとにかく言うしかないんですよね。
だからわりと目の見えない人は大きな声でわりとちょっとみんなに聞こえるように、とにかく誰かに分かるように、大きな声でこうわりと言う人多いんですよね。それはもう一つの障害があるから仕方がないですけど、目が見えてたら大声を出さなくて、むしろ全然構わないんですけれど、やはり仕方がないですよね。
目が見えないんだから、もう誰がどこにいるか分からないから、困ったことがあったら言わざるを得ないんですよね。
日本語でね。空気を読むとかっていうことがあって、空気を読むって英語で絶対表現できない。で、空気を読むっていうのは、実は見ているってことが実はポイントで。みんなの顔色とか見える。
だから盲人の人って空気を読むのがめちゃめちゃ苦手なんですよ。だって見えないから分からないんで。だからやっぱり場違いにちょっと大きな声を言ったりとか、実はこれすごいよくあることなんで、非常にそうだなという風に思う描写なんですけど、そこでイエス様にやっと声が届いたから、盲人をそばに連れて行くように命じられて。
イエスがわざわざ彼に何をしてほしいのかと言ったら、目が見えるようになりたいのですということを言ってそれでイエス様が見えるようになれて、あなたの信仰があなたを救ったというふうに宣言されて、そしてこの盲人は目が見えるようになったというわけですね。
これは本当に大きな恵み、この盲人にとって大きなお恵みだったと思いますけれども、私たちにとっても実際ですね、どれくらい見えているのかということも、実は大きなポイントではあるんですよね。
それで思い出したんですけど、国民の「民」というか、民族の「民」ですよね。
「民」という漢字ですけれど、あの漢字の由来って実はなかなか厳しいものがあって、頭の上の口の部分は実は目なんですね。語源からいったら、右側にぴゅっと出ているとか、横の線みたいな。何かというと、実は槍なんですよ、本当は。実はあれは槍で目を突いているという。
つまり目を見えなくさせているということなんです。
誰が目を見えなくさせているかといったら、それはやっぱり権力者なんですよね。だから、みんなが目が見えたら困るから。だから結局、普通の人は槍で目を潰して目を見えなくしているのが民っていう本当の意味なんですね。
だから結局私たちも見えてないといういろんなことがあるということな。その語源的に白川静がそう言ってるんですけど。だから、なかなか本当に私たちは見えているのかどうなのか。まあもちろんフェイクニュースとかいろいろあるけど、その昔からですよね、大事なことはやっぱり見せないわけで。
だからオールドメディアだろうとニューメディアだろうと、やっぱり本当のところは実は隠されているものがいっぱいあって分からないという、だから私たちもやっぱりイエス様に本当に大事なことが見えるように願わなきゃならないということが、一番の根本的なことの一つじゃないかなと思いますね。
だから、イエス様が何をしてほしいのかと言った時に、結局はこんなに情報がいっぱいあっても分からないことを、自分の人生のことについてとか、人が抱えてどうする、仕事をどうすればいいかとか、これからどうすればいいかとか、分からないことだらけですから、実は見えていないことがいっぱいあるわけですよね。
特に信仰信仰の道を歩めばいいかってこともよく分からないことが多い。だから、私たちはイエス様にやっぱり本当に何を見せてほしいのかをしっかり願わなきゃならないということでありますね。
ついでに言うとね、この最初に群衆が通っていくのを目にして、群衆って書いてあるんですけれど、ここには民ってないんですけど、「群衆」というのはある意味なんですよね。
聖書の中では旧約新約の中で群衆というのは、実は目が見えてない人々の集まりみたいな感じで、実は聖書で書かれているルカの福音書だったら、今日の最後にこれを見た民衆がこぞってみな神を賛美した、「民衆」って、実はいい意味で使っているんですよ。小さな民、神様に従っている民。
神様に逆らっている人たちは、実は「群衆」って言葉で、実はこのギリシャ語も違う、全然違う言葉なんですけどね。
だから私たちはやっぱり群衆っていうか、流れに巻き込まれちゃうと見えなくなっちゃうっていう、だからもう今だからそれがSNSで操作されるから余計に明らかですけど。
でも昔から実はそうで、結局見えてない。結局誰かの都合のいいように流されたら、そっちの方にみんな行っちゃうというのが、実は私たち民のもともとのあり方みたいなところなんですよね。だから私たちは群衆に流されているのではなくて、やっぱりイエス様に聞いて、本当に目を開いてもらわなきゃならないんですよね。
目を開いてもらうから、この人はどうかと言ったら、盲人はたちまち見えるようになり、神を褒めたたえながら、神を賛美してイエスに従ったって書いてあるんですね。だから、見えるようになって、イエスがどこに行くか分かったから、それに従って行くことができたということなんですよね。
目が見えるってことは、イエスがどこに行くかってことが分かって、それに従っていけるという、そういうことを私たちはやはり積み重ねていくことができたらいいんじゃないかなと思いますね。やっぱり一つは、神を賛美することと、神さまがこっちだっていうところがちゃんと分かって、そっちをちゃんと歩めるかどうかですね。
一人一人の道は全く違いますし。
でもね、この人はエリコでの話なんですけど、エルサレムに行く前の日にエリコに泊まってるんですよ。ちょうど1日の距離なんです。エリコからエルサレムがたから、これはもうエルサレムの前の晩に泊まっている話なんですよね。
だからからイエスに従うと言ったら、他の福音書ではバルトロメオって書いてありますけれど、とにかく十字架に向かってイエス様に従っていくしかないです。ここで従うというのは、エルサレムに向かってくださいに従うんだから、ここでイエスに従うってことは、実はすごく厳しい話で。
なんかね、病気が治ったから、じゃあ自分で好きなことができるとかじゃなくて、目が見えるようになったから、本当に十字架に向かうイエス様に従っていくっていう話だから、相当厳しいんですよね。そこにそれに目が開かれて、そうできるということなんですよね。
私たち一人一人も本当に見えるものが見えるようになって見える。本当のことが見えたら、かえって厳しいかもしれない。イエス様がこっちだと群衆がこっちに行ってるんだけど、あなたはこっちですよって言う。そう言われたら、やっぱりイエス様はそうだとしたら、そうしなきゃならないわけですよね。
でも、その道を私たちが歩めるかどうかということですね。私たち一人一人に対してイエス様が開いてくださる道というか、それは違いますし、見かけも違うし、それがはっきり分かってそれに従える。その恵みをですね、願いたいと思います。そしてやはり囚われている。いろんなことで捕らわれていて、見えてない人の目も開かれてですね、本当に主の道を歩むことができる恵みを合わせて願いたいと思います。
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