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【ミサ説教】マタイ福音書21章23-27節「イエスの権威とは」

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マタイ福音書21章23-27節「イエスの権威とは」2025年12月15日ミサ旅路の里

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

イエスの権威は学歴・資格・地位といった人間の肩書ではなく、神から直接来るものだった。だから弱い者を癒し、助け、赦す力として働いた。一方、人間の権威は金と力で社会を動かし、常に弱者を犠牲にする。釜ヶ崎では行政主導の再開発や資金流用が進み、貧しい人が切り捨てられつつある。今こそ人の権威ではなく神の権威に立ち、神の国が現実に働くよう祈り行動できるよう恵を願いましょう。

これからは「いやしのミサ」ではなく、「カマのミサ」として、釜ヶ崎のために祈るミサとなります。

福音朗読  マタイ福音書 21章23-27節

(そのとき、)イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

イエスの権威とは

イエス様の活動、言葉、それに対して宰相や民の長老、いわばイエス様に敵対している勢力というか何かが、何の権威でこうやっているのか、誰がその権威を与えたのかということを問うわけですけれど、結局、イエス様というのはこの世の権威がなかったんですね。これの権威でないかと言ったら、学歴ですよね。いい大学を出たとか、あるいは何かいい仕事をしているとか、良い資格を持っているかですね、何とかかんとか、いろいろそういう、でもイエスさんは全く資格がないんですよね。

神父じゃないとか、祭司じゃない、職業的な、いわゆる宗教家じゃないんですよ。神父さんだったら。一応それは資格というかもう神学校で勉強して、司教さんにされてなっている資格があるわけですけど、イエス様は普通のカトリック用語で言ったら平信徒なんですよね。

有名なラビについて何か勉強しましたってこともないんですよ。お金もないし、地位もないし、実は何にもないんだけれども、人々がそこに集まっていて、イエスの話を聞いた。それは、イエス様の権威というのは、神から来ているからしかあり得ないですよね。

人からの権威というのは、そうやって資格とか何か肩書とか何とか、この人は弁護士だなとかと言ったらそれでいいのか、あるいはあれがあるし、大学の先生だってそれなりのあれですけど、イエス様は全く何にも何もない。それはもう神の権威でしかないわけですけど、でもやはり多くの場合、この私たちは神の権威をなかなか認めないで、結局人の権威ばかり認めているという、人の権威あるところに、権力ももちろんありますから、お金があって経済とか政治を動かすのは、だいたい権威がある人しか動かせないわけですけどね。

だけど、主イエス様は全く違う神の権威で生きていたし、神様の力で、要は洗礼者ヨハネもそうです。洗礼者ヨハネも肩書は預言者ですけれど、預言者というのはカリスマ的な人を預言者というわけで、資格試験を通ったから預言者にならないとか、全く関係ない。

だから、もう神の権威の下にあるものでしかないわけですよね。だけれども、そこにある力が、イエス様にしても洗礼者ヨハネにしても、働いていた。でも、何がやっぱり私たちにとって怖いのかと言ったら、人の権威のあるところにこの世を動かす力がある。この世の何かこの世のものを動かす力があるから、実は恐ろしい。

神様の権威がどのように働くかといったら、それは単純に人をいやしたり、助けたり、時に困っている人を癒したり、助けたり、あるいは罪人を許したりするようなところに、神の権威の力が実は働いているわけですよね。

私たちが人の権威に立つか、神の権威に立つかというのは、実は簡単なようでなかなか難しいし、社会の中もそうだということなんでしょうね。

ちょっとこの釜ヶ崎のことで言うと、この10年ぐらいは割と行政といろんな団体とが、割と話し合いの中で割とうまい具合に進んでいた面もあったんですけれど、この4月ぐらいからどうも流れが変わっちゃって、どうもいろんな町の中のいい動きをつぶすような流れになってきて、ちょっと今からこれから越冬なんですよね。一番厳しい時期に入っていく中でも、お風呂券を出さないとか、いろいろね。最近もみんながカンカンに怒っているのは、あいりん銀行というのがあったんですけれども、そこに労働者が貯金をしていたところがあるんですが、いろいろな意味でそれはもうなくなった。
なくなって、しかも解散しようと思うんですけど、預貯金がいっぱい貯まっていて、3億円も貯まっていて、労働者が貯めたお金なんですよね。で、それで結局受け取り手が現れないから、宙に浮いていてもずっとずっと宙に浮いていてですね、労働者の側の人たちはそれを、だから自立支援に役立つように使ったらいいということをやたらとずっと言っていたけど、ずっとそのお金の使い道が決まらないと言っていたんですけど、とうとう突然ですね、医療センターってあるんですけど、医療センターって今のどこの病院赤字じゃないですか。大きな病院、いろいろ赤字で、医療センターもだいぶ行き詰まって、経営が行き詰まっているんですけれど、その穴埋めにそのお金を使うって勝手に決めて、それでもみんなカンカンに怒っているんですけれど、2億円分の穴埋めに使うということがつい最近わかったんですね。

でも、もう市議会はもう通っているので、もうちょっとどうしようもない感じなんですけど、もうちょっともう何というか、これからやっぱり対立の時代というか、つまりやはり人間の権威に立ったら結局いいようにしちゃうわけよね、権力者が。人間の権威って結局強いものが勝つから、そういうものにして誰が苦しむかって、いつも弱い人なんですよ。
人間の権威が立つところには、弱い人が苦しむわけですよね。
神の権威は逆だから、弱い人、貧しい人を助けるような形で権威が働く。
水と油みたいなんですけど、ちょっとだんだんとこの釜ヶ崎もちょっと厳しい状況になってきて、それでちょっともうミサの意向ももう変えないとちょっとダメかなということによって、つまり、本当に貧しい者、苦しんでいる人が大事にされるというベーシックな、そこがちょっと侵されてきて、今の行政の流れはもう万博も本当はあるでしょう、IR、IRだったっけ、賭博場を作るための前哨戦で万博やってるわけよ。だから万博が成功しても今が成功と言えるか、失敗と言えるか。どこかのメーカーの評価ですけど、でもこれは万博は別に何かの前触れでやっているだけで、本当は賭博場を作りたいわけですよね。
釜ヶ崎もその流れの中にあって、ここは観光都市にするつもりですよ。賭博場に泊まる人たちを泊めるための宿屋に全部しちゃうというね。そういう強い意志がもうそれは維新の考えていることですけれどもね。多分、行政のトップはそう決めていると思います。

それが今少しずつ少しずつ進んでいて、だからこの街が崩壊する危機的な状況がもうすでに始まっていると思いますね。
それはやっぱりね、人間の欲望とか何かから考えたらいいように変えたいわけですよ、いろいろなことをね。大阪の街もお金儲けの街に結局変えたいわけですよね。

外人にいっぱい来てもらってどうのこうのということで、この周りも全部ホテルじゃないですか。全然変わって、労働者の泊まるところがどんどん減っているわけですけどね。だから、もうちょっとこの流れは止められないぐらいはっきりと現れてきたので、やっぱりちょっと。ね、ちょっと覚悟を決めないとちょっとまずいかなという感じがちょっとしてきましたね。

だから、やはり私たちはやっぱり神の権威にちゃんと立って、やっぱり神のみ旨を行っていく。そこをちゃんとずらさないようにしないと、ちょっと非常にちょっともうこの街もやばい感じが漂ってきて、それが各所に現れてきたんですよね。だから、もうちょっとこれは意識して、私たちもやっぱり神の民として、神のみ心がちゃんとここでも働くように、ここだけじゃない、日本社会全体、もちろんそうですけど、やっぱり日本全体で言ったら外国人を排除じゃないですか。ものすごい変なところにもものすごくなっていて、こういうのは全部人間の思いが、人間の愚かな思いが出てきたらおかしくなるわけですよね。

神の権威が現れない限り、やっぱり神様の力は働かないですから。本当にこの神の国がやはりこの釜ヶ崎に、日本で、私たちの周りにですね、はっきりと働いてくるようにですね、私たちもちょっと心を合わせて祈りながら、できることを果たしていけるようにですね、神様の恵みを願いたいと思います。

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