マタイ福音書17章1-9節「神の声に耳を澄まそう」

マタイ福音書17章1-9節「神の声に耳を澄まそう」2026年3月1日四旬節第2主日ミサ防府カトリック教会
四旬節第2主日に朗読される主の変容は、十字架前に弟子たちへ復活の希望を示す出来事です。ペトロは仮小屋を建てようとしますが、父なる神は「これはわたしの愛する子、これに聞け」と告げます。大切なのは記念や形ではなく、キリストの生きた言葉に耳を傾けること。騒がしい現代社会の中でこそ、教会と祈りを通して神の声を聞き、洗礼を受ける人も周囲も信仰を深めていくよう招かれています。

神父さんが山頭火が好きだなんて初耳だっったにゃ。(ラーメン屋さんに「山頭火」という店が多いのはなぜだろう)
福音朗読 マタイ福音書17章1-9節
1〔そのとき、〕イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。2イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。 3見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。4ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 5ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。 6弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。 7イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」 8彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。
神の声に耳を澄まそう
四旬節の第2主日は毎年必ずそうなんですが、主の変容のところを必ず朗読することになっています。イエスは3人の弟子だけを連れて、高い山、タボル山かヘルム山かどっちかと言われていますけど、そこに登った時に、イエス様が生きている間にちょっとだけ神様の姿を現すというんですかね、特別にいつも普通の人間に、人間として生きている時は過ごしておられましたが、この時だけは特別に神様の次元を特別に示されるんですよね。顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。そして、旧約の預言者とお話をするとですね、ちょっと神秘的な姿を垣間見せた。これは多分、やはりイエス様が十字架にかかって苦しまれる時に、弟子たちが希望を失わないように、あらかじめ復活したイエス様の姿をあらかじめ見せられたのではないかというふうに思えます。
でも、それに対してペトロは、だいたいそれを見た3人とも、あまりの光景でちょっと驚いてしまって、どうすればいいか分からなくて、ペトロは仮小屋を3つたてましょうと。あなたのためモーセのため、エリアのため、何かちょっと祈る場所というか、記念すべき所を作ったらどうですか?みたいな感じで言うわけですよね。何かやっぱりちょっと特別なことがあったら、何か形にして残しておかないともったいないとペトロが思ったのかもしれない。でも、その後、雲が現れて見えなくなって、父なる神様の声がして、イエス様はですね、イエス様のことを神様の愛する子であって、心にかなうものだから、イエス様にちゃんと聞きなさいということを父なる神がこの3人に言うわけですね。
私たちにとって一番大事なのは、このイエス様に聞けというですね、それを大事にすることができたらいいんじゃないかなと思います。
私が防府に来て良かったことはいろいろあるのですが、プライベートな話をすると、非常に良かったなと思うことは何かと言ったら、種田山頭火の生まれ故郷だったという。俳句で有名な人なんですけど、近くの自分でクリーニングを持って行ったら、クリーニング店の中にですね、山頭火のカレンダーがかっているから、あれっと思って、あれ山頭火ですよね?とかと言ったら、ああ、そう、そうですよと言って。それで生まれ生まれたところすぐそばですと言うから、えっと思ってクリーニング店を出たら、斜め向かいがこの生家跡で生まれた家の跡だったりして。そしたらよくよく見たらあっちこっちにこの防府で一番の誇りを山頭火かなと感じるぐらい。駅前に大きな銅像も立っていたり、あっちこっちに持ち石の公園もそうなんですが、あっちこっちに山頭火の俳句句碑というのが7つぐらいあるのかな。あちこちにあって、何となくちょっと嬉しくなってきたりしていたんですけど、でもまあ、例えば銅像を見たって、山頭火の銅像を見たって、あるいは何かそういう場所を訪ねたり、あるいはちょっと記念館までありますけど、だけどか、そういう場所を見てどうのこうのというよりは、やっぱり何が面白いかって言ったら、やっぱり山頭火の作った俳句そのものですよね。
文学者だから、やっぱり彼の作った俳句を通して何か感動したり嬉しくなったり、あるいはプラス大分彼のメチャメチャな生き方もちょっとオープンになっていて、ちょっと駄目駄目人間なんですけど、本当のところは。まあでもそういうのと合わせて、その素晴らしい、何とも言えないすっきりした感じの句が多いんですけれど、そういうのがあるから、何かこう、何か生きた言葉があるから、何かそこに喜びというか何かがあって、それがあったら像を見たってそれなりですけれど、でもそういう彼の文学と関係がなければ、ただの何にも銅像にしても何にしても、ほとんど何も意味がない。で、特に皆さんここで暮らしておられるから、別にあまり気にしても、僕みたいに外部で来た者にとっては、何かえらい不思議な山頭火の小道というのがあって、散歩道まであるんです。週一回は必ず歩いて、あちこちにこの俳句が掲げてあるんですよね。何となくそういう気持ちになって歩いたりしているんですけど、普通はあまり日常生活のこと、散歩道を歩くのは私一人ぐらいで、他の人と全く会わない。会わないんですけど。

種田 山頭火
(たねだ さんとうか、本名:種田 正一(たねだ しょういち)1882年〈明治15年〉12月3日 – 1940年〈昭和15年〉10月11日)。日本の自由律俳句の俳人。山頭火とだけ呼ばれることが多い。山口県佐波郡(現在の防府市)生まれ。出家得度して耕畝(こうほ)と改名。各地を放浪しながら1万2000余りの句を詠んだ。
代表句「まっすぐな道でさみしい」など。
だけどやっぱり何か場所とか像とか記念碑が意味があるのではなくて、やっぱり彼の文学というか、その生き方プラス。だから俳句が響いてきたり、何かを身近に感じたりするわけですよね。だから、イエス様も同じで、別にこの聖堂があるからとか、あるいは聖像があるからいいんじゃなくて、やっぱりそこにイエス様の生きた言葉とか眼差しとか配慮とか、それを私たちが感じていけるから、だから、これに聞けというのはその通りなんですよね。
何か形あるものがあればそれでいいんじゃなくて、何か特別なことがあったら、どこの国民もそうですけど、記念碑を作ったり。この周りも日本中、日本で歴史があるから、あちこちに記念碑とかいっぱい建っているんですけど、でも何かそれがあるからどうということは全くないわけで、中身というか、そのイエス様の心をどう私たちが受け止めて、それに聞いてそれに従っていけるかということなんですよね。
今日は洗礼志願式で、本当に多くの方が洗礼を受けられるということで、非常に私も嬉しく思っていますが、特に洗礼を受ける方々は、洗礼を受けるというのは形を、形は形なんですけど、形も大事で、それでご聖体をいただけるようになって、そこが大事なのですが、それ以上に生きたイエス様とか神様との交流とか、つながりというかですね、それを深めてくださればありがたいと思います。
目に見えないし。だから、こんなにはっきり私の変容みたいに現れてくださるわけじゃないですけれど、日頃は。でも、その神様の言葉を聞いていくような気持ちで、この洗礼を準備してくださっるといいんじゃないかなと思います。もちろん、洗礼を受けてからこそ、もっと大事になることですけれどもというのは思いますけれども。
本当にこの神様の声が響いてないんです。この社会はテレビを見ていても、今ネットでですけれども、ネットでユーチューブを見たり、TIKTOK見たり、いろいろする時代になりましたけれど、神様の声はほとんど響いてないんですよ。
テレビを見ても、新聞でもそうですけれども、ほとんど響いてないから、私たちは意識して神の声を聞こうとしないと、なかなか接することができない時代なんですね。YOUTUBEとかTIKTOKが流行っているのはばかばかしい。そこが馬鹿馬鹿しかったり、ちょっとフェイクニュースが流行って。
だから、ちょっと言葉が通じるかもしれないけれど、この世で聞こえてくる声のほとんどは悪魔の声なんです。
神の声じゃなくて、この世の声というか、悪魔の声がいっぱいいっぱい聞こえてきて。
それに、私たちはもうついつい振り回される。そういう時代なんですよね。
神の声はなかなか響いてこないし、それが耳に届かない。そういう中に生きていますから。だから私たちはこうやって教会に通ったり、ミサに預かったり、聖書を読んだり、勉強したりする機会があって、そこで初めて神様の声というか、神の導きが何なのかが少しは分かる、そういう機会を必要だということだと思いますね。
特に今、洗礼の準備をされている方々は大人の大人、子供は子供でね、それぞれが洗礼の勉強をしていますけども、そういう勉強を通して、あるいは祈りを通して、私たちはしっかり神さまとのつながりを養っていく。それは洗礼までというより、洗礼を受けてからもそれを心がけるように、うっかりしているとすぐ世間の一般的な社会の流れの声しか聞こえなくなっちゃって、何か何かが分からなくなっちゃうってことは、今の一番の難しさがある時代なんですよね。
私たちがしっかり神の声を聞いていけるように、そして代父母の方々とかご両親の方々も、やはり神の声をしっかり聞いていける機会というか、チャンスを大事にしていって、この洗礼を受ける方々が信仰において成長していけるように、周りの方々も協力してくださったらいいと思います。
そのような形で私たちはこの復活祭に向けて準備できるように、互いに祈り合い、助け合っていきたいと思います。
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