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【ミサ説教】ヨハネ福音書9章1-41節「神の業を見出す」

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ヨハネ福音書9章1-41節「神の業を見出す」2026年3月15日四旬節第4主日ミサ防府カトリック教会

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

ヨハネ福音書9章の生まれつき目の見えない人の癒しは、単なる奇跡の物語ではありません。人々は不幸の原因を過去の罪に求めようとしますが、イエスはそこから神の業が現れる未来へ目を向けさせます。盲人は癒された後、共同体から追い出されるという困難を経験します。その後の過程の中で再びイエスと出会い、信仰の目が開かれたのです。癒しと救いは一度きりの出来事ではなく、長いプロセスの中で深まります。神の業は目立つ奇跡だけでなく、人と人とのつながりの中に静かに現れていくのです。

東日本大震災から15年。釜石教会でのお茶っこサロンも15年も続いているんですね。

福音朗読 ヨハネ福音書9章1-41節

 1〔そのとき、〕イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」3イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。4わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。5わたしは、世にいる間、世の光である。」6こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。7そして、「シロアム——『遣わされた者』という意味——の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。8近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。9「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。10そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、11彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
12人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。
 13人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。14イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。15そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」16ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。17そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。18それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、19尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」20両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。21しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」22両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。23両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。24さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」25彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」26すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」27彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」28そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。29我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」30彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。31神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。32生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。33あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」34彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。
 35イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。36彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」37イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」38彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、39イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」40イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。41イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

神の業を見出す

今日の福音書は、ヨハネの9章の実は長い長い盲人の癒しのお話ですね。全部をちょっと読み切れずに、ちょっと部分的に少し省きましたけれども、この人は生まれつきの生まれつき目が見えなくて、それで。その人を見て、弟子たちが尋ねるんですよね。この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからか。本人ですか、それとも両親ですかと尋ねるわけなんですね。やはり当時の考えでもそうだし、実は私たちもそう考えているところがありますが、何か悪いことや問題があったら、それは本人が間違いを犯したからこうなっちゃったのか、あるいは逆に両親が悪かったから両親の影響でこうなっちゃったんじゃないかとか、いろいろ原因を考えたりすることはよくあることだと思いますね。

もちろん、やはりどういう原因があったのかということを見ることも全く意味がないことではないですけれど、でも、イエス様の発想は、過去にとらわれているのではなくて、やっぱり未来志向っていうか、ある何か大きな出来事があった時に、じゃあそこから出発してどういう神の業が現れるか、どういう神の業を求めていくかという未来志向で考えていくということで、これはなかなか大切なことじゃないかなと思いますね。

この箇所については、特に障害者の方々が散々議論したり、話し合ったり、黙想したりするところで、このことについても様々なことがあるんですが、でも、いずれにせよ、このことを言った後に、イエス様がこの盲人を癒されるんですよね。それがちょっとなんかどうなのかなと思いますけど、地面に唾をし、唾で土をこねて、その人の目におぬりになったんですけど、こんなことを現代のお医者さんがやったら大変なことなります。泥を混ぜてですよ。目に何か塗り付けるとか、何かもうちょっと現代の医学から考えたら、ちょっととんでもないやり方でしょうけれども、ともかく、それで池に入ったら見えるようになったということですけど、やはり一人一人の癒しの与えられ方は、それぞれが特別な方法でイエス様が癒しの恵みを与えてくださるという、一人一人やり方が全然違いますから、やっぱり私たちが癒しの恵みを受けるのも一人一人個別の形だということですけど、でもこの話のポイントは、ここで目が実際に物理的にですね、肉体的に目が見えるようになったということは、話の出発点にしか過ぎないんですよ。目が見えるようになってめでたしめでたしじゃなくて、目が見えるになってからの話が実は長く長くあって、それで何かトラブルに巻き込まれてしまって、周りの人も振り回されて、しかもこの朗読省きましたけど、親まで呼び出されているんですよね。

親も呼び出されて、親もなんかもういい加減なことを言って責任逃れする話がいろいろあって、結局どうなったかと言ったら、彼は外に追い出された、外というのは何かというと、ユダヤ人コミュニティーから追い出されたところなんですよね。目が見えるようになって、結局彼は何か何か非常に大きな困難を逆に背負わざるを得ないようなことに実はつながっていく。
微に入り細に入りプロセスがあるんですが、はっきり言えるのは、癒すというのはプロセスだということなんですね。それは単なる癒しという私たちの救いは、様々なプロセスを経て、これがあったら終わりというよりも、何か持続的なことの中である時はいいことが、ある時は困難があったり、その中でそれは信仰と言ってもいいかもしれないですけど、それはプロセスの中で深まったり、広まったり、強まったり、そして結論は何かと言ったら、最終的にこの人は外に追い出されて、そこでもう一回イエスに出会って、そこでイエスを主として礼拝する、イエスを救い主として受け入れるというところで、この話のいわば結論のような形になるわけですよね。

だから、彼の目が開かれるということの一番大事なポイントは、肉体的癒しよりも信仰の目が開かれるというところまで導かれているということが一番大事なポイントなんですよね。

だから、どこに神の業が現れるというか、どこに神の業があるのか。普通は、だから、病気が癒されたから、もう神の業だという、それそれも含まれていますけれども、でも、信仰の目が開かれる、この人がそこにこそ本当に神の業があるということなんですね。

私たちが私たちの信仰生活の中で、どこでどのような神の業を見つけられるかということなんですよね。見えているという人が見えなくなったり、見えない人が見えるようになったり、私たちが私たちに与えられる神の業をしっかり。様々な人生の出来事の中にいろんなことがありながら、その中で神の業を私たちが見出していけるかどうかということなんですね。

特にこの頃になると、3.11もちょっと過ぎましたけど、東日本大震災の報道がテレビでも出たり、YOUTUBEで昔のことを見たり、震災の直後から私、釜石に知り合いがいたせいで釜石の支援活動をずっとやっていたり、最初はボランティアで関わって、途中からはNPOになったから理事になって、それで10年以上も年に何回もそちらに行って、支援活動と町の復興の姿をずっと見てきてですね、それもやっぱり大きな、15年ですからね。やっぱり大きなプロセスというか、やっぱり流れがあるというのか。だからもう今すごいんですよ。堤防なんかものすごい高いのがあったし、道路とかあれば全部整備されてますけど、でも過疎の問題ですよね。人口が減ってしまって、この防府よりももっと危機的な状況というか、町全体の問題というんですかね、様々なことが出てきて、それも報道でご存知の方も多いと思いますが、その中でずっと教会、NPO、そして教会として支援活動をやってきて、とにかく主任神父さんが4回替わって、そのうちの二人はもう天国に行かれたんですよね。教会委員長とか信徒代表も4人替わって3人がもうみんな以前の教会委員長全員天国なんですよ。今は若い人がちょっとなっているんですけど、もう教会そのものもそうやってどんどんどんどん変わって、人も変わって、ボランティアもいっぱい来て、それでまた引いたり、今どうしているかといったら、教会の中でフィリアという名前なんですけど、向こうでは「お茶っ子サロン」といって、お茶飲み会みたいな感じですよね。
それをもう10年以上ずっと続けてきて、未だに続いているんですよね。それで3.11に合わせて向こうの人が写真とか送ってくれてね、今の様子こんなんですって言うんですけど。でも建物を建てたりどうのこうの、町がどうのこうのあるけれども、結局ずっと人と人との繋がりを大事にしながらあちこちでやってた。お茶っこも、教会の一部を未だに毎日やってるんですよね。その主任神父さんご自身と代表と教会の信者さんと周りの方々と、ほぼ毎日ずっと。いまだにボランティアがたくさん来た時もあったけど、今ボランティアも全部なくなって、地元の人たちばかりでやってますけど、でもやっぱりか、そういうのを見ていると、15年経って神の業は何なのかといったら、やっぱり人と人との繋がりで、いまだに人と人との繋がりを大事にしながら、お茶飲んだり、ごぼう体操と体操をやったり・・・色々プログラムがあるんですけど、それをずっとやり続けている中の人と人との繋がりの中に、神の業というか、神の国の現れを15年たった今もやっぱりひしひしと痛感できるという、やはりやっぱり神の業が現れてくるというのは確かじゃないかなと思いますね。

だからまあ堤防を建てるとか、何か大きな、それは目に見えることで、それももちろんやらなきゃならないことですけど、でも本当に大事なことは、やっぱり人と人との繋がり、あるいは神と私たちとの繋がり。それはやっぱり地道でそんなに目立つものではないけれど、でもそういうところにこそ本当の神の業があるのではないかと思います。

私たち自分自身の信仰、あるいは私たちの教会、あるいは人との繋がりの中で、大きな問題とかいろいろなんかいろいろありますけれども、個人にもグループにも。でも、そういうことを経ながら、私たちは信仰のプロセス、それを歩んでいきながらですね、やはり神との繋がり、人との繋がりの中で、神の業、神の国、あるいは神様の温かさを分かち合っていけるかどうか、それがいつもいつも問われているし、いつもいつもその恵みがやっぱり私たちに与えられていると思います。

私たちがいろいろなことで、いいこと、悪いこと、いろんなことを繋がりながら、私たち経験しながら歩んでいますけど、そのその時その時で神の業をしっかり見出していけるように、神様がその時に働いてくださっている、その恵みをしっかり見出しながらですね、神の業を互いに見出しながら、それを分かち合っていけるように、神様に恵みと力を願いたいと思います。

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