テキスト版 コリントの教会への手紙Ⅰ15章12-20節「復活の命、信仰・希望・愛」

コリントの教会への手紙Ⅰ15章12-20節「復活の命、信仰・希望・愛」2008年9月19日 癒しのミサ 東京
hanafusafukuin

コリントの教会への手紙Ⅰ15章12-20節「復活の命、信仰・希望・愛」2008年9月19日 癒しのミサ 東京

15:12 キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。
15:13 死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。
15:14 そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。
15:15 更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。
15:16 死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。
15:17 そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。
15:18 そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。
15:19 この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。
15:20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。

キリストの復活を信じているか?

今日の第一朗読ですが、使徒パウロのコリントの教会への手紙のⅠコリントですね、Ⅰコリントの15章のところの朗読だったのですが、その、コリントの教会のひとつの問題は、死者の復活が無い、と言っていた人たちがいた、というふうに言われているのです。

この、根本的な問題は、キリストが復活したということを否定することになってしまうとパウロが言っているわけですが、これは確かに私たちも問わなければならないことだと思います。

私たちはイエス・キリストを救い主として信じてるわけですが、じゃあ、イエスのなにを信じてるのか、と言ったら、一番根本的だと思うのは、イエス・キリストが復活した、ということを信じてるかどうかがけっこう大切なポイントなのです。

つまり、イエス・キリストっていう人が十字架にかかったっていうことは、信じても信じなくても事実なんです。歴史的な事実なんです。あるいはイエスが生まれたあるいは人間として生きてたということは事実なので、それは誰も否定することができないわけですが、でも、イエスが救い主だ、イエスが私たちにとって、私たちを解放してくださる方だということは、イエスが復活した、というところからきてるわけです。だから私たちは復活を心に刻まなければならないと思うのです。

苦しみは本質ではない

というのは、やはり…もちろん、ここに集まってる方々は何らかの意味で、苦しみというか、病気を背負っているというかですね、感じたり、苦しみがあるわけですが、本質的なのは、私たちにとっては苦しみではない、イエス・キリストが復活して、私たちを救ってくださっているという、その根本的なところを、私たちはやはり心に刻みたいと思います。

ただ、もちろん、なんていうか、この世で生きている以上、様々な苦しみがあるのはもちろん、それはそうなんですが、でも、苦しむところに本質は無い、ということですね。私たちは、神の恵みと救いに与っていくというところが本質的なことで、で、それを私たちは信じている、ということですね。だからイエスが復活したということがあるから、私たちも復活の命に招かれている、そして復活の命というのは、苦しみも悲しみもない、神との本当の交わりですね、そこに私たちが招かれているという、それをやはり、深く、心に刻みたいと思うのです。

永遠の命を信じる→希望が与えられる→愛の行いが生まれる

なにが永遠なのかと言えば、復活した命が永遠である、ということです。私たちの苦しみは、ひとときの、ある一時期の、だけのものでしかないということですね。苦しみが永遠に続くということはありえない。苦しみはいつも終わりがあって、ひとときのことである。で、その先にあるのは、やはり、復活の命、それに私たちは今も与っているわけですが、今から始まって、その命がより豊かになるように、その、希望のうちに生きてるということです。

だから、イエスの復活を信じるということで、もうひとつ大事なことは、私たちには希望が与えられてるということですね。希望というのは今はまだ実現していないかもしれないけれども、でも、将来、確実に実現するという、そういう確信があるから希望がある、ということなんだと思います。苦しい時は当然絶望してしまったり、もう、だめだ、と思ってしまったり、あるいは、自暴自棄な気持ちになってしまったりとか、希望をなくしてしまうわけですよ、あまり苦しみが強くなった時には。

でも、それはキリスト教の根本的なものではない。私たちは信仰と希望と愛に、それが神様との関係で決定的だということです。私たちはイエスの復活を信じることによって、私たちは希望を抱くことができる。そしてその希望は、揺らぐものではない。その希望こそ、私たちの、本質的な、生き方の根本にあるということですね。それをいつも心に刻みたいと思います。

だから私たちクリスチャンは、がっかりして生きる必要性…必要性っていうか、だれも必要だと思ってやっている人はいないけど、まあ、がっかりすることもある、事実で認めなければならないけど、ただ、がっかりするところに、本質はない。私たちの本質は、希望していくところにあるわけです。それを心に刻みたいと思います。

今日の福音書の方は、悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たちが、イエス様と一緒に旅をしてるわけですよね、たとえば、七つの悪霊を追い出していただいた、マグダラの女と呼ばれるマリア、マグダラのマリアですね、他に何人かでてるんですが、彼女たちもいろいろ苦しんでる時期があったわけです、イエスに出会う前は。でも、イエスに出会って、病気をいやしていただいて、悪霊を追い出していただいて、そして今度はイエス様とともに奉仕する生き方に呼ばれて、愛に生きてるわけです、今度は。彼女たちは自分の持ち物を出し合って一行に奉仕していた、奉仕していたというのは、愛に生きていたと言えるかもしれない。

キリスト教の本質は信仰・希望・愛

だから私たちは信仰と希望を持って、そして、私たちはやはり救われつつ、救われながら、愛に生きるように呼ばれている。信仰・希望・愛が私たちを特徴づける根本的なことだということです。それを今あらためて心に刻みたいと思います。

そして苦しい時にこそ、主を信じるということと、復活をほんとに希望するということ、そして、ほんとの意味で神の愛をいただき、そして愛をわかちあっていただく、そのような生き方に、私たちが、なんというか、歩んでいくことができるように、このミサの中で互いのために祈りたいと思います。

記事URLをコピーしました