マルコ福音書13章33-37節「目を覚ましていなさい」
2008年11月30日 マルコ福音書13章33-37節「目を覚ましていなさい」8日間の黙想会 鎌倉
13:33 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。
13:34 それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。
13:35 だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。
13:36 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。
13:37 あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」
今日から待降節の第一主日に入って、主の降誕を待ち望む時に入りました。ただ、このマルコによる福音書は、先週の、世の終わりの話がまだ続いていて、主人がいつ帰ってくるかわからないので目を覚ましていなさいと。終末の流れの中で言っているような話でもあります。眠っていないで、主人がいつ帰ってくるかわからないから目を覚ましていなさいということですね。もちろん、物理的な意味ではないわけで、まあ、夜になったら寝た方がいいと思いますが…個人的にはちょっと不眠症気味なので、むしろ目をさますよりも眠ることのほうが大事だと思うことが多いですが…まあ、ともかく、当然この目を覚ましていなさいというのは物理的な意味ではないですね。
霊的な目を覚ましているかどうか。神様に対してそのように心を開いて、神様に対して目を開いているかどうかだと思います。ひとつ思いだすのは、やはりヨゼフですけど、ヨゼフはやはり目を覚ましていた人であるにちがいない。だから、寝てる時にですね、たびたび天使が現われて、あれをしなさい、これをしなさい、ということを的確に言われるわけですね。それを、まあ、言われた時に、即、ヨゼフは実行するわけで、目を覚ましている人の典型的な例にちがいない。結局私たちも、日常の中で、祈りの中で、家族の中で、日々の生活の中で、いかに神様の呼びかけ、神様の語りかけに目を覚ましていられるかどうか。それをまあ、特に祈りの中で、目を覚まして、神様がおられる、触れてくださる、語ってくださるのをしっかりと待ち構えているということは非常に大事なことじゃないかなと思います。そして、これは単に心の態度だけじゃなくて、やはり、私たちが目を覚ましているというのは、私たちは根本的には愛に開かれている、神様に心を開いているというのは、実際は愛に開いている存在、ということになるのかもしれない。日常生活での私たちの心掛けとしても、この、目を覚ましていなさいということを受け取ることができるのかもしれません。トルストイの民話の中にある話なんですが、非常に熱心な、ひとりの独身の男性がいたんです。いつもいつも神様にお祈りして、日々、神様のみこころにかなう生き方をしていて、靴屋さんだったかな。そこに、夜、ですね、彼がお祈りしていたら、神様の声が突然響いてきて、明日、あなたのところに訪ねていくから待ってるように、と、声をかけられたんですね。で、その男の人は大喜びで、明日イエス様が来てくださるんだったら、大歓迎しなくちゃならないと思うわけですね。ただ、何時に来るかってことは、後から振り返ると言ってなかったんです。何時に来るかわからないけど、明日来ると。まあ、とりあえず、料理を作って待ってようと思って、料理が得意だったんで、おいしいスープを作って、おいしいパンを焼いて、葡萄酒も用意して、デザートにはパイかなんかを焼いて、待っていたんですね。で、何時に行くか、は聞いてないんで、とにかく店を閉めて、一日イエス様の来るのを待ってようと思ったんですね。そしたら、朝9時ころ門の外で音がしたので、これはイエス様が来たのかなと思って扉を開けたら、前に一人の人が横たわっているんですね。誰かと思ったら旅人で、旅をしていたんだけれども、食べるものがなくなって、歩くこともできなくなって、あなたの家のまで倒れてしまったんだ、と。彼はですね、それは大変なことだと彼を家に連れて行って、半分意識がもうろうとしているので葡萄酒を飲ませて、怪我もしていたからそこにも葡萄酒を塗って。そうしたら彼もようやく意識がはっきりしてきて、でも、どうしても用事があるから行かなくちゃならない、ということで、自分の焼いたパンを彼に持たせて、まあ、少しそれを食べて、ありがとう、と言って去っていったんですね。家に残った靴屋のおじさんは、イエス様にあげようと思ったけど、葡萄酒とパンは旅人にあげてしまった。でも、まあ、まだスープとパイがあるから、今度イエス様が来たらそれでいいだろうと思っていたんですね。お昼くらいになって、また、戸口のところで音がするんですね。今度こそイエス様だろうと、扉を開けたんです。そしたら今度は、おばあさんがうずくまっていたんですね。どうしたんですか、って言ったら、最近身体を悪くして、風邪をひいて、寝てたんだけれども、どうしてもしんどいから医者に行こうと思ったんだけれど、途中で動けなくなったんだと。彼は、風邪をひいているんだったらあったかいものを食べなければだめだと言って、スープを食べさせてあげたんですね。彼女は病気で、なにも食べれなくて、身体が冷えていたので、非常に喜んで。彼は親切だったんで、残りのスープも彼女にあげて、まだ、料理が作れないだろうから家に持って帰って温めて食べたらいいと。で、彼女は去っていってから彼ははっとして、イエス様が来るはずだったのに、食べるものもなくなってしまって、考えたらパイしかない。でも、時間も昼が過ぎてきて、おやつの時間になるくらいだからと。そしたら3時ごろになったら、また、外で音がするので、こんどこそイエス様だろうと思って扉を開けたら、男の子と女の子がうずくまってる。お母さんが病気で、お姉さんが近くに働きに行ってて、男の子はさびしくなってお姉さんのところに行ったんだけど、帰りにひもじくなって、ここで倒れてしまったんだと、お姉さんの方が言うわけですね。彼はちょうどよかった、ここにパイがあるから、ふたりで食べたらいいと。そうしたらふたりは大喜びで、パイをたらふく食べて、残りのパイも全部子供たちにあげて、ふたりは帰っていったんですね。彼ははっと気がついたら、イエス様にあげようと思っていたものが全部なくなっていたんですね。で、夜になってしまって、けっきょくイエス様は彼の家に来なかったんですね。彼としては、がっかりした気持ちもあるけれども、ごちそうもなくなっちゃったんで、ちょっとほっとした気持ちもあって、でも、夜のお祈りの時に、イエス様、今日はなんで来なかったんですかと祈ったんですね。そしたらイエス様が答えて、今日は3回あなたのところを訪ねたと。朝は旅人として、昼間はおばあさんの姿で、三回目は小さな子供として、あなたのところを訪ねたと。訪ねるたびにごちそうをしてくれて、心から感謝している、と。イエス様がいつ訪ねてくるのか、実際私たちにはわからない。実際訪ねてきてくださったことは、実際私たちにもあるのかもしれない。靴屋の男の人は目を覚ましていたので、いつでも、イエス様を大歓迎することができた。イエス様もそれですごく満足された、ということですね。だから私たちが目を覚ましているということは、ただ単に祈りで神様を待っているということだけではないと思います。私たちが愛の心で、愛を心がける、そのような気持ちの中で、やはりイエス様はたびたび訪れてくださっている。目を覚ましている、というのは、やはり愛の心で私たちが日々の生活を歩んでいく。その中で、イエス様はたびたび私たちを実際訪れているのではないかなという気がします。私たちは気がつかないから、今日はもう、帰ってくれとか、面倒くさいなとか、イエス様の訪れに気づかないまま。けっきょくそれは私たちの心が、愛に眠ってしまっている。愛がない状態で、眠っている状態にあるのかもしれない。私たちが本当の意味で目覚めて、イエス様がいつ来られてもいいような素直な心で歩んでいくことができるように祈りたいと思います。