マルコ1章7~11節「人を導くということ」
2009年1月11日 マルコ1章7~11節「人を導くということ」教員の黙想会 横浜
1:7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。
1:8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
1:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
1:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
イエス様の洗礼については昨日最初の講話で話したとおりですが、この洗礼を授けた側の洗礼者ヨハネですね、この人も、まあ、非常に印象的な気がします。洗礼を授けた側の人と、それによってイエスが非常に深い神の愛の体験に導かれるわけで、やはり洗礼者ヨハネという人の働きとか役割というのは非常に大きかったと思われますね。まあ、この、イエス様自身が教師であって、わたしたちのひとつの模範である、ということは言えると思われますが、この洗礼者ヨハネも、まあ、なかなか、教師としての模範の姿を語っていると思われるんですね。
この、ヨハネが授けた洗礼というのは、いわゆる、今カトリックがやってる、額に水をちょろちょろっとかけるシンボル的なものではなくて、ヨルダン川に、いわゆる浸水礼といって、体ごとざぶんと水に浸かる、そういう洗礼のわけですね。それで、今はもうカトリックはやっていないわけですが…まあ、やってる教会もあるわけですが…プロテスタントでやってる教会はあるんですけども、大きなバスタブみたいな、実際そこに…ある教会で、それが祭壇の、そこに備え付けられてる教会があって、その写真を見たことがあって、で、まあ、白い服着てるわけですよね。今もそれやってるわけですが、ざぶんとそこに浸かるわけですが、その、神父さんもそこに浸かってるわけですよね。その写真見てなるほどな、と思ったのは、つまり、額にちょろちょろかけてたら、わたしは水がかからない。しかし、浸水礼の場合は神父さんも水にずぶずぶずぶっと入って行って、受洗者の方は水に頭まで沈むんですけど、神父さんのほうも、結局胸まで水に浸かって、びしょびしょになるわけですよ。こういう服きてたら。半分くらい一緒に水に沈んでるわけですよね、導き手の神父さんのほうがですね。あれを見て、なんかこう、なるほどなと…実際ではなく写真ですけど…見て思ったんですが、やはり、人を導く仕事っていうのはそういうものかな、という気持ちがして。だから、関係ないわけじゃなくて、導いていて、自分もある程度沈んでいくっていう…もちろん洗礼受ける人っていうのは頭まで水に浸かって…(導き手は)まあ、半分まで一緒に浸かってびしょびしょになって、一緒に上がってくる、これはシンボル的に大事なことじゃないかと思いました。もちろん、一緒にざぶんと底まで沈んじゃったらだめですが…でも、これを通してイエス様は、深い深い悟りにいったわけですよね。人を導くっていうのはある程度自分も水の中に浸っていく、完全に浸かってしまったらもちろんだめなわけですが、そこまで、手をかけるというか、共に歩むということは、そういうことって結構大事なことじゃないかと思いました。具体的には確かに皆さんのおっしゃる通りで、人を導くとか、教えるとか、ケースバイケースで難しいところがあると思いますね。やはり、苦しむことにも意味があると思いますね。苦しみの中でなにかに気づいていくというときに、やはり、その苦しみを奪わない方がいいということもあると思います。人が自分で気づかなくちゃいけない、それを横でどうサポートしていくか、その、手助けしながら、手助けしない、みたいな、関わりながら放っておくような。洗礼者ヨハネがイエスを導いていくときに、そんなかんじがしたんです。共に歩みながら、まあ、イエスのほうはざぶんと水に沈むんですが、でも、まあ、水から上がるまで洗礼者ヨハネは導いて、同伴してるわけですよね。ある程度濡れてるわけですが、全部濡れてるわけじゃない。天が開いたっていうのはイエス様に向かって開いたわけで、それを洗礼者ヨハネが目撃するようなかたちのわけで…洗礼者ヨハネが教師だとすると、イエスの洗礼の後で、イエスへのお恵みを見たわけで、教師冥利につきるとはこのことじゃないかと思います。自分の教え子が、救い主として活動するわけで、そのような姿っていうのは、洗礼者ヨハネが一歩引きながら、しかも自分の使命を貫いていくわけで、まあ、だからといって別にイエス様をえこひいきしたわけじゃなくて、名もない人々も同じように導いて、同じように清めの洗礼を授けて、新たなスタートをする手助けをしたんだろうと思いますが、なにか、皆さんが人を同伴している、あるいは、その人が通過儀礼を越えて、大きく育っていくのを見守りながら共に歩む、その人が自分の足で歩むのを助けてゆく、で、そのあとになにか大きな恵みがあるわけで、(そういう働きは)素晴らしいものではないかという気がします。もちろん、みなさん、幼稚園から高校までなので、実りの時期というのは見れないかと思います。中途の、なにかの関わりだといういうような気がいたしますが、本当にどういう実りを結んでいくのか、それはもう、神様にゆだねているのであって、自分の、子どもとの、ほんの何年間かの関わりの中で、そのような手助けを心がけていく。それはもう、洗礼者ヨハネとおんなじで、なんの自分の手柄もないわけで、それはもう、その人が自分でつかみ取っていくものであって、そこで、洗礼者ヨハネを越えるんでしょうね。ヨハネの福音書ですが、イエス様は栄え、自分は衰えなければならない、という言葉があるわけですが、そこまで自分で言えるというのは見事だと思いますね。イエス様は栄えていって、自分は滅んでもいいと。それはやはり、育てていく者は、実が実っていけばいいわけで、自分の役割を終えたら、自分の方はさっと退いていけばいいというような、別に実りを誇るわけでもない、自分のやったことを自慢するわけでもない、まあ、そのような姿は、ひとつの教師としてのモデルじゃないかなと思います。わたしたちひとりひとりに与えられている役割や、個性や、立場や、それぞれが違うでしょうけども、わたしたちが、なにかこう、人を育てていくという、本当に神聖なる務めですよね、その中で本当の意味で自分の使命をお互いに助け合いながら果たしていけるように、そして多くの人が、そこで、イエス様の洗礼のような、新たな者として立ち上がっていく、生きていく、そういう力となるような、そういう手助けを、少しずつ日々の中で働いていけるように、と思います。