テキスト版 ルカ福音書14章1-6節「井戸に落ちたら」

ルカ福音書14章1-6節「井戸に落ちたら」
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ルカ福音書14章1-6節「井戸に落ちたら」2009年10月30日癒しのミサ、東京

1:安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。
2:そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。
3:そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」
4:彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。 5:そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」
6:彼らは、これに対して答えることができなかった。
この安息日にイエス様が病人を癒す業をなさったわけですが、それに対して律法の専門家やファリサイ派の人々がそれはけしからんということで文句を言ったわけですね。
安息日がどれだけ大事なものであるか、これは日本人には計り知れないものであって、モーゼの十戒の中にあった一つの掟ですね。神様からもらった10の掟の一つが、安息日を聖なる日にして仕事をしてはいけないというですね、だから、真面目なユダヤ人にとって、日曜日に働いてはいけないということは、神様から与えられた非常に大事なものであるわけですね。
だから、いかにユダヤ人が真面目に安息日を守っているのか、現代に至るまで、それはずっと続いていることなんですね。ここで話したことがあるかどうか忘れましたが、いかにユダヤ人が安息日を一生懸命守っているかですね。それは計り知れないくらいの努力、そういうものなんです。歩く距離が決まっていたり、労働がダメ、何が労働に当たるか、それは立律法にあるわけですけど、細かな規定があって、電気はつけたらダメなんです。労働にあたるから。だからトイレの電気は金曜日の夕方のうちにつけておく。安息日に入ったらつけられないので、真っ暗になってしまうので。エレベーターもそうで、ボタンを押すことも労働に規程されちゃって、だからイスラエルには安息日用のエレベーターがあって、安息日になったら、全階自動的に止まって、全階扉が開いて閉まって、という。普通のエレベータは行く階に行こうと押してもどこにも動かない。というくらい厳密に守っていて、それがいくらでもあるんです。
たまたま安息日にエルサレムのホテルのいたんですが、日頃の朝だったら、いわゆるベンディングマシンというか、コーヒーとか、紅茶と書いてあるところを押して…。それも、ないんです、安息日には。どうやってコーヒー飲んだらいいのかと思ったら、アラブ人のウエイターが来てくれて、まあ、良かったんですが、とにかく、そういう話もいくつもあるんですね。
文字だって、アルファベットだったら2文字以上書いたらダメなんですよね。1文字ならいいですけど、2文字以上書いたらダメ。人間の名前って、大体2文字以上だから、何が困るかというと、領収書がもらえない。安息日には。とまあ、いろいろあって。つい最近、私はイスラエルの興味があって、ニュースをいろいろ見るんですが、今年6月に、チーフラビがあるお触れを出したんです。携帯電話を使ったらダメなんですけど、ボタンを押すから、携帯電話は使えないんですね、安息日に。でも、チーフラビの御触れは何かと言ったらですね、その、安息日に救急ボランティアに当たっているユダヤ人が救急ボランティアなんだから病院や救急車に電話をしなければならないんだから、その場合に限って、口にマッチ棒を咥えて、マッチ棒の先で携帯電話を押すのであればOKである、という。今年の6月に出ているんですよ。だから、何千年間そういうことを細々と決めてきたかと。命がけに思っているんですよね、つまり、これがいいことか悪いことか。
だからイエス様が安息日に病人を癒した、ということはユダヤ人から見たら信じられないくらい、ある意味では冒涜になるわけですね。イエス様はこんなことをやっていたから喧嘩になったわけで、安息日論争というのはユダヤ人にとって、深刻なる問題なんですね。他から見たらなんでなんだかという問題なんですけど。でも、それが、結局はユダヤ人の、穴というか、囚われとなって、イエス様を信じることができなかったわけですけどね。
だから、今日のローマ人への手紙、パウロもユダヤ人ですが、パウロはローマ人への手紙9章、10章までずっとの話なんですが、彼はこう言うんですよね。「私には深い悲しみがあり、私の心には絶え間ない痛みがあります。」何かと言ったら、ユダヤ人がキリストを救い主として受け入れなかったということ、物凄いパウロの痛みであったわけですね。それは結局、イエス様を、物事を律法の発想からしか見れなかったんで、イエス様を救い主として受け入れることができなかった、それが後々まで、今まで2000年間そうなわけです。パウロがそれについて、物凄い痛みを感じているんですよね。ユダヤ人はイスラエルの民だと。神の子としての、身分とか、栄光、契約、律法、礼拝、約束、そのすべてが与えられているにもかかわらず、イエス様を信じることができなかった、どんな悲劇であるか、ということを書いてあるわけです。
もちろん私たちはユダヤ人ではない。異邦人にあたるわけですが、だからと言って私たちが律法的な考え方に囚われていたら、イエス様の救いの力を失ってしまうことにもなりうると思いますね。とにかく、日本人はどんなに真面目な、世界中でも極めて真面目。こうしなくちゃならないとかああしちゃならないとかですね、そういうものに、もし私たちが囚われるとしたら、イエス様の本当の力を見失ってしまう。イエス様が救い主であるという一番大切なポイントを見失ってしまう、見失う可能性は私たちにもあるわけですね。あるいは、クリスチャンですら、本当にイエス様の救い主の力を信じているかといいうことも結構疑いがあるかもしれない、と個人的には思いますが。
イエス様の心は何なのか、今日の福音からはこうなんですよね、「あなたたちの中に自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからと言って、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」イエス様から見れば私たちは、息子か、牛か、まあ、どっちかわからないわけですが、つまり、自分の息子か牛が井戸に落ちてる状態を、すぐに助けたいと、律法とか、掟とか、関係なしに、井戸に落ちているものだったらすぐに助けたいというのがイエス様の願いである。
その心なんですよね。イエス様から見たら、井戸に落ちている…、皆さんの中で、なんらかの意味で井戸に落ち込んでしまっているような気持ち、あるいはそのような状態に囚われているとしたら、イエス様はすぐにでも助けたいと思っておられるわけですよ。でも、ユダヤ人のように、安息日だから行きませんとか、なんとかかんとかとしてポイントをずらしているとしたら、私たちは本当の意味で救いの力に与ることが難しいかもしれない、ということなんですよね。どれだけこの、井戸に落ちている人を助けたいと思っているイエス様の、これこそイエスの御心の中心的なところだと思います。
その、イエス様に頼れるかどうか。そのことがものすごく大切なポイントだ、ということになりますね。果たして私たちが井戸に落ちているかどうかということがわからないのかもしれないのですけど、落ちているとしたら、言うことはたった一つだけで、「助けてくれ」と言うこと以外何もないわけですよね。井戸に落ちているとしたらですよ。井戸に落ちてて、耐えれるかとか、耐えれないかとか、我慢できるとかできないかとか、そんなことは考えている余裕もないわけで、神様に、助けてくれって言うことしか、ほんとはないんですよね。
まあ、そのような私たちのイエス様に向かう心はそのようなものですね。律法を守ったら助けてくれるとか、どこにも書いてないわけで、真面目に頑張ったら助けてくれるとか、何年我慢したら助けてくれるとか、そのようなことは何の関係もない。イエス様はすぐに助けてくれる。条件がついてないわけですよね。イエス様の救い方というのは。そのイエス様の本当の哀れみの心、どれだけ私たちを救いたいと思っておられるかどうか、というイエスの心に私たちが触れるかどうか。イエスの御心というのは、ただそれだけを、私たち一人一人を罪の状態から、囚われの状態から、あるいは病の状態から、助け出したいというイエスの心を私たちが信頼することができるかどうか、その心により頼む事ができるかどうか。そのイエス様に本当に恵みを心から願う事ができるかどうか。
本当に井戸に落ちているとしたら、井戸の底から叫ぶ意外にないわけです。牛が井戸に落ちたらどんな声で鳴くか知りませんが…。井戸に落ちている者がどうするのか、叫ぶ以外に何もないですよ、ただ。上に向かってですよ。助けてくれ、っていう以外にない。それでいい、それで、イエス様が助けてあげるっていう話です。なんか、こう、いろいろ縛りがある、私たちの中に。それがちょっとでも取れていくように願ったらいいと思いますね。
例えば大きな事でないかもしれない、ある人がいて、自分の父親をずっと恨んでいたんですよね、自分のお父さんが自分にあまりよくしてくれなかったと、まあ、いろんな事で。物凄いずっと恨んでいたんだけど、お父さんのお葬式の直前に、彼女はそのお父さんと和解できたんですよね。それで、お父さんに最後お別れを言って、亡くなった。その後にお葬式でたくさんの人が集まって、お父さんがどんなに素晴らしい人だったかと、皆口々に喋ったんですね。その時に初めて彼女は、自分はお父さんの一面しか見ていない、まあ、それは人間だからいろいろな欠点があるでしょう、ある欠点に縛られて、一生涯お父さんを恨んでいたんですよ。で、も、別のところから見るなら、たくさんの人が、ある意味でとてもいいお父さんであったわけで、多くの人が彼に恩を感じている。でも自分は娘としてお父さんのいいところは何一つ見えていなかった。自分にしてくれなかったポイントしか見ていなかったけど、亡くなった時に、どんなにお父さんがいい人だったか初めて気がついた、それもある意味で井戸から出た一つの例ではないか、ある角度から見て、他のことは一切見えてなかったら囚われちゃっているわけだけど、全体的に見たら全然違う。それも本当にお恵だと思いますけど、罪の許しを神に願って、なくなる直前に彼女は和解して、その後に、そういうお恵を得たということです。
なんらかの意味で井戸に落ちるということはそういうこともあるかもしれない。縛られて、あるものの見方でしか見れないから。自分を全く不幸な人間だとしか見れないとか、全くダメだとか、思っちゃうかもしれないけど、でもやはり、それは違うかもしれない。
神の恵みの中で、自分の心をちょっと変えるだけで、何かの形が変わった恵が開かれてくるかもしれない。井戸に落ちていると思っても、実は落ちていないかもしれないこともありうるわけですが。イエスのみ手に委ねていくだけで、あることははっきりとしてくることはある。何がはっきりしてくるかといえば、恵みの世界ですね。これが私たちの中ではっきりしてくる。そういうものを本当にイエスの御心により頼んでいきたいと思います。一人一人必要な恵みは違うと思いますからこのミサを通して、開かれて、解放されて、井戸の中から助け出されるような、自分のためもそうだし、周りの人のために祈り合いたいと思います。

 

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