テキスト版 マタイ福音書5章1~5節『大丈夫だよ』 至福の山 イスラエル聖地巡礼のミサ

マタイ福音書5章1~5節『大丈夫だよ』 2010年3月4日  聖地巡礼の旅 至福の山にて
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マタイ福音書5章1~5節『大丈夫だよ』 2010年3月4日  聖地巡礼の旅 至福の山にて

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。

「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 

この山上の説教の冒頭のところ、本当に感銘、特にこの至福の丘で聞くと、非常に感銘深いものがあります。

2、3日前、ここで祈った時も、ここの前、こことのつながりの中で味わったらいいと思うのですが、4章の23ですが、「イエスはガリラヤ中を巡って諸会堂で教え、御国の福音を述べ伝え、民衆のありとあらゆる病気や患いを癒された」、「すでに、イエス様がこの辺りで活動しておられて、御言葉を語り、そして病気を癒されていた。そして、イエスの評判がシリア中に広まった、人々がイエスのところにいろいろな病気や苦しみで悩む者、悪霊に取り憑かれた者、癲癇の者、中風の者など、あらゆる病人を連れてきたので、これらの人々を癒された。こうして、ガリラヤ、デカポリア、ユダヤ、エルサレム、ヨルダン川の向こう側から大勢の群衆が来てイエスに従った」と。で、その大勢の群衆を見て、山に登ったというのです。エルサレムから来たと言うのは、ちょっとオーバーかもしれないけれど、エルサレムやヨルダン川の向こう側からも来て、ここに集まってきて登ってきた。それで、山上の垂訓の冒頭の部分を語られるんです。

この、八つの幸だけ見ると、堅苦しく、何を言っているのかよくわからないところもあるんですが、ここに来て、この箇所を私なりに味わって、そうだ、と思ったのは、やっぱりこれはイエス様の励ましの言葉なんだということを強く感じました。そこに上がってきた病人とか、貧しい人とか、弱っている人に対して励ますためにですね、この八つの幸を語ったのだと思います。

心の貧しさを感じている人たちがいたでしょうけれども、その人たちに、「幸である」と言ったら言葉が硬いですけれども、人々に「大丈夫だよ」って言って「頑張りなさい」というか、「天の国は皆んなのものなんだから、そういう貧しさに負けないで、大丈夫だから、頑張りなさい」っていう、そういう感じですね。

「悲しむ人々は幸いである」、そこに集まっている人の中には悲しんでいる人がいっぱいいたわけです。だから、「今悲しんでいるけど、大丈夫だ、私がいるから、神の恵みがあるから、そんなに泣かなくていいんだ、慰められるから、神様が、慰めてくださるから、大丈夫だよ」、っていう語りかけの言葉だったんだと思います。

柔和な人々、これもいろいろな意味ですが、柔和にせざるを得ない、頭を下げざるを得ない、というニュアンスの方が大きいような感じがしますが、頭を下げざるを得ない、柔和にせざるを得ない人々に対して、「大丈夫だよ、いろんなことがあるけれども、地を受け継ぐことができる、しっかり地に根付いて生きることができるから、大丈夫なんだ」、と言っておられるんですね。

義に飢え渇く人、神のみ旨を求めて飢え渇いている人がたくさんいたでしょうけど、「大丈夫だよ、頑張りなさい、私がいるから、神の恵みがあるから、あなたたちはそのうち満たされる、だから、今の形で頑張ったらいい。」

哀れみ深い人々に対して、あるいは、周りの人々に対して哀れみをかけようとしていた人々、身近な人を愛そうとしている人に向かって、「それでいいんだ。そうやって周りの人を愛していこうとする気持ちがあれば、神様からめぐみを受けている。だからその調子で周りの人々を愛していったらいい。哀れみを受けるから、あなた方は」ですね。

心の清い人々は、逆に言えば周りの人々に馬鹿にされたかもしれない。心が清いだけではこの世は渡っていけない、とか言われたかもしれない。でも、「その心の清さを保って生きたらいいんだ、大丈夫だから、その道を歩んだらいい。そのうちに神を見ることができるから、その心のきよさを保っていったらいい」、と、イエス様は言ったんだと思うんです。

平和を実現する人々は幸いである、当時も今も、平和を実現するというのは本当に大変なことだったと思いますが、そのために小さな努力をしている人も、その中にいっぱいいたと思うんですよね。だから、「頑張りなさい、大丈夫だから、務めを頑張って果たしなさい」、神の子と呼ばれる、それは神様自身が呼んだんだと思います。神様自身が、「神の子だ」と。平和を作るために頑張っている皆さんは神の子なんだ、と、イエス様がおっしゃったんだと思います。

義のために、神のみ旨を果たすために迫害される人は幸いだと、「苦しいだけれど、大丈夫だと、私が一緒に励ましてあげるから大丈夫なんだと。天の国はちゃんと用意されているから、迫害を耐えていきましょう」と。そう言ったのだと思います。

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