テキスト版 マルコ福音書14章32~42節「祈りの本質」ゲッセマネ万国民教会 イスラエル聖地巡礼の旅

マルコ福音書14章32~42節「祈りの本質」2010年3月5日 聖地巡礼の旅 ゲッセマネ万国民教会
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マルコ福音書14章32~42節「祈りの本質」2010年3月5日 聖地巡礼の旅 ゲッセマネ万国民教会

一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。

そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、

彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」
少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、

こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。
誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」

更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかったイエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

イエス様が十字架にかかる直前ですね、先ほど見た谷の向こう、上から見たら左側のところ、最後の晩餐の後の真夜中、こちらに谷を渡って戻ってきて、ここがイエス様がよくお祈りされる場所だったわけです。そして戻って来て、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、ヨハネの3人とともにここで最後の祈りを捧げていた、そういう場所です。

この時のイエス様の中にどういう思いがあったのか、それをよく味わいたいと思います。

その時はもう夜で真っ暗だったでしょうが、昼間、今もそうですが、そこを出て真正面が黄金門に当たる、メシアはその黄金門を通ると言われていて、イエス様もその門を見るたびに、メシアとしての使命がなんであるのか、たびたび自分に問いかけたのではないかという気がします。

メシアであるということ、それはイエス様にとって、やはり十字架にかかるということが避けられない、十字架という門を通ることは避けられない、その思いをひしひしと感じながら、ここでたびたび祈ったのは間違いない。

そして最後の夜ここで最期の祈りを捧げるわけですが、それは喜んで、とか、平安な心で迎えたわけでは全くなくて、千々に乱れるような恐れや不安や、そうした全てを感じながら、ここで祈っておられた。

イエスはひどく恐れて悶え始め、「私は死ぬばかりに悲しい」というふうに書いてありますが、そのような気持ちでここで祈っていたと思われます。この、イエス様の悲しみの中には、自分自身の来る意味だけではなく、エルサレムを見て嘆かれた、その、人類の苦しみ悲しみ、それら全てをイエス様はここで感じられたというふうに思います。

イエス様はそれに対して本当に恐れをなして、できることならこの苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈っておられた、本当に正直なイエス様の弱さが現れているところであると思います。

私たちも受難に向かうとか、苦しみを前にしたときに、自分の苦しみであっても、この社会の苦しみであっても、無力感や、そこを避けたいという、そういう気持ちに私たちは度々襲われた、でも、それはある意味でありがたいことですが、イエス様自身が、その苦しみを、弱さを感じた。しかし、それだけではなくて、この杯を取り除けてください、それは私が願うことではなく、御心が叶うことが行われるように、自分の願いを、苦しみを避けたい気持ちを祈って、そこで神のみ心が叶うことが行われるように、自分の全てを明け渡していく祈りを捧げていくわけです。ここでなされたイエス様の祈りは、私たちクリスチャンの祈りの根本的なものであるような気がします。

一度話したかもしれないですが、聖書学者が言うのですが、主の祈りというのは、マタイでは山上の垂訓で教えているんです。ルカではエルサレムに向かう旅の途中でそい得ているんです。ここでは、オリーブ山の麓の方に、「主の祈りの教会」というのがあって、そこは歴史的にはあまり意味がないかもしれないから見学を飛ばしたんですが、そこに主の祈りの教会があるってことはゲッセマネの園とひっついてるからだと言う気がしますが、私たちの祈りの根本は、やはり、イエス様の体験から来ている。私たちが主の祈りを唱える時も、イエス様の苦しみと、苦しみだけじゃなくて、委ねる、そこに主の祈りの本質があるんでしょうし、私たちの祈りの本質があるんだと思います。

そのイエス様の気持ちを味わいながら行きたいと思います。残念ながら弟子たちは眠ってしまった、これもまた人間の弱さがはっきりと現れているところですけど。

私たちも嫌なことは見たくないし、人の苦しみとか、自分の苦しみを見たくないから、寝ようとする気持ちがあるのは当然ですが、そんな中でも、少しでもイエス様の苦しみをともにできるように、イエス様の委ねの心をともにできるように。そして、イエス様が全ての人のために苦しまれた、私たちも、苦しみをイエス様とともに少しでも担っていく力が与えられるように、このミサで祈りたいと思います。

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