テキスト版 ヨハネ福音書12章20-26節「一粒の麦―イエスに真に出会うとは」ドミニコ会聖ステファノ教会 エルサレム2010年聖地巡礼の旅
ヨハネ福音書12章20-26節「一粒の麦―イエスに真に出会うとは」2010年3月8日聖地巡礼の旅ドミニコ会聖ステファノ教会 エルサレム
さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。
彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。
イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
今朗読したのが、ヨハネの12章、有名なところにあたるわけですが、エルサレムに上ってきた、まさに、この場所に上ってきたギリシア人が、イエス様にお会いしたいということをお願いするわけです。
不思議なんですけど、フィリピがアンデレに言って、アンデレとフィリポがイエス様に頼むわけですよね、「ギリシア人がイエス様にお会いしたい」と。お会いしたいという話をして、イエスのお応えはこうなんです。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが死ねば多くの身を結ぶ」ということを語られる。お会いしたいという話だったのが、突然受難の話になる。このギリシア人が会えたのか会えなかったのか、あとは何も書いてない。不思議なつながりで書かれている箇所なんです。ここは。
でも、ギリシア人が、「お願いです、イエスにお目にかかりたいのです」と言ったその気持ち、それは結局私たち一人ひとりの気持ちだと思います。
イエス様にお会いするために、私たちもエルサレムに上ってきた、その時にイエス様が言うのはこの麦の話です。「死ねば多くの実を結ぶ」と。「自分の命を愛するものはそれを失うが、この世で自分の命を憎む人はそれを保って、永遠の命に至る」。
私たちがイエス様に出会うということ、それは、やはり、イエス様の十字架なしには、私たちは本当のイエス様に出会えないということを語っているんだと思います。
イエス様を、このギリシア人は、肉眼で見るとか、私たちも祈りの中で出会うことはあるのですが、でも、本当のイエス様の核心というか、本当の姿は、十字架にかかって復活されたという、そこの私たちは触れない限り、本当の意味でイエス様にお目にかかることはできない、ということを語っているのだと思います。
だから、今日一日、イエス様が何のために死なれたのか、十字架にかからざるを得なかったのか。一粒の麦が地に落ちて死ななければ一粒のまま。イエス様は一粒のままではなくて、自分の命を捧げることによって、多くの実を結んだという、その過越の神秘を、私たちは心に刻みたいと思います。そして、イエス様に出会いたいと思います。
このエルサレムは、やはり、私の印象ですが、悪が集積している街でもあって、人類の罪深さがある意味全部ある。ガリラヤとは全然違う罪深いものが、パレスチナ人のことについても、ユダヤ人の虐殺にしても、あるいは宗教間の争いにしても、人間の悪いところが表面に現れているというか。
日本は一見平和だけど、内には同じものがあります。ですが、ここにはそれが明らかに顕われている。だからこそ、イエス様は十字架にかかって復活する以外に本当の救いをもたらすことはできないということを感じられたんではないか。だから、「預言者がエルサレム以外で死ぬことはあり得ない」とルカに書いてあるんですけど、ここで十字架にかかったということはやはり神様の本当のみ旨だと思います。そこから私たちは多くの実を結んでいく生き方を学んでいかなければならない。
「私に仕えようと思う者は私に従え」と、はっきり言っているわけです。「そうすれば、私のいるところにともにいることができる」。イエス様と共にいて、イエス様にお目にかかって、本当の親しみを持つことができる。そして、しかも、御父はその人を大切にしてくださる、というふうに言っておられます。
この過越の神秘、イエス様の苦しみが一体どうだったのか、なぜ十字架にかからなければならなかったのか、そして、イエス様が十字架にかかるということは、自分にとってどういう意味があるのか。そして、自分自身も自分の命を捨てる、イエスに従うとはどういうことなのか、それをゆっくり思い巡らす日にしたいと思います。
そして、私たちが復活に向かっていく、実際「人の子は栄光を受ける時が来た」と書いてあります。栄光を受ける、復活も込みですね、復活も合わせて過越の神秘を味わいたいと思います。
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