テキスト版 ルカ福音書24章1-12節「復活した主に出会う―新たな巡礼の日々へ」アブゴシュ修道院 エマオ 2010年 聖地巡礼の旅

ルカ福音書24章1-12節「復活した主に出会う―新たな巡礼の日々へ」 2010年3月9日 聖地巡礼の旅 アブゴシュ修道院 エマオ
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ルカ福音書24章1-12節「復活した主に出会う―新たな巡礼の日々へ」 2010年3月9日 聖地巡礼の旅 アブゴシュ修道院 エマオ

 

そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。
見ると、石が墓のわきに転がしてあり、
中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。
そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。
婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。
あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。
そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。
それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、
使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。
しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

 

今朗読したのは、エマオへのでしたちの前のところですね。週の初めの朝早く、夫人たちがイエスの葬られた場所に行くと、墓が空っぽであった、というところです。

その、天使か何かが、輝く衣を着た二人の人ですね、「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ」と言うわけです。

私自身の一つの感想ですが、あの聖墳墓教会のイエス様の墓に行って、一番強く感じたことは「イエスはここにはおられない」ということです。この天使たちと同じことを感じました。イエス様は復活なさったので、もうエルサレムの聖墳墓教会の中にいるわけではないという。

もちろん、何か、復活の時のスピリチュアルな感じは今でも感じられますが、でも、あそこにイエスがいるわけではない。だから、私たちは、あそこの空の墓を見た後は、復活した主と出会っていくというか、それを探していくというか、それが私たちに与えられていることだと思います。

エマオに向かった二人の弟子たちは、墓場でイエス様に会ったわけではなくて、エマオに来て、エマオまでイエス様とずっと一緒に来て、イエス様だと気づいた。ここのエマオか別のエマオか、エマオで、復活した主だと気づいたわけです。

私たちも、巡礼の終わりにあたって、復活した主と、どこで出会うのか、それを最後に問いかけたいと思います。

もちろんこの巡礼中に様々な恵みや、癒されたりした人が多かったと思います。でも、巡礼の目的は、巡礼ではなくて、巡礼のあと、やはり、空の墓を見たら、復活した主、生きているイエス様を私たちが見出していく。それは私たちの日常生活の中でしょうし、私たちの仕事でしょうし、与えられた使命でしょうし、あるいは、周りの人々、苦しんでいる人々、あるいは私たちの中の分裂や痛みや苦しみ、そういった中にこそ、私たちは復活した主を見出して行かなきゃならないと思います。

そのために私たちはまた改めてイエス様とともに歩んでいくという気持ちが必要でしょうし、私たちの本当の信仰の歩みがここからまた始まる時だというふうに思います。

復活した主を見出していく、復活した主と出会っていく、それは私たち、この中の大半は日本に帰りますので、日本の中で復活した主にまた出会えるというふうに思います。

空の墓を見た以上、やはり復活した主を私たちの生活のどこかで、これからの人生の中で見出していけるよう、祈りたいと思います。

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