説教ライブ

「危機の時代に希望を生きる」 2024年四旬節黙想会

hanafusafukuin

「危機の時代に希望を生きる」 2024年四旬節黙想会2024年2月25日大阪玉造教会

四旬節の黙想会ということで、お話をしたいと思います。テーマは、何か考えて欲しいって言ったら、「希望を持って喜びに生きる」だったか、この前のワールドユースデイのテーマなのですよね。

パパ様が若者に向かってお話をしたテーマで、箇所は、ローマの信徒への手紙12章ぐらいだったと思うのですけど。そこをちょっと取り上げたのですが、ただいろいろ考えて、その箇所とメッセージというのはかなり若者向けで、若者が持つ希望というのは、もうちょっと明るいものが確かにあるけれども、いろいろ時代的にも何か暗いところがあるから、どっちかっていうとやっぱこの危機の中で、私達がどのような希望を持っているかという話を今日はしようと思いました。

でも希望というのはなかなかいいテーマだなと思ってですね、どうやって私達が、若者は若者なりに、中年は中年なりに、年寄りは年寄りなりに、やっぱり希望を持って歩んでいくっていうのは、キリスト教の信仰にとって、もう根本的には確かにことなので、今日はそういうところから、少しお話をしたいというふうに思います。

私のプリントの方は、ただ聖書の箇所だけなのですが、危機の時代にどうやって希望を持って生きていくかというようなテーマでお話をしたいと思います。

最初はマタイによる福音書の10人の乙女のたとえなのですが、本当だったら皆さんに全員聖書持ってきてもらってと思ったのですが、プリントにしました。マタイの25章というのは一体どういう章なのかっていうことなのですが、家に帰ってからでいいので、聖書を読んでもらったらいいと思います。

私たちはともし火をともせたか

24章が世の終わりの話なんですよ。24章が、世の終わりの混乱とか危機について一章分書いてあるんですよね。実際のところ、さらにちょっと言うと23章は、宗教者の段落について一章分書いてあるんですけど、パリサイ人について一章分、どんなに悪いか23章で一章分書いて、24章で世の終わりのあれなんですが。なんていうんですか、今はもちろん本当に世の終わりかどうかもちろんわからないですが、ただやっぱり、ちょっとやはり危機感がだんだん積もってくるっていうか、1995年の阪神淡路大震災の頃は何か、何か単発的だった感じもすしますが、もう今は、なんかしょっちゅう地震が日本だけじゃなくて世界中ですね、一年中あんまり地震のニュースも多いし、異常気象というか、気象その他、今年の夏も酷暑になりそうだし、様々な危機的なことがやはりどんどんどんどん迫ってきて、コロナが流行って、もう大変だなと思ってるうちに、大きな戦争が二つも始まっちゃって、結局未だに終わらない。ウクライナ、そしてガザ地区と二つの大きな戦争があって、特にやっぱりロシアが戦争を始めるとは世界中の人はほとんど思ってなかったの、でそういう衝撃とか。かなり混乱の時代に入ってきてるわけです。

だからそういう混乱の時代を、聖書的には終末という呼び方で言ってるんだと思います。なんていうんですか、何か滅びていこうとか何か滅びていく、つまり、何か時代がシフトするときに、社会全体がとかも地球全体がちょっとシフトする時期にやっぱりきてる。ある意味滅んでいくものある。もたくさん地震で壊れたりとか、経済も破綻する可能性がだんだんだんだん…。この前、二、三日は先週か、株価が最高値を更新したっていうんですけどね。結局もこうなってきたら、いつバブルが崩壊するかってことで、ちょっと話がずれるけど、一般の方々がNISAだったか何だとか、普通の人が株やるようになったらもうバブルなんですよ。それがもう崩壊の一歩手前なんですよね。みんながやるようになったらもう駄目なんです。ですけど、だからそれがもう来週、今週か月曜日から崩壊するんじゃないかという意見もあれば、3月からという意見もあるし、もちろんいろんな人の意見があって、いろいろ誰もわからないですけどね。とにかく様々な経済が破綻したらまた大混乱になってどうなっちゃうのかなって感じもしますがいずれにせよ、様々な危機が私達の中に来てるのも事実なので、その中でどうやって私達が希望を持って生きるかっていうことを、やはり考えなきゃならないと思いますね。

プリントの方に戻って、マタイの24章にはこの世の終わりの混乱について書いたんですね。だからこの戦争のこととかですね、地震のこととか書いてあって、マタイにはないんですが、ルカには並行箇所では、いわゆる疫病ですね。疫病も流行るって書いてある、疫病と飢饉って書いてあっていわゆる食糧危機ですよね。日本ではまだ大きな食糧危機が来てないですけど、もっとひどくなったら食料危機も来る可能性には、やっぱり食料自給率低いですから、その可能性もなきにしもあらずなんですが、でも大事なのは、聖書はやっぱり救いがあると思うんですが、24章で混乱の話を書いているとともに、25章で、じゃあどうしたらいいかって書いてあるのが25章なんですよ。だから25章は混乱の中で生きていく心構えが実は書いてある。三つのたとえ話が書いてあって、他の二つは非常に有名なタラントンのたとえばなしとか、最も小さい人にしたことは私にしたことであるとかいう話とか。今日はそれらについては話しませんが、実はこの三つのたとえ話は世の終わりに備えてどうするかっていうことを書いてある。

日常の普通の生き方の話でもあるんですが、危機の中でこそどう生きるのか、その心構えを描いてるのがこの三つのお話なんです。だからいろんな困難とか苦しみとか、そういう中で、マタイの25章の一つひとつのたとえ話を味わい直すと、また違う励ましとか、そういうものが与えられるでしょう。

今日は一つだけ取り上げたんですが、ご存知の方も多いでしょうが他の二つよりは有名じゃないので、ちょっとこれを取り上げたんですが、10人の乙女のたとえですね、ちょっと朗読すると、

天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。

そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。 

愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。

賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。

ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。

真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。 

そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。 

愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』

賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』

愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。

その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。

しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。

だから目を覚ましていなさい。あなた方はその日そのときを知らないのだから。

(マタイ25:1-13)

というお話ですね。

「天の国は次のようにたとえられる」、マタイはユダヤ人ですから、あんまり神っていう言葉を使わないんですね。だからよく「天」と言い換えられるんですが、これはもう決定的な世の終わりの神の国の到来のことの、さっき言ったように、そのことで語られているものなんですが、10人の乙女がともし火を持って、この花婿を迎えるってことですよね。「花婿」というのは明らかにイエス様の再臨、世の終わりになったら天から来られるというですね、そのことを象徴的には語ってるんですが、イエス様の到着が遅れてですね、花婿の到着が遅れて夜になっちゃったっていうことで…2000年間遅れてるんですけど…だから、だいぶ長いんで、それで、夜になっちゃったという、夜ってのはこれも明らかに神様不在の苦しみの時間帯ですね。昼間ってのは神様がいる。だからどんどんどんどん夜になってですね、苦しみや、この混乱がかなり進んでしまう。だからその中でこそともともし火をともさなきゃならないってことなんですが、5人の乙女たちはちゃんとともし火をともせたんですけど、愚かな乙女たちは油の用意が足りなかったのでともし火を十分にともすことができなかった。ともし火をともせた人たちが、イエス様の救いのときに救いの中に入れるんですが、この愚かな乙女たちがそれができなかったというですね、最後の裁きのこともここに入っているわけですけれども、一つのポイントは、やっぱり、闇とか暗闇の中で、ともし火をともせるかどうかっていうことが、実はこれがなかなか難しいことではあるってことが一つと、もう一つは何かって言ったら、日頃、油を用意しているかどうか、ということです。日頃の油と、危機のときに混乱の中でともし火をともせるかっていうことの、何が難しいかって言ったらですね、暗闇の中に放り込まれたら、もうともし火どころじゃないんですよ。暗闇にやられちゃって、もうとにかく怖くてじっとしていましょうみたいな感じで縮こまっちゃってですね、暗闇の中で暗闇だからもうじっとしていましょうみたいな感じになっちゃうのが、ほとんどの人ですね、実際は。ともし火をともそうという発想すらない。

そこであえてともし火をともせるかどうかっていうのが、実はなかなか大きなチャレンジなんですよ。たとえば皆さんが過去にね、小さな、大きなあるいは暗闇にとか、いろんな夜っていうか、闇を体験されることもあるでしょうけど、その中で自分は果たしてともし火がともせたかどうかっていうことを、まず見なけらばならない。どういうともし火をともせたかって言ったらどういう油を準備してたから、ともし火がともせたのか、逆にともし火がともせなかったとしたら、どういう油が準備できてなかったから、ともし火がともせなかったのかっていうことなんですよね。それは自分自身が一人ひとりが振り返ってみることだと思いますね。先ほどの説教のときに、阪神の阪神淡路大震災の話をしましたが、そのとき私は日本になかったんで、なんかあんまりそれをちゃんと受け止められなかったんである意味残念ではあったんですが、でも一人ひとりはもちろんあれですけど、大阪教区全体としてともし火はともせたと思います。やっぱりあれが日本全体のボランティア元年というか、ボランティアが定着するきっかけになりましたし、六甲教会にもたくさんボランティアが来て、そこからいろいろ活動してたんですよね。だから、あの大きな危機を、教区全体として、ともし火をともす方向にやっぱ動いた。それはやっぱり、大きな宝だなというふうに思いますよね。それからいろんなことがあって、東日本大震災の大混乱のときも、大阪の体験が役に立ったんですよね。間違いなく。そのときの蓄積があるから、それがまた油になってるんですよ。

だから、あの東日本大震災があった後、もう何日か後ぐらいには仙台のカテドラルで司教さんと、事務局長の神父さんと、神田神父もそのときもいたと思うんですけど、大阪教区の神父さんたちとか、菊池大司教もいたと思います。あと、新潟だったかな。カリタスジャパンもすぐ会議を数日後にしてるんですけど、もうね、仙台教区の司教さんも事務局長も、全く経験がないし、もうね、もうポカンとしてる感じで、神田神父さんが、絶対ボランティアが来からもうすぐボランティアセンター立ち上げなきゃならないって言っても、こんな田舎に誰が来るんですか、という感じで全く実感がなかったんだけど、でもやっぱり大阪の体験があるから、これとこれが必要でって言って。実際案の定一週間後には人が来て、山のように支援物資が来てですね。それから大混乱になったんですけど。でもね、やっぱり神戸の震災の経験がカトリック教会全体にあったから、カリタスジャパンにもあるし、大阪教区にもありましたから、それで支援活動が実は始まるきっかけになった。だからもう今のあの能登半島の地震でも、熊本もそうでしたが、もうその蓄積ができてるから様々なことが、もうサポートセンターが、やっとボランティアの受け付けをちょっと始めて、私もどう若者を送るかでいろいろ情報収集してます。

いろんなことで司教さんたちも慣れてるし、神父さんたちも慣れてる人がいっぱいいるからですね。だからそういう積み重ねと、それでともし火がともしていけるっていうことが、あるわけですよね。

そういうことも含んでこのともし火と油を、それは教会全体のことではありますけれどもですね。私自身の小さな体験から言うと、本格的に出会ったのがその東日本大震災ときなんですけどね。

当時は鎌倉にいたんです。黙想指導で黙想の家にいて、教会も持っていなかったんですけど、関東にいましたから、なんかものすごい直撃みたいな感じで、東京にいても、直撃みたいな。3月11日ですけどね。もう津波のすごさとともに、福島の原発の問題もありましたから。日にちが確かじゃないけど14か15日ぐらい2回ぐらい爆発してるんですよね、あの原発が。それで東京に一番放射線が降ったのが15日ぐらいなんです。でも、マスコミはちょっと言わなかったけど、チェーンメールがいっぱい流れたんです。正確な情報も、もうマスコミ関係の人からきました。今日は絶対外に出たら駄目だというメールが来て。つまり放射線がものすごく降ったんですよ。鎌倉も関東一円にばあっと降った日があるんですよね。あの日に外に出てたか、中にいたかで健康被害の差が出るぐらいの大きなことが実際あって。でも、その時は、本当か嘘かわからない。でも用心して、あの日は外に一歩も出ずに、窓全部閉めてましたんですけどね。そのときの自分の気持ちはもうね、ともし火をともすどころじゃない。

もう津波の映像をテレビ見てるだけでも打ちひしがれて、黙想や会議の予約がどんどんキャンセルされて時間があるんだけど、もうね、体が動かないっていうか、ちょっと鬱状態になっちゃうっていうかですね。その後からやっぱりそういう暗闇に負けちゃう。だからたとえば避難所のシーンがいろいろテレビに映ると、なんかみんなぶらぶらしてる、避難所にいる人がむしろやったらいいんじゃないかって意見とかいろいろ言ってるけど、避難してきた人は家もやられたりするでしょうから力が全く出ないんですよ。だから、ボーッとして座ってるか寝てるしかできないぐらい、メンタルもやられちゃうというか、全てが一緒になくなっちゃって家族も死んでたりして、もう駄目なんですよ。

そのときに、15日だったか16だったかちょっと忘れたけど、当時の天皇陛下がビデオメッセージを出したんですよね。そのときのことを覚えておられる方もおられるかもしれませんが、民放もNHKも全部夜の9時ぐらいから。内容は何をおっしゃたか、僕は覚えてないんですけど、やっぱりそのメッセージを出すっていうこの前向きな姿に、実はなんかもう、ちょっと言葉はおかしいけど、なんか「この人に負けたなっ」て。なんか言葉で言うのは全くおかしい言い方だけど。やはりね、いや、本当にこの人はともし火をともしてるって、もう本当に思いました。

つまり、やられて打ちひしがれてる側に回ってないわけですよね。ともし火をともす側に回ってるわけでしょ。大したもんだと思いました。自分は、って言ったら、宗教者の端くれだから、人のことを考えなきゃならない立場なのに、何かぼやっとしてるだけで。だけど、それ何で天皇陛下ができるかって言ったら、それはもう、日頃からの油を貯めてるわけですよね。日頃から日本国民全員のことを心配して、心がけてるからですよね。だからそういう日頃の態度があるから、ここでできるっていうのかな、だからすごいなというふうにそのとき正直を思ったし、日本でカトリックとかキリスト教を広めるために、天皇陛下以上のことをしないとこれは無理だなって。

今、困難や危機の中にあったときに、私達がクリスチャンとして、ともし火をともせるかどうかっていう小さなものでも構わないけど、打ちひしがれる場合じゃなくて、励ます側に回るってことでしょ、ともし火をともすってことは。やっぱり私達クリスチャンが危機の中で、呼ばれているのは、そのような生き方が一番大事だということで、それが私達一人ひとりに課せられている一つの使命だというふうに言えると思います。

結局天皇陛下のメッセージ見て回心して、もうこんなことしとったら駄目だろうと思って、知り合いが釜石に居たのでそれからずっと釜石の支援活動に関わるようになって、その事をかなり深く、関わってて未だに関わってるんですけど、大阪教区としては大船渡というところを未だに支援していますけれども。それがきっかけでちょっと私も気持ちを全く変えて、こんなことじゃ駄目だっていうことで。東日本大震災のときは本当にオールジャパンでいろいろできて、それはそれで一つのともし火をともせたと思うんですが、やっぱり自分がやっぱすごいショックだったのは、このコロナなんですよね。

コロナの3年半ぐらい。結局、皆さん一人ひとりもそうですけども、教会としてどういうともし火をともせたかどうなのかっていうことです。もちろん、まだ流行ってるし、完全に終わってるわけじゃないですけど、やっぱりそういう中で、ともし火はともせたのか。

そういうことも私達は問うていく必要性はあるんじゃないかということなんですよ。本当に、結局そうせざるを得なかったかもしれないけど、そのときは東京にいて、わりと東京の司教さんは、そういう情報収集もすごかったし、いち早く公開ミサ禁止ということで、ミサがなくなったんですよね。それは海外の状況とか、いろいろな宗教施設でクラスターがあったとか、いろいろあってそれから公開ミサができなくなったんですけど、もちろん、やっぱり科学的な根拠があるから、人との接触禁止とか、でもその中で、一人ひとりが、あるいは教会として、そういう疫病に対して、ともし火をともす心がけがどれだけあったのか、どれだけなかったのかということですよね。

初代教会の姿に見る「希望」

そこを真摯に振り返った上で、私達は次の危機に備えなきゃならないんじゃないかという。過去のことで言ったら、ある意味、人類は疫病との戦いであったことは間違いない。時代時代によってその大きな苦しみを、実際は体験してるわけなんですよね。ぺストとか、ハンセン病とかですね、いろいろいろんなことで、ある意味キリスト教だけをとってもキリスト教と病気の関係って実は様々様々あったのです。、コロナの間に時間もありますから、いろいろ本を読んでたんですけど、ロドニー・スタークという歴史学者が書いた、『キリスト教とローマ帝国』というんですけど、このパンデミックの前に書かれた、コロナの影響もない時代に書かれたものなんですね。初代教会のローマ帝国の中でどうキリスト教が広まったのかということを客観的な資料から、分析してる本なんです。

この本を読んでちょっとびっくりしましたけど、その当時はですね、いわゆる、天然痘とかはしかとか。天然痘とはしかで、ローマ帝国の初代教会の時代ですけど、人口が1/4か1/3死んでいるんですよ。

もう、どんどんどんどんやられて死んでいって。だからローマ帝国が衰退する一番の理由は、疫病の流行だったんですね。政治の腐敗とか、何とかかんとかというより。だから人類は何回もこれは経験してるんですけど、ローマ帝国の中で疫病が流行ったときに、初代教会はどうだったかって言ったら、実は疫病をきっかけに、キリスト教は信者を伸ばした。増やしたんですよ。

驚くべきことに、初代教会はむしろそうやってもどんどん人が死んでいく中にありながら、信者数が増えたんです。それはなぜかって言ったら、それがね、びっくりしますけど、クリスチャンは逃げなかったんです。今ほど科学的知識がないから、ローマのキリスト教以外のお医者さんとか、処置しようがないから、お金持ちたちはみんな逃げるわけですよね。結局、隔離政策しかないわけないじゃないですか。だからみんな逃げた。今と同じです。実際、隔離するってのは人に会わないようにすることしかないから、逃げられる人は皆逃げたのです。

ところが、クリスチャンは逃げなかったんですよ。それで、病気で倒れてる人たちの世話をした。だからこの25章の最後の最も小さいものにするのは私自身にしたことだ、とか、何とかとかいろいろ書いてありますけど、危機的な状況の中であれを本当の意味でやった。もちろん罹って亡くなる人もいるんですけど、亡くならない人もいる。そういう人たちは、結局免疫ができるから、見捨てられた人たちを助けて、ちょっとした栄養とか与えれば立ち直る人もいた。だから、クリスチャンのネットワークにいた人の死亡率は非常に低かったんです。

逃げた方の人たちの方が死亡率が高かった。だから、疫病が入るたびにクリスチャンの人口が何をしなくても増えたんです。もうびっくりですよね。だからねやっぱり初代教会のクリスチャンたちの心意気っていうか、この性根の置き方っていうのかな、全然違うと思うんですね。

今の私達は普通の人と同じで、もうテレビでもコロナがあれだから、みんなの隔離して、ミサやめて何とかっていうもちろんそれが合理的ではあるけど。でもクリスチャンの態度は昔は全然違うんです。なんでできたのかって言ったらですねたとえば、カルタゴの司教のキプリアヌスが言ってるんですけど、その「大きな困難なときに多神教や、古代ギリシャの哲学では、疫病を説明しきれず、癒すこともできなかった。逆にキリスト教は、人がそのような苦しい時代になぜ遭遇したか満足のいく答えと、希望にあふれ、情熱的とされる未来像を与えた」と言うんですよ。そんな中で希望のメッセージを発せられた。その頃の教会のリーダーたちは、ということなんですよね。

それで2番目はなぜかって言ったらですね、社会奉仕と連帯、災難が襲ったときでも、キリスト教徒はうまく対処できた、そのことが実質的に高い生存率になったと。助け合いのネットワークを組んでたんですよ。初代教会の信者たちは。困ったり食料がなかったら融通きかせてたから、だから生存率が高かったし、プラスそれで信者たちが増えたんですよね。

つまり信者たちの助け合ってるのを見て、そこに入りたいと思った人たちがいっぱいいて、だから病気と危機のときに、クリスチャンがガーッと増えるんですね。その頃は、殉教の時代ですよ。信仰で人を殺されてる時代だから、病気で死ぬってことがそんなに苦痛じゃないんですよね。

もう現代はもうちょっと病気になっただけでも大変だったらもう顔が暗くなって、なんていうんですかこの世の命に執着するわけじゃないかもしれないけど、でもちょっとした病気でみんな顔が青くなって、どうしよう、どうしようという…。もう、全然違うんですよ。

その時代の人々は、永遠の命に向かって希望を持って歩んでるから、殉教で死のうが病気で死のうが、そんな振り回されてない。だから希望があって、お互い励まし合いながら生きることができる。そういう信仰があったってことなんですよね。

そういうことを私達はやっぱり、思い起こさなきゃならないと思いますね。自分の命のことにちょっとこだわりすぎて、過敏すぎるっていうかな、この世の命もちろん大事ですけれども、一番大事なのは永遠の命ですから。そこに向かって、私達の「希望」に向かって歩んでて、その中で私達は病気を受け止め、死を受け止め、困難を受け止め、その中でどうやって助け合って、励まし合っていけるのか。希望を失うことがなかったということですね。

私達も、どれだけ希望を持って行っていくか、いろいろないろんな困難があって、一人ひとりいろんな、年取って体が動かないとか、家族とか病気とか、仕事がうまくいかないと、もちろんいろいろありますけど、でもそんなときにあったってクリスチャンは希望を持って生きていける、それだけの力がエネルギーがあるということなんです。

それを思い起こして、今私達に降りかかってくる危機というか、困難を受け止めていくことができればいいんじゃないか。なかなかそう言っても私達は強くなくて、弱い人間でもありますから、難しいところもありますが、私達は日ごろの油をどう貯めていくかっていうところから考えなきゃならないんですよね。

「忍耐」「練達」「希望」

基本の心の置き所、肝心なときにともし火をともせるかってこともありますけど、日ごろどういうふうにして油を整えて生きていくのかということを、しっかり自分の中で受け止めていく必要性があるわけですけど、そのためにちょっと下のまた有名なローマの教会への手紙の第5章の有名なところを朗読します。

このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、

このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。

そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、

忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。

希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。    

(ローマの信徒への手紙5:1-5)

私達が何を誇るのかって言うんですけど一つは、神の栄光に預かる「希望」ですよね。永遠の命に至る希望、それを私達は誇りとしている。だから「希望」そのものが私達にとっても一つのクリスチャンとして生きていくための大きな宝であるしそれを誇ることができる。

その次がやっぱすごいんですよね。苦難を誇りとするって、この辺りからはやっぱりすごいな苦しいことが自分たちの勲章であって、それを人々に誇れることができるものだっていうですけど、それは普通は無理ですねもう苦しいだけでもなんかもうガックリきて夜も眠れないとか、ご飯食べれないとか何とかいろいろなっちゃいがちですけれど。

「忍耐」

これ有名なところですよね。5章の3節の終わりから、「苦難は忍耐を忍耐は練達、練達は希望」というプロセスが必要なんですよね。どうやって私達は苦難を希望に変えていけるのかっていうそれを皆さん一人ひとりも自分のことを振り返って、今まで自分が経験した、小さな大きな苦しみの中で、希望にも繋げていったことがあったのか一人ひとりちょっと振り返ってみる。そして、今与えられている困難やチャレンジこれから来るような苦難の中で希望を持って歩めるかどうかということを、自分の体験から見つめ直してみる、そういう時間を取ってもらったらいいと思うんですが、「苦難は忍耐を生む」、というんですね。もうこれは仕方がないですよね。ちょっとここの箇所で、いろいろなところで分かちあったりしたら、ある人は「忍耐はありません」ってですね。苦難から逃げるばっかりで、なるべくもう苦しい事から逃げて、置いといて。でも寝れないこともあるし、やっぱりどうするかっていうとやっぱり、受け止めて忍耐。とりあえずはもうそこにとどまって、忍耐強くその体験も、受け止めながら、我慢してるっていうか、どっちかって言うと日本人は我慢強い人多いから、忍耐が得意な方だと思います。全然ダメな人もいますけれども。その人も、少なくともちょっととにかく「もう、逃げないように頑張ります」とかって言ってましたけど、そこで初めて何か生まれる。でも「忍耐」から何が生まれるかって言ったら、「練達」というんですね。

「練達」とは

この「練達」から「希望」が生まれるので、この「練達」が何かっていうことなんですよね。これが何か、キーワードですけど、最もよくわからないキーワードの一つで、「練達」って言われた日本人の皆さんわかんないでしょ、「練達」っていうとピンとこない。「忍耐」はまだ何か言葉イメージできるかどうかと思いますけど、「練達」っていうのは、元々の意味が何かって言ったら、この漢字通りなんですね。

練習して達人になるという話で、練習を繰り返して繰り返して、その事に熟達する、だんだんと達人になるっていうのは「練達」なんです。だからそれはね、それはもう一流のピアニストでも、もうどれだけたくさん練習するか、あるいは一流のサッカー選手は死ぬほど練習して「練達」に達するんですよ。

だから繰り返し繰り返してやらないと絶対上手くならないですから何でも、芸事とか、スポーツでも何でも。「練達」ってのはもう元々はそういう熟達している。でも忍耐から、私達は何に熟達していくのかっていうあるいはどのようにそれを練達していくのかっていうことは、これ考えなきゃならないポイントだと思う。

これがでも、説明もそうだけど、訳すらね、ちょっと英語の聖書とか開いたら、訳がね、これめちゃめちゃめちゃめちゃある。たとえばある聖書はエクスペリエンスって訳しています。experience経験ということですね。

このエクスペリエンス、経験から何で「希望」があるのか?あとはキャラクター。とか。で、ある聖書は、神様の承認というか、神様に何か賛同みたいなキャラクター。そのキャラクターって何かっていうと、日本語に直すと多分、練られた品性って書いてある。何か人格みたいな。なんかどれも意味不明ではあるんですが、英語で読むとかえってちょっと言葉が多すぎて訳がバラバラで、いろいろこれはどういう意味なのかと、自分なりに考えたことを言うと、一つは練られた品性ということで、やっぱり人間って弱いところがあるけど、忍耐してやっていくうちに、だんだんと、清められる。自分の囚われとか何かが清められて、だからだんだんと人間が成長していくっていう、そういう意味でももちろん捉えられると思いますね。だからある人は、「やっぱり苦難に忍耐していると、自分は霊的成長ある。やっぱり成長できる、人格的に」と言っていました。だからその「人格的な成長」ということをこのキャラクターとかエクスペリエンスで言ってるような気もします。

やっぱり逃げないでそのことをちゃんとやってるうちに、やっぱこの怠け心とか、何かいろんなものをちょっと捨てて、自分が向上していける、そこから「希望」が生まれるということがあるんですが、でもパウロ的に考えたら、この「練達」をパウロがどう考えていたかってことなんですよね。

パウロの「練達」

それはちょっとね、ちょっとこのプリントをできなかったところなんですが、たとえばこのコリント人への第2の手紙は、彼が一番苦しんで書いた手紙が、コリント人への第2の手紙なんです。

もうびっくりするぐらいコリントの教会に問題いっぱいあって彼もいろいろ苦しめられて、それで書いてるので、なまの苦しみが一番出ているのが、このコリント人への第2の手紙ですよね。そこで、どのように彼は「練達」を考えてるかっていうことなんですが、一番最初の一章のところなんですけど、

コリント人への第2の手紙1章8節から、もう最初から何か苦しみの話なんですが、

兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。

わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。

神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。

  (コリントの信徒への手紙第二1:8-10)

ものすごく大きな苦難が迫ってきて、生きる望みさえ失ってしまった。つまり希望が全くなくなった、生きる望みさえ失ったんですよね、どういう問題かはここでは書いてない。それでパウロはどうしたかって言ったらですね、「自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」。

だから、パウロの「練達」は何かって言ったら、自分に頼ることをやめて、神を頼ることにする。それがパウロによるパウロの「練達」なんですよ。元々パウロは自分に自信があって、なんでもかんでもガンガンと自分の力でやっていける、そういうタイプの方なんですよ。ペトロのように弱くない。ペトロはも最初からくねくねとしたタイプですけど。パウロはガンガンと周りがどんなんでもやり抜く意志が強いタイプだけど、でもそれじゃやっぱり、進まないわけですよね。だから、自分を頼りにするのではなく、神を頼りにするようになった。自分の無力さとか、至らなさを認めて、神の力に頼るようになって、それで神はこの困難を、この死の危険から救ってくださった。だから、私達は神に希望をかけていますって書いてあるんです。

そこで「「希望」」が出てくるわけですよね。だから私達の「練達」は、一つはやっぱり困難の中で自分のこの何か力とか、自分の過信することをやめて、神様に頼りきって何かをしようとするときに、神の力が働いてくる。だから「希望」が生まれてくると、もうね、それはもう本当すごいなと思うしそれこそ信仰の「練達」ですよね。自分も単に磨くだけじゃなしに、むしろ自分の力じゃなくて、神様の力が自分の人生っていうか、自分の生活の中にガーンと現れてきて、神様の力がどんどん働くようになってくる。自分の生活の中で。だから「希望」が生まれてくるし、喜びの力も励ましも出てくるわけですよ。

この「練達」を私達が持つことができるかどうかっていうのは、ある解説者は「練達とは、幼子のように神により頼むこと」と言っています。むしろ、幼子のようになるのが「練達」だったんです。「えーっ?」とか、思いますけど、でもパウロの体験から言ったら、ずっとそうで、これは2コリントに何回も出てくるんですよ。このようなことが。自分に頼らないようになると神様に頼るようになるってこと、心の変化をですね、書いてあるんです。

それは日本に来たフランシスコ・ザビエルもそうなんですよね。フランシスコ・ザビエルなんか、もう、背が高くて、かっこよくて、なんか、スポーツマンでみたいな感じで、実際のそうなんですけど、日本に来たときの彼の手紙には、言葉もできない、何もかも違う中で、彼は書いている。

ここに来て、初めて謙遜さを学んだとか、何にもできないから、通訳一つ、食べ物も何でもかんでも、全く何もできない。そこで本当に神に頼ることを自分は覚えましたと手紙書いてあるんですけれども、だからヨーロッパでぬくぬくと暮らしてたら、全くわかりませんでしたみたいなことを書いてあるんですけど、ものすごい「練達」ですよね本当にね、もちろんね、大きな器の人には大きな苦しみがくるでしょうし、私達一人一人ひとりの器に従った苦しみとか、困難が来ると思うんですが、でもそのときに神様に本当に頼り切る信仰を持てるかどうかやっぱりそれを本当に持てて、そこから神の力が働いてくるときに、私達はやっぱり「希望」を持つと、喜びと「希望」が生まれてくる。

欺くことのない「希望」

その「希望」は、有名な言葉ですが、その「希望」は私達を欺くことがないと。私達は普通「希望」って言ったらなんか希望的観測ってのか、何か実現するかどうかわからないけど、とりあえず何か、という。そういう「希望」は欺くとか実現しないけど、苦難を通して、本当に神の力を実感した者にとって、「希望」は一番確かなものだと思いますよね。

この本当の恵を私達一人ひとりが味わえることができたら自分のためにもいいですし、周りの人のためにもなる。なぜかって言ったらですね、5章、「希望は私達は欺くことがありません。私達に与えられた聖霊によって、神の愛が私達の心に注がれているからです」とあります。

神の愛が注がれてるから、苦難が「希望」に変わる。人間の力で変えなくて神の愛によって、苦しいことが「希望」に変えられてくる、あるいは苦しいことを乗り越えていく解決方法とか、乗り越える力とか、そういうことがこんな与えられてくるということですよね。

このことをやはり私達は自分自身が少しずつ実践できるようになったらいいと思うんですが。プラスですね、本当面白いですけど、ある解説者は「練達」のことを「同じ苦しみを持った人たちと、思いをともにして、互いに支え合うことができる」これが「練達」だと言っています。

いや、これもすごいなと思いますね。同じ苦しみを持った人たちだから気持ちがわかるから、同じ苦しみを持った者たちが集まって、互いに励まし合って、お互いに支え合っていく。だからここで生まれる「希望」は自分の「希望」だけじゃないんですよ。周りの人と分かち合える「希望」。これは素晴らしいですよね。お互い確かに苦しい中にいるからこそお互い助け合っていくことそのものが伝達だっていうのが自分だけだったら倒れちゃうけど、あれ周りの人もそうだけど、お互い励まし合ったり助け合ったりする。

仲間とともに困難を乗り越えていくから、「練達」が生まれ、「希望」が生まれるということですね。「希望」、この「練達」を私達が大切にすることができたら、これが本当の油とも言えるし、あるいはともし火とも言えるようなことだと思いますよね。

だから本当の「希望」は困難の中で、やっぱりつかみ取る「希望」が本当の「希望」だと思うんですよね。うまくいってるときにこの調子で平和だなと思ってるときの「希望」っていうのは、ちょっと調子悪くなったら全部駄目みたいな感じになっちゃって頼りにならないですね。欺く「希望」ですけど、でもこんなの中から勝ち取った「希望」は欺くことがない。もうそれこそ本当の「希望」ですよね。その「希望」を持って私達が歩んでいけるかどうかということを本当のところ大切にして行けたらいいんじゃないかなというふうに思います。

最後の1枚です。テサロニケの教会への手紙の4章のところに、世の終わりの話が書いてあるんですね。これは、もっと何かリアルどういうふうにイエス様が天から下って来て、生きてる人たちが挙げられてどうのこうのだと詳しく書いてあるところで、カトリックではあまり読まないので、ちょっとあれしますが、

主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。

すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、

それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。(テサロニケの信徒への手紙一4:15-17)

と書いてあるんですね。パウロはですね、「主は来られる日まで生き残る私達が」って書いたんですけど、生き残ってないからちょっと違ってるんですけど、とにかく死んだ人が復活して生きてる人が空中にみんな引き上げられるっていう、それで、天国に行くっていうんですけど引き上げられるというのは専門用語で、「携挙」といいます。終末はカトリックではあまりやりませんが。英語でraptureというんですが、それが最後に何か、つまり助けられるという話なんですが、それでこの5章の話が出てくるんですよね。

兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。

盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。

人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。

しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。

あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。

従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。

眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。

しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。

(テサロニケの信徒への手紙一5:1-8)

というわけですね。主の日って書いてあるんですけど、主の日って何かって言ったら世の終わりのイエス様が来られる日でもあるし裁きの日でもあるし恐ろしい日でもあるんですが、それは突然来るって言うんですよね。前触れもなく。その通りだと思います。やっぱり災害は前触れもなく来るから当然これはね、もうね、この予測できないっていうか、もうそれは来るからもう仕方がない。それは、無事で安全だと言ってるときにそれは突然やってくる。けれども、クリスチャンたちはそれを恐れなくていい。

今年だってどうなるかわからないですけど。

少なくとも私達一人ひとりの困難は突然来ますよ。一人ひとりもそうですし、病気になるとかだと、突然ですからね。地震も突然、だからこそ突然先も避けられないんです。

だけども、私達は心配しなくていい。「兄弟たちあなた方は暗闇の中にいるのではありません。ですから主の日が盗人のように突然あなたを襲うことはない」。私達は振り回されないで生きていける。なぜなら私達は光の昼の子だからです。

だから私はしっかり昼とか光とか神様の方ですからね。変わらない神様に私達の心を置いていけるならば、どんなことだってあっても、振り回されないで大丈夫ですよって言ってるわけです。そのためにどうするかって言ったら、8節「しかし私達は昼に属していますから、信仰と愛を胸あてとしてつけ、救いの希望を兜としてかぶる」。「希望」頭に乗っけるんですよね兜だから。パウロはこういう武具にたとえていうのが好きで、兜だから、「希望」を頭に置くんですよね。

やっぱり未来に向かって何か良いものに向かってる自分たちに今何があっても、「希望」をちゃんと頭の上に乗っけて、胸当てが信仰と愛ですから、だから実際行ってるのは信仰、信じることと愛することを実践していく心がけで、でも頭には「希望」なんですよ。

「希望」で行く方向とか、それをしっかり定めた上で、どう愛を実践するか、信じることを実践していくかっていうこと、それを心がけると昼の子供、私達は連れて行かないってことですから、「信仰」「希望」「愛」をしっかり持ちながら生きていくならば、私達は困難にも振り回されないで、生きていくことができるということですね。

特にこのローマの5章の「練達」の事とか、ともし火をともすとか、ちょっと自分なりに具体的に考えてみて、過去のことを。過去できてなかったって構わない、できてなかったってことも一つのエクスペリエンスというか、体験ですから。私達はこれから、今をどういう気持ちでこれからどのような心がけで、「希望」を持っているのかということを改めて自分なりに問いかける四旬節とすると良いでしょう。

本文のダウンロードはこちらから>>

記事URLをコピーしました