ヨハネ福音書20章19-31節「問い続ける人生」
ヨハネ福音書20章19-31節「問い続ける人生」2024年4月7日復活第2主日六甲カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ
- イギリスの詩人キーツは「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉を残しています
- 失望せず、「曖昧なままの(ネガティブな)状況にあり続ける」という意味の言葉です
- 私たちは正解を求め、問題には解決を求めますが、それとは違うあり方です
- パパ様が来日した時、若者たちに「人生で大事なのは正解ではなく、問い続けることだ」とおっしゃいました
- 「見ないで信じること」は妄信的に信じることではなく、「問い続けること」ではないでしょうか
キーツは才能がありながら不遇で、極貧のうちに亡くなった詩人にゃ。「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉は妹宛の手紙にあった言葉だそうだよ。
ヨハネ福音書20章19-31節「問い続ける人生」
ヨハネ福音書20章19-31節
19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
「幸いである」ことはチャレンジ
週の初めの日日曜日の夕方にイエスは、弟子たちの前に、この復活した自分自身の体とともに、イエス様は弟子たちに現れて、そしてこの復活したということをはっきりとお示しになりました。
ただそのときは、トマスはそこにいなかったので、トマスはそのことを信じることができず、手の釘跡を見て脇腹の傷に手を入れなければ信じない、現実にイエス様を見なければ信じないと言ったわけです。
考えたら確かに、やはり本当に目撃しないと、それはなかなか信じられないものであると思います。でもトマスにイエス様がはっきり現れ、そして自分のこの釘の跡に指を入れなさいと言われたので、イエス様はですね、そう言われたので、トマスは私の主私の神よ、と言って降参した形になったんですけど、でもそのときにイエス様がこうおっしゃるんですよね。「見ないのに信じる人は幸いである」と。
確かに考えてみれば、ここにいる私達も全員そうですけれども、イエス様の復活を肉眼で見た人はもう既にいないわけです。初代教会の最初の人々は、実際に復活したイエス様を見たわけですけど、私達はその復活したイエス様も見ていないわけですね。
だから結局私達に問われてるのは何かといったら、復活した主を見ていなくても、イエスを信じることができるかどうか、ということが問われてると思います。この聖書で「幸いである」と書いてあるところは、大体、「幸い」ですけど、チャレンジでもあることが多い。
他の箇所でもそうだけど「幸いである」って書いてあるところは大体チャレンジですね。「心の貧しい人は幸いである」と書いてあるところも全部そうなんですが、「幸い」であるってことは実は私達に対するチャレンジとして書かれてるということでもある。私達がどうやって見ないのに、信じることができるのかという、そういう問いかけをイエスがしているというふうに言えるでしょう。
ネガティブ・ケイパビリティ
ちょっと最近目にしたことなんですけど、イギリスの詩人でジョン・キーツっていう人なんですが、そのキーツが「ネガティブ・ケイパビリティ」ということを言っているんです。ネガティブってのは否定的という意味で、だから日本語に訳すと「否定的能力」っていうことで、ちょっと不思議な日本語になるんですが、実際どういう意味かというと、やっぱり、この世の中には私達が答えが出せない、よくわからないモヤモヤしたり、すぐ解決できないことを、つまり否定的なことがいっぱい私達の人生にはあるわけで、その否定的なことを受け止める能力が私達にあるかどうかということが大事だというんですよね。
このキーツの言葉を日本に紹介したのは精神科のお医者さんなんです。精神科のお医者さんはまさしくそういう経験するわけですけど、うつ病にしても、統合失調症にしてもですね、引きこもりにしても、なかなか治らないのが普通で、これをやったら必ず治りますというふうに、実はほとんどはいかないんですよね。もちろん治る病気もいっぱいありますが、なかなか治らないことの方がやっぱり多い。そうすると、お医者さん自身が、このネガティブケイパビリティを持って患者さんと接することができるかということが、結局もっと大事だっていうんですね。
それはやはりここで言っている、「見ないで信じる」ということに深く繋がってるんじゃないかと思います。現代は何でもネットで引いてすぐ答え出す、あるいはもちろん問題があったらそれを分析して、お医者さんでも、どういう病気でどういう薬を飲んだらいいかといろいろ考えてやった方がもちろんいいわけです。それはもう、「ポジティブケイパビリティ」っていうか、何でも乗り越えていきましょうということなんです。ChatGPTもそうですけど、打ち込んだらちゃんと答えとしてすぐ出してくれる。私達はやっぱりすぐに解決方法とか結果とか目に見える成果を求めますけど、でもそうならないことが、どっちかというと人生には多いんじゃないか。だから私達には、そのポジティブよりも、「ネガティブケイパビリティ」を持って生きていけるかどうか、それはやはり大事なことだと言うんですよね。
問い続ける人生こそ
それは本当にその通りかなと思います。聖書の言葉も、私達にはすぐに、結果とか解決方法とか見えないことが多い。ですが、その中でも信じ続けていくことができるかどうか。そこで、単にがっかりしたり絶望したりせずに、そういう答えが見えない中でも、私達は信じ続けて、未来に希望を持って歩んでいくことが、できるかどうか。それが私達に一番問われていることでしょう。だから「見ないで信じる」っていうのは、盲目的に何も見ないというよりは、見えない中でも手探りで「どうかな?」と思いながら、復活した主を信じて、絶望的にならず、このわからなさを抱えながら、信じて歩んでいく、そこに私達の信仰生活の一番大事なことがあるのではないかと思います。
教皇フランシスコが日本に来たときに、若者の集いのときにですね、面白いこと言ってて、人生で一番大事なのは、正しい答えを出すことじゃないって言うんですよね。特に学校では、勉強では大体正しい答えがあるから、正しい答えを出さないと丸にならないわけですよね。どっちかっていうと正しい答えを出す練習してるとも言えますけれども、でも教皇フランシスコが言うには、一番大事なのは、「正しい答えを出すこと」じゃないんですよね。彼が言うには、「正しく問いかけること」がもっと大事だと。
「問うていく人生」って言うんですかね、正しく問いかけていく中でこそ、私達は本当に大事な大切なものに出会えるということなんです。つい私達は安易なな答えとか、解決方法とか、目に見える結果を求めがちですし、もちろんそれは結果が出た方がいいのですが、でも私達が見えない中でも、やはり主を信じて、主の復活を信じて歩んでいく、その中にこそ私達の本当の強さと、本当の愛、まさしく本当の幸せが与えられるのではないかと思いますね。
だから私達は本当にこのイエス様の言葉に信頼して、もちろんトマスのようにはっきりと現れてくださることももちろんあると思いますが、私達がどんな中にあっても、すぐ解決できなくてもですね、病気だって普通すぐなかなか治らないですよね。何かうまくいかないことっても、すぐコロッと変わることはあんまりないですが、その中でもやはり主の復活を信じていく中で、いつの間にか病気やうまくいかないことも受け止められるようになって、いつの間にかそれを乗り越えて、新たな力が与えられるということが多いと思います。私達に、信じていける恵みが与えられるように、私達が信じる道を一歩一歩、今日も神様に恵みと力を願いましょう。
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