説教ライブ

マルコ福音書6章1-6節「遠い眼差し」

hanafusafukuin

マルコ福音書6章1-6節「遠い眼差し」2024年7月7日年間第14主日ミサ六甲カトリック教会

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

  • イエスさまが故郷の人々に受け入れられなかったのは、富士山の麓では富士山がよく見えないことに似ています
  • ドミニコ会の押田神父様は、信仰で大事なのは「遠い眼差しでみる」ことだとおっしゃっていました
  • 遠目に見るからこそ、神様の恵みがわかり、神様も働く余地が出てくるでしょう

押田成人神父さんは信州・八ヶ岳山麓に「高森草庵」を結び、農耕生活を営むかたわら、祈りと思索の日々を送った人だよ。

福音書朗読 マルコ6章1-6節

1〔そのとき、〕イエスは故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。
2安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。
3この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。
4イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。
5そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。
6そして、人々の不信仰に驚かれた。
それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。

遠い眼差し

今日の福音書はイエス様が故郷ナザレに帰ったときのお話ですけれども、今日のお話は非常に考えさせられるお話の一つです。生まれ故郷に帰って、そこでイエス様は、あまり受け入れられなかった。そして故郷の人々のこの不信仰ですね、不信仰に驚いたというふうに書いてあって、なんでこんなことになったのかっていうことですね。

私は預言者でなくてよかったと思いますけど、私の故郷はここですから。私が預言者だったら、もう、皆さんから全く受け入れられないっていう話になって、私の親戚も神戸のこの辺り住んでますからね。みんなから受け入れられなかったら、大変なショックっていうか。預言者でなくてよかったなって、故郷に帰って、強く思いますけれども。

イエスの本質がわからなかった故郷の人たち

でも、故郷の人がですね、なんでイエス様を受け入れなかったのかっていうのは逆に非常に不思議な気がします。イエス様の子供時代のこともよくわかっていて、そのイエス様の家族や親戚の事も全部知ってる。昔ですから親族だってその辺りにみんな住んでたわけで。でもイエス様は子供のときから、かなり優れてたんじゃないかと思うんですけどね。神童のようなものだったら、やっぱり、大人になってですね、イエス様を見て「やっぱりな」って思うんじゃないかと思うのですけど、ところが、なんか逆に全然そうじゃなくて、イエス様の子供時代って、どんなに目立たなかったのか、っていうのはなんかちょっと不思議だし、いろいろ不思議なことがいっぱいあるんですが、よくよく考えてみたらですね、案外、近くの人っていうのは、案外その人のことがよくわからないっていうことはあるかもしれないですね。

富士山は遠くから眺める

日本で一番綺麗な山は富士山だと思うんですけど、先日の富士山の麓で黙想してて、ちょっと雨ばっかりであんまり見れなかったんですが、でも、富士山をどこから見るのが一番いいのか、ということを考えたときに、例えば富士山の麓に行ってですね、あるいは何合目かに・・・僕も何回か行ったことがあるんですが・・・あまり近かったら富士山の姿が見えない。実際ですね、近くに行けば行くほど、ただ、木が生えてたり、上の方に行けば行くほど、ただの、いわゆる岩だけっていうんですかね。富士山がどれほどでっかいのかどうか、富士山がどれほど綺麗なのか、実際登ってるときは実は全然わからないんですよね。富士山から眺めがいいとかいうことはありますけど、富士山がどういうものなのか、実はわからない。富士山が素晴らしさとか綺麗さというのは、遠くに行った方が実はよくわかるっていうことがあってですね。

イエス様って言ったら実際富士山のように、でっかい規格外にデカすぎて、だから近くの人がかえって、そのイエス様のすごさとか、本当の良さとか、わからなかったんじゃないかなと思いますね。だから逆にイエス様ぐらいでかい人は、ちょっと離れないと、その良さというかすごさがわからないということは十分あり得るかなと思いますね。

立派な人、世の中には偉大な人はいっぱいいますけど、普通の偉大な人っていうのは、生きてる間すごく有名だったり、お弟子さんがいっぱいいたり。でも亡くなったら、その人の影響力は急速になくなるというかですね。それが大体普通なんですけど、本当に立派ですごい人は、実は亡くなってからの影響が大きいんですよね。生きてるときよりも亡くなってからの方が影響が大きい人ほど、実は偉大な人なんですね。だから歴史に名を残してる人ってのは大体そうで、生きてるときよりも亡くなった後の方がすごいんですよ。だから聖人と呼ばれる人々も生きてるときより亡くなってからの方が、影響力が多いから聖人とか福者になってるわけなんですよね。

距離があるからこそ信じられる私たち

それは距離感があった方が、もっとその人の良さとか凄さがわかるという、そういう何かパラドックスみたいなものがあって、近くの方がよくわかるかと思ったら、もし私がイエス様と同じ時代に生きててイエス様を姿とかことばを、実際に聞いたら、なんか逆にちょっと恐ろしくて・・・ちょっと僕はビビリなところがあるから、なんかもう近寄らない。だからあんまり親しげに話すとかちょっと、なんかもう全然なくてですね、すごい人がいるなってことで、全然触れなかったんじゃないかという気がするんですが、かえって2000年前だからこそ、あるいは復活したイエス様だからこそ、何かもっと親しくなれる。そういうところがあるのかもしれない。

イエス様はこの器の大きさとかデカさとか、やっぱりイエス様を私達は神様として信じてるわけですが、それは当時の人にとってはそれは不可能だったと思いますね。イエス様の人間性に振り回されたり、すごいという気持ちもあれば、恐ろしいと気持ちもあったり、この人何なのか、みたいな。だからよくわからなかった。弟子もあんまりよくわかってなかったかも知れない。イエス様が復活して初めて弟子たちもイエス様が本当にどういう人がわかったわけですよね。だから案外、近いと駄目っていうか、ある程度距離があった方がいいのかもしれないなというのは、思うことですね。

信仰は「遠い眼差し」が大切

ドミニコ会の押田神父さんという人が、実際ちょっと彼は預言者みたいな人だったんですけど、彼が言うには信仰で一番大事なことは何かって言ったら遠い眼差しを持つことだっていうふうにおっしゃってたんですね。つまり、近くで物事を見ると、そのことしか見えないからよくわからない。でも信仰というのは遠い眼差しで、物事を見ることができるかどうか、その遠い眼差しを持つっていうところに信仰ということが表れてくると、言うんですよね。

だからやっぱり故郷の人が駄目だったのは、やっぱり何かわかる気がしますね。具体的に言ったらこういうことです。何か私達が問題にぶつかって、誰かとうまくいかないとか、仕事がうまくいかないとか、もうね、近くで物事を見ても全然駄目ですよね。もう信仰もくそもないでしょ。もうこのコイツと喧嘩してどうするかとか、何とかかんとか。例えば、もう信仰もそうなるじゃないですか。もう感情がごちゃごちゃでとか何とかかんとか。

でもそのことをちょっと遠い眼差しで、例えばその出来事を見たときに、やっぱりそこにどう神様が働いてるのかなとか、その人のあり方を「なんでそんな怒ってんのかな?」とか客観的に見たりとか。やっぱりね、私達は人にしても問題にしても、遠い眼差しで見たときの方がいろんなことがわかるし、そこで神の働きとかが見えてくるんですよね。

これも本当不思議ですが、でも日常の中でもすごく嬉しいこととか悲しいことがあって、でもあんまり出来事が近すぎたら、嬉しい事はただ嬉しいだけだし、つらいことはただつらいことだけで、何もごちゃごちゃになってでも例えばその出来事があって1年ぐらいしてやっとあの出来事に神様の恵みがあったなとか、やっぱりね、ちょっと遠い眼差しで見て初めて、そこにある神の恵みが見いだせるんですよね。

だから信仰を持って生きるコツは遠い眼差しで見て、そこから神の計らいを見ていくときに、私達は信仰の歩みができると思いますね。現実の問題は、もう明日解決しなきゃならないとか、やっぱりもちろんね、現実は近く考えないとね、明日支払いがあるからとか何とか、それはすぐ近いことだから、そうですけど、信仰は、今の話で富士山を遠くに見るような感じで、神さまを見たときに、私達の日常生活を整えることができるということですよね。

神の力が働く余地を

不信仰だからこそイエスが奇跡ができないんですよ。不信仰だったから、イエス様奇跡もあんまり行えなかったって書いてあるんですよね。だから、あんまり物事を近くで、あるいはそれに振り回されるようなものと見たら、神様の力が働きにくい。ただ遠目に置いたときに、そこで神様が働く余地が出てきて、そこで神の恵みや導きや、守りというのかな。そんなのわかってくるってことですよね。

幸い、とにかくイエス様は神戸生まれじゃないですから、私達は別に故郷の人じゃないので、私達はちょっと遠い存在でもありますよね。だから私達はイエス様の信仰を持って眺めることができるし、イエス様と本当に信仰の中で関わることができるわけですね。そのような恵みをしっかり受け止めながら、私達はやっぱり心に余裕を持って、ちょっと遠目に物事を見る、その遠い眼差しで、日々の出来事を受け止めていくときにこそ、信仰の歩みがわかってくるし、信仰の歩みができる。そのイエス様との繋がりを大切にしながら、私達が歩んでいけるようにですね、神様に恵みを願いたいと思います。

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