説教ライブ

ヨハネ福音書6章41-51節「起きて食べよ」

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ヨハネ福音書6章41-51節「起きて食べよ」2024年8月11日年間第19主日のミサ六甲カトリック教会

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

  • 第一朗読でエリアは御使からパンと水をいただいて力を取り戻します
  • 「命のパン」であるイエス様をいただくことで私たちも危機を乗り越える力がいただけるでしょう
  • 神父様の若き日のエピソードが聞けます

神様は人を通して働かれるよね

第一朗読 列王記上19章4-8節

〔その日、王妃イゼベルが自分を殺そうとしていることを知ったエリヤは、〕4荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」
5彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ。」
6見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。
7主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言った。
8エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。

福音書朗読 ヨハネ福音書6章41-51節

41〔そのとき、〕ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、
42こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」
43イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。
44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。
45預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。
46父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。 47はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。
48わたしは命のパンである。
49あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。
50しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。
51わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

「起きて食べよ」

先ほども言いましたように、今は平和旬間ということで、日本のカトリック信者が心を合わせて、平和をですね、祈っていると思います。ただ、やはりだんだんとこの平和が厳しくなってきたということは、もう実感していることじゃないかなと思います。ウクライナの戦争も全く終わる兆しもないですし、イスラエルのガザ侵攻もですね、何か終わる兆しもない。どっちかというと、世界が平和に向かってるのではなくて、反対の方向に向かっていて、それを何か止めることができないというような感じが、やはりしているのは事実だと思います。

さらに平和だけじゃなしに、私達の命というんですかね、それも本当に度々危機にさらされているというような、感じがやっぱりしています。この夏の暑さも毎年毎年、ひどくなってきて、だんだんと生きていくのがですね、夏はもう難しくなってきているような、やっぱり地球全体がもう狂いつつあってですね、私達の命が脅かされているような、そのようなことも感じざるを得ないですね。

しかも今はですね、「南海トラフ、大地震、注意」、あれがあってですね、この1週間ぐらい注意しなさいということで、実際何が起こるか、実際地震にしろ津波にしろ、この1週間で起こるかどうかもちろんわからないんですが、私達の命がやはり危機にさらされているということは、やはり感じざるをいないと思う。

命の危機の中で「命のパン」とは

このような命の危機の中で、私達はやはりこのイエス様の命のパンである。イエス様こそが本当の命だ。ということですが、イエスから与えられる命は本当に何であるかということ、それを私達はやはり改めて問わなければならないし、私達がどのようにこの命のパンであるイエス様をいただいて、あるいはそのイエス様とともに歩んでいくのかということを考えなきゃならないだろうというふうに思います。

第1朗読では、列王記のエリアのところ、この預言者エリアっていうのは、なんか、特に強烈な預言者ですけれども、何年前かもう10年以上前ですけど、レバノンに行ったことがあって、国際会議があってそこに出席していて、10日間か2週間ぐらいレバノンにいたんですけどイスラエルのあの北のところですね。

レバノンで、レバノンの信者で一番人気のある預言者が預言者というか、聖人は誰かっていうのは実はエリアね。どこのうちにもエリアの像が飾ってあるっていう。日本でエリアの像そのものが大体ないですけど、エリアの像飾る日本人ってちょっとないと思うんですけど、やっぱりレバノンとかもいつもごちゃごちゃの、戦争とか混乱とかあるせいだと思うんですが、第1人気はエリアですよね。エリアの像がちっちゃい像とか何かが各家には必ず一つあって、いや本当に違うなっていうかびっくりしましたが、ご存知かレバノンの南側はヒズボラですからね。もう今も戦争してるイスラエルでレバノンとイスラエルは平和条約を結んだことがなくて未だにあの戦争状態なんですよね。だからもう本当にごちゃごちゃで、ベイルートが首都ですけど、もう未だにもう昔のその紛争のこの銃弾の跡がもう、ビルにばあっと何とか爆撃の跡なんかまだ残ってるようなですね、だからそういうところだからやっぱりもうなんか、のんびりした聖人に頼れないんですかね。エリアみたいなもうなんかそういうなんかも強烈に何か力強い聖人でないと、もうちょっともたないみたいなところがあるのかもしれないすけど、とにかく一番人気がエリアなんですよね。このエリアと戦ってたのが、王妃イゼベルですよね。

イゼベルっていうのが、旧約聖書で一番の悪女ですね。一番ひどい女性イゼベルがもうどんなに悪いこともいっぱいあったからもうちょっとだけ聖書に書いてありますけど、エリアはそれと闘ってたんで、大したもんだと思いますが、今日の場面のもう一つ前は、結局あのバアルの預言者450人を殺したんですよ。エリアの方が。エリアの方がっていうか、450人とエリアが闘ってエリアの方が勝って、バアルの預言者が負けて全員殺された後、この話になるんですが、エリアが本当に珍しく、弱気になっていてですね、彼は1本のエニシダの木の下に座り、自分の命が耐えるのを願っていったと。

主よもう十分です、私の命を取ってくださいっていうぐらい、もう生きるのが、力がなくなっちゃってですね、激しい戦いをずっとやってて、もうだからもう命を取ってくださいと、もう生きる気持ちがもうありませんということを、エリアが言うぐらい、落ち込んでたんですよね。

でもそこにみ使いが現れて起きて食べよ、と。彼はそれを食べる。もう1回、主のみ使いが起きて食べよと言ってですね、結局、命のエネルギーが全くないところにみ使いが来て、2回も起きて食べよ、と言って、パン菓子と水を飲んで、それで彼は力づけられて、神の山ホレブについてそこからまた彼は新たなミッションというかですね、それを始めていくわけですけど、イエス様が私に私達に与えられている命のパンというのは、実際はこんな感じでしょう。

私達が命の危険とか、生きる気力がなくなったり、力がなくなったりすることが時々あるかもしれない。でもそういうときにこそ起きて食べよ、と言ってですね、私達に力づけを与えてくださる。それこそが命のパンであるイエス様だということですねご聖体そのものだとも言えますし、イエス様自身を、私達は力を組んで、やっぱりまた新たに、生きる力、命を生きていく力、あるいは平和を実現しようとする力が、私達に与えられるということですよね。このイエス様にこそ、私達は希望を置いて、やはり命と、そして平和の道を、私達が歩んでいくように、何か願わなきゃならないというふうに思います。

思いがけない聖体拝領の思い出

この起きて食べよ、ということですけれども、40年ぐらい前は大学生だった頃ですけども、なんかもうどういうことかちょっとあんまもよく覚えてないんすけど何かトラブルが続いて、もうなんか東京にいるのがですね、もう嫌になっちゃってて、なんかあんまりショックで、もう夜中寝られなかったんですね。一睡もできないぐらい何かショックが、ショックなことがあって、白々と何か朝が明けてきてですね、どうしようかなと思ったらもう、もう東京引き払って、神戸に帰ってこようかと思ったんですけど、ちょうど朝なんで、六甲教会と同じように朝の7時のミサがあったんですよね。だから7時のミサに出て、もう東京引き上げようとそのときはちょっとちょっと若かったもあって思いつめてですね、思ってたんですよね。

ミサに出て、ここの教会と同じようにホスチアを自分の食べる分を入れてそれでミサに参加するんですが、そのときたまたま忘れたのか、あるいはそういうシステムだったってことに気づかなかったのか、後ろの方に座っててですね、自分はホスチアを入れ損ねたんですよね。だからもうちょっと忘れたから今日はもう聖体拝領しないで、そのまま帰ろうかなと思ってて一番後ろに座ってて、聖体拝領の時間になってもそのまま座ってたんですよね。

そしたら前に座ってたおばさんがわざわざ私を手招きでいらっしゃいいらっしゃいっていう感じで。もうその自分は入れてなかったから、数が足らないからもう僕は食べるのやめようと思っていたのに、わざわざそのおばさんが誘ってくれて。全然知らない人ですよ。それが誘ってくれて、それで前に行って、ご聖体いただいたんですね。それでそのときに何かものすごく落ち込んでたんですけど、聖体拝領もするつもりもなかったのに、何かおばさんを通して、み使いって、ここでは書いてあるんですけど、何か、何て言うんすかね、もう来て食べなさいみたいな感じで、ご聖体いただいて、その後のことはもう忘れちゃったんですよね。多分東京引き払わなかったと思いますけど。神戸に帰ってなかったと思うんですけど。それで何か気持ちが変わって結局なんか、東京で勉強を続けてたんですけど。

イエス様は見捨てない

でも何かこのご聖体拝領は、何か神様が自分を見捨ててないっていうことをしみじみと感じて、やっぱりこのエリアにですね、起きて食べよ、っていうみ使いみたいな感じで、結局自分は起きてそれをその後ご聖体をいただいてですね、それで慰められて力づけられて、結局もその後どうしたか覚えてないですけど、とにかくそれを乗り切ることができたということが体験としてやっぱありますよね。やっぱりイエス様は命のパンで、私達を見捨てないし、肝心なところで生きる力と勇気を与えてくださる。

そのような恵みをしっかり受け止めながらですね、私達がこの平和と、そしてこの大自然の脅威ですよね。それも何か人間の罪になっちゃったところもあると思うんですが、私達が本当の平和とエコロジーって言うんすかね、自然を大切にする、命を大切にする道を歩んでいけるように神様に改めて祈りを捧げたいと思います。

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