説教ライブ

ヨハネ福音書6章60-69節「それでも」

hanafusafukuin

ヨハネ福音書6章60-69節「それでも」2024年8月24日年間第21主日ミサ六甲カトリック教会

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

  • パンの増加の奇跡の後、イエス様の発言に多くの弟子が離れました
  • そのような状況でも、「それでも」ペテロは信仰宣言をします
  • 困難な状況の中でこそ信仰が問われます
  • 郡山司教様のモットーに力づけられます

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福音朗読 ヨハネ福音書6章60-69節

60〔そのとき、〕弟子たちの多くの者は〔イエスの話〕を聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
61イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。
62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば・・・・・・。
63命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。
65そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。
67そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。
68シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。
69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

それでも

今日の福音書はヨハネの福音書のこの6章の最後のところにあたるんですけれども、今日の聖書を読むと本当に考えさせられるところですね。ヨハネの6章の一番最初はどういう話から始まったかというと、パンの増加の奇跡ですね。5000人の人が満腹するぐらいイエス様がパンを増やして、驚くような力をですね、みんなに示して、それで人々はイエスを王にしようという感じで熱狂的な感じになったんですよね。

その後、イエス様が長いお話をするようになって、私は命のパンである、ということを言ってですね、このパンだけじゃなくて、本当に命の糧になるパンを、自分自身をいただきなさい。私の肉を食べ私の血を飲みなさいということを言うんですけど、言えば言うほど、もうこんな酷い話は聞いてられない。そこにいた人々はですね、なんかもう何言ってるかわからないところがもうちょっとこの人おかしいんじゃないかっていう感じになってきて、それで結局、6章の終わりでは弟子たちの多くが離れ去ってしまったというですね、何かこの悲劇的な結論で終わるところで、なんか本当に気持ちが重くなるところなんですが、実際にですね、イエス様にどこまで私達が従っていくのかっていうことを問われているようにも思えます。

それでも従っていけるかどうか

多くの人たちが離れ去ってしまって、もうイエス様は、12人の弟子たちにもう、あなた方も離れていきたいのかっていうふうにですね、聞いて、それでペトロが、「主よ、私達は誰のところに行きましょうか、あなたは永遠の命の言葉を持っておられる」というふうに言って、信仰告白をして、彼らはイエス様の元にとどまるということを言うわけですね。最近あんまり唱えられなくなりましたが、このペトロのこの言葉の冒頭があの聖体拝領のお祈りになって日本の教会では唱えられていたんですけど、今はスタンダードの方に変わっちゃってますが、今日のミサぐらいは、これをちょっと唱えてもいいかなと思っていますけれども。やはりイエス様に従っていくって言っても途中でいろんなことがあってもそれでも従っていけるかどうかっていうことが、やっぱり問われているように思います。

それも多くのこと、信仰だけじゃなくて、そういうことは多くのことがそうだと思うんです。第2朗読では結婚の話が出てるわけですよね。結婚と神の愛をたたえているところなんですが、結局結婚生活もそうかも知れない。最初はいいんですけどだんだん相手の欠点とか見えないところが見えてきたら、喧嘩したりですね、幻滅したりイライラしたり、でもそういうことになった中で、それでもやっぱり2人の関わりを進めていこうとするかどうか、それは仕事においてもそうだし、何をするにおいても、最初はやっぱりいいわけですけど、だんだんと難しいとか嫌なことがいろいろ出てきた中で、でもそれでもそれを続けるか、それでもそこに自分をコミットしていくかどうかということは、問われることですね。

困難が来た時から始まる

だから先輩の神父さんおっしゃってて、本当の結婚は結婚式から始まるんじゃないと。落胆とか夫婦げんかとか、ごちゃごちゃした何か。それでもやろうってところから本当の結婚生活が始まるんだっていうんですよね。それは神父さんも同じかもしれない。司祭叙階、今日は日本で働いているイエズス会の2人の神学生がアフリカで、ちょうど頃叙階式してるんですけど、もちろん司祭になるってことも叙階を受ければ神父さんになるんですが、でも神父もやっぱ同じですよね、いろんな苦労とか、いろんなチャレンジとか問題にぶつかって、もうそれを乗り越えてそれでもやっぱり神父を続けるかどうかっていう。だから始めるより続ける方が大変なんです。

大体どんなことやっぱりそれでもそれを続けていこうとするか、信仰がまさしくそうですけども、いろんな問題とかね、神様にお祈りして、恵みとか力をいただいて、ってこともあるでしょうけど、でもやっぱり何か大きな試練とか難しさに私達がさらされることがある。でもそれでも私達は信仰を、やはりイエス様とともに歩んでいくかどうか。そういうことがやっぱり時々は、あるいは人生に1回ぐらいはあるかも知れない。その中で、やはり私達は「それでもイエス様に従っていく」と。そのような決意それができるかどうかが、私達は信仰者にとって本当に一番大切なことではないかというふうに思います。

実際、信者になったらもうずっと神の愛を受けてバラ色の人生が送れるってことはまずないわけですよね。洗礼を受けてね、神様にしたがってるんだけどなんか嫌なことがどんどん起こってきたり、なんでこんな真面目にやってるのになんでこんな嫌なことが起こらなきゃならないかと思って思っちゃったりするかもしれないんですけど、でもそこから何か本当の信仰が始まるんじゃないかというふうに思います。

郡山司教様の紋章とモットー

郡山司教紋章

ちょっと遠いからあんまり見えにくいと思うんですけど、こういうカードがカードがあって、後からですね、ちょっと見たい人はミサの後でも見てもらったらいいんですけど。司教さんがですね、叙階したら、紋章というのを作るんですよ。どんな司教さんにも紋章があって、紋章と、これも一つの文章なんですが、その自分のモットーを書くんですね。大体がラテン語で書く人が多い多いんですけど、そういうのがあるんですよ。これは誰のかって言ったらですね、鹿児島のもう引退されたんですけど、鹿児島の司教さんだった郡山司教さんの叙階のときのカードですね。ちょっと知り合いだから、鹿児島まで行ってその叙階式に与かったんですけど、この方はもう引退されましたけど、僕が最も尊敬している司教さんの1人ですね。庶民派で、素晴らしい。人間的で本当に素晴らしい方だって心から尊敬してて、いろんな意味でち尊敬してるんですけども。僕は司教さんの紋章でこれが一番好きなんです。

遠くで全く見えないと思いますが、上に太陽があってですね、輝いてるんですけどでしたが暗闇なんですよ。真っ黒な暗闇なんですね。そここのような説明であるんです。「世界は普遍的な平和からほど遠く、今なお今なお闇に包まれています。それでも力強く羽ばたこうとしているしている2羽の鳩。いずれも喜びと確信をもたらすものです。自分を不条理な死に追いやる人々。それでも十字架から逃げることなく、赦しの祈りを捧げになった。高邁な生きざまこそ主の生きた遺言…」ってあるんですが、モットーは何かって言ったらですね、「それでも喜び、希望、感謝」っていう言葉なんですね。特に彼が強調しているのは「それでも」。私達が暗闇の中で苦しんだり、様々ながっかりして、もうやめようかなとかいろんなことを思う。この暗闇が私達の中には、世界や私達の心の中にいっぱいありますが、「それでも」この鳩の力にですね、従ってこの上の喜びに向かって私達が歩むかどうか、それが私達の一番大切な信仰なんだっていう。「それでも」喜びと希望を持って、今が暗闇に包まれて、全く駄目だと思ってる中でも、「それでも」主を信じて、喜びと希望に向かって、それに目を上げて、私達が歩もうとするかどうか、信仰はやっぱりそういうところにある。信仰の一番大事なのは多分「それでもっていう言葉ですね。いろんな嫌なこととか言われても、「それでも」私達は喜びと希望で歩もうとする、そのようにいくならば、…最終的に未来の人々にも希望を抱くことができます。だから、「最終的には神様、みんなありがとう。」最後が感謝ですから。「それでも、喜び、希望、感謝」というのがこの司教さんのモットーだったんですね。

司教さんがいろいろモットーを必ず持っておられるんですけど、これが一番好きなので、時々は落ち込んだときにこの御絵見てお祈りしたりしてるので。2006年なんで、だいぶ前のものなんですけれども。

イエス様の問いかけに応えたい

イエス様が聞くわけですね、「それでも」私に従うのか、と。みんなが離れちゃったりがっかりして、「それでも」従ってくるのか、「それでも」喜びと希望を持って私と一緒に歩もうとするのかっていう、その呼びかけに、ペトロと一緒に「私達は誰のところに行きましょう」と。「あなたこそ永遠の命の糧です」っていうふうに歩みを進められるかどうか、そのような信仰をやっぱりペトロのとりなしによっても、願いたいと思います。

実際ペテロはこう言ってるんですけど、十字架の時には逃げてますから。だけど十字架から転んでも、それでもやっぱりついてきますと。また新たに立ち直るわけですが、私達の信仰の一番大事なのは「それでも」前に向かう、「それでも」希望に向かっていくかどうか、そこが一番のポイントだと思いますね。私達も弱いので、ついつい嫌になることもあると思いますけれども、でも「それでも」神とともに歩むその力をですね、願って、このミサをともにささげたいと思います。

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