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【ミサ説教】マルコ福音書10章35-45節「すべての人は呼ばれている」

hanafusafukuin

マルコ福音書10章35-45節「すべての人は呼ばれている」2024年10月20日年間第29主日ミサ六甲カトリック教会

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

  • 働き者のアリですが、実際に働いているのは2割、そして全く何もしていないアリも2割いるそうです
  • ですが、これがアリの巣全体の恒常的バランスで、それが偏ることはないそうです
  • つまり、働かないアリにも存在の意味があるわけです
  • 人間社会のバランスも同様で、働ける人もいれば、働けない人もいます
  • 神様から見たらこのバランスに意味があり、それぞれが全員、神様から僕として召されているのです

お金が稼げないとか、役に立たないとか、悲観することはないんだね

福音朗読 マルコ福音書10章35-45節

〔そのとき、〕 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。
「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
イエスは言われた。
「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」
彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。
「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。
そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

すべての人は呼ばれている

イエス様の弟子の2人ヤコブとヨハネがイエス様が栄光を受けて、メシアとして王座に座るときに、1人を右に1人を左に座らせてくださいというですね、いわゆる権力の座というか、それをヤコブとヨハネが願うわけですが、ちょうど今、衆議院選挙の最中で、権力の座に誰が座るか激しい戦いを、今選挙で決めてるからまあいいですけどね。時代によっては戦争で殺し合って権力の座を奪い取る時代もありますし、今ましな方かも知れないです。

私たちは塵芥(ちりあくた)に過ぎない

新しい首相になった石破さんですけども、石破首相ですが彼はプロテスタントですがクリスチャンなんですね。石破さん自身を好きか嫌いかを応援するかしないかそれは全く自由なんですが、彼はクリスチャンとして案外信仰が深いんですよね。テレビで出てくるときはそういう話はしないんですが、教会で彼が語ったり、クリスチャン系の主新聞などのインタビューではですね、信仰というか信仰者としての話をいろいろしていて、あるところで彼はこういうことを言ってて、「人間は塵芥(ちりあくた)すぎない」と。「別に偉い人も偉くない人もみんな塵芥(ちりあくた)にすぎない、しかし神のみ旨ならば、その人が果たすべきことがあるならばそれを果たしていく。そのように呼ばれている」という非常に真っ当なことを言ってですね。だから総理大臣だったってどんな人だって神の前には塵芥(ちりあくた)に過ぎない。私達は。それは今日のイエス様この発言のやっぱり根底にある問題と思いますね。

実際のところこの世のこのような何かをちょっと誇ってみても、実際、儚く消えていくわけだし何かですね、特別なものだと思っても大したことないわけですね。ものすごく頭のいい学者でいろんな発見をしたりしてですね、どんどん書いたりしたとしてもおじいさんになって認知症になってしまったら結局何もなくなってしまいますし、いくらスポーツができて金メダルどれぐらいスポーツができてもですね、年取って寝たきりになってしまったら大して変わらない。それはですね、絶世の美女、若いときは絶世の美女でも大体おばあちゃんになっちゃったら、しわくちゃになって美しさもはかなく消えていきますから。

実際これまで私達が何かこれがあると思ってそれを誇ったとしても実際ほとんど大したことはないっていうことですね。神さまの方から見たら私達はアリンコに過ぎない。

アリの社会のバランス

神は私達がアリみたいな感じでそれ以下ではないかと思いますが、だからあるキリスト教の神秘家が言ってるんですけど、人間が傲慢になるっていうのは、アリが王様の席ついてるようなもんだと。もちろん王様の座る席にあったとしても、それを目指して座ったとしても、アリがその豪華な席に座っているようなもんだから、もうほとんど何にも価値もない。ただ私達は当然塵芥(ちりあくた)に過ぎない、あるいはアリのようなものだとしても、でも、神様はそのアリを、1匹をちゃんと導いて愛していつくしんでおられる。それが何か王座に座ってるから恵みがあるのではなくて、1匹の小さなありにすぎない私達を神様が恵みと力を与えてくださっているということですね。

その恵みを受けて、私達は変な話、アリとして、やっぱり神のみ旨として与えられてることをやっぱり果たしていくことができたら、素晴らしいと思いますね。

アリっていうのは、働き者で有名ですよね。アリとキリギリスですとか何とか。ありますが、ただ、アリの研究家によると、アリはみんな働いてるわけではない。ご存知の方もおられるかもしれないすけど、ものすごく働いてるアリは実際はアリ全体の2割だけだそうです。残りの残りの8割のうち6割はぶらぶら働いてふりしていて、さらに残りの2割は全く何にもしない、動いていないっていうか、じっとしてるだけで、本当にバリバリ働いているのは2割だけだと。だからそのアリの研究者が、働いてないのいらないだろうと、全然動かないそれを殺しちゃって、それでどうなるかと思ったら、その残りの8割のうちやっぱり2割が動かなくなる。残りの8割のうちの2割だけが働く。あるいは逆に働いてる2割を殺して、それでアリは全部全滅するかと思ったら、働き物の働きアリ、2割殺しても、結局残りの8割から働き者の2割出てきて、結局その比率が全く変わらないんですよ。

それぞれに使命がある

私達人間も変わらないかなって感じしますけど、本当に働いているのが2割くらいで、ぶらぶらやってるのが6割ぐらいで、2割は全く何にもやってないっていう、大体日本のバランスにもまた当てはまってるかなという気もしますね。だからバリバリ働いてるから立派だとか、何も働いてないからどうだということも全く言えないということですね。

1人の人生の中で考えてもそうかもしれないですけど、自分の人生考えても本当に忙しくてバリバリやってるのは大体長い人生の2割ぐらいで、6割ぐらいは普通に2割ぐらいは寝たきりだったり、赤ちゃんたり結局自分の一生を考えても、結局そうかも知れない。でもバリバリ働いてる2割もぶらぶら働いている6割も、全く動けない2割にもそれぞれ与えられている使命があって、神様がそのように呼びかけてるからそのようにしていく。

それはどんな働きだって、それが華々しい活動であろうが、もう何もできなくて病気になって一日寝てようが、それは全てやっぱり仕えていく、奉仕としての姿ということですね。みんなに仕えるものになれ、全ての人の僕になれ、という、様々な形で、その仕えるものになるように呼ばれている。

特に思いすが、全く働かない2割、それは休憩してるのかもしれないんですが、でも逆にそのような人ほど、多くの人の身代金として、自分の命を捧げるように呼ばれてる人じゃないかという気もしますね。活動として働く人もいれば、自分の苦しみやつらさをこの生贄として身代金として捧げる、それを中心にして、生きている僕として生きていくように呼ばれる人もあると思います。人々がいろいろな形で主に使われているし、そして私達自分の一生を見ても様々な時期、仕え方や奉仕の仕方は違います。

その最初の石破さんの言葉じゃないですけど、私達は塵芥(ちりあくた)すぎないけれども、やっぱりみ旨ならば、神様がそれをするように言われ、それを私達が果たしていくことこそ、クリスチャンとしての一番大切な使命だということですね、与えられる場で与えられている境遇の中で、私達が謙遜に主に仕えるものとして十分に与えられている使命を果たしていけるように、改めて神様に恵みと力を願いましょう。

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