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【ミサ説教】ルカ福音書17章1-6節「私の中の小さな者」

hanafusafukuin

ルカ福音書17章1-6節「私の中の小さな者」2024年11月11日いやしのミサ 旅路の里

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

  • 小さな者を大切にしなければならない、というイエス様の言葉です
  • 小さな者は、実は自分自身の中にもあります
  • 小さな祈りを捧げて、自分自身の中の貧しさに向き合って、赦と和解を求めたい
  • それがいやしの恵みになるでしょう

福音書の中で「信仰」というのは、「祈り」だそうです。とてもシンプルですね。

ルカ福音書17章1-6節

(そのとき、)イエスは弟子たちに言われた。
「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。
そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。
あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。
一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。
「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」

私の中の小さな者

今日の福音書はルカの17章のところでルカの福音書を通してイエス様がですね、いろんなことを言ってるような話の内容ですけれども、でも私達がいやしや救いを求めていくときに、今日のですねイエス様の語られている言葉は非常に大事だというふうに思います。

小さな者をつまずかせてはならない

まずイエス様が言ってるのはですね、この小さいものをつまずかせたら駄目だと。小さいものの1人をつまずかせるよりも、首にひき臼をかけられて海に投げ込まれてしまう方がましだというふうに言うんですが、首にひき臼っていうのはもう何十キロもある石の塊ですから、それを首にかけてですね、海に投げ込んだら絶対沈んでしまうのは間違いないわけですけど。私は神戸出身で、今減ってきたけど昔はヤクザが多かったんですよね。だからヤクザに逆らったら、コンクリート詰めにされてですね、神戸港に沈められるって言ってたんですけど、本当か嘘かわからないけど。でもやっぱりそれは何かヤクザに逆らう大きなことをやったらですね、それはそのような罰を下すことがあるかもしれないですが、でもここはですね、小さなものを1人つまずかせるっていうですね、何か組員に大きな打撃を与えると親分の顔に泥を塗るとかですね、そういうことじゃなくて、小さな人を1人つまずかせるならば、それぐらいの大きなですね、何か罰があっても仕方がないというぐらい、イエス様は強く言ってるんですよね。

小さな者は私たち自身の中にもいる

ひっくり返して言うならば、私達は小さなものの1人をどれだけ大切にしなきゃならないのかっていうことですよね。小さなものの1人っていうのは大体最初にですね蹴散らされたり無視されたりする存在ですから、その1人をですね、本当にどれだけ大事にできるかということですね。それは私達釜ヶ崎に中でいる中で、小さな人をどれだけ大切にできるか、それは本当に大きな、大切なことだというふうに思います。

さらに癒しの観点から言うならば、やっぱり自分の中にこの病気とか、自分の中に様々な弱さとかですね、そういうものが私達の心の中とか生き方にありますけれども、実際それもですね、本当のところは小さなものの1人じゃないかなと思いますね。

自分の中にあるこの小さな部分っていうんですかね、そういう弱さだったり、自分の貧しさだったり。でもそういう自分の貧しさや小ささを、何て言うんですかね、それを切り捨ててしまうんじゃなくて、それを逆にちゃんと大事にできるかどうかっていうことが実は癒しの恵みを願う中で、実は本当は一番大事なことじゃないかなというふうに思うんですけれどもね。

もちろんがんになったら、それはもう病気、手術で取り取り出して、何とかその部分を切除してしまうようなことをしなきゃならないこともありますが、でも実際その人が例えばがんになる、それは何かその人の生き方の中にその理由とか、生き方の中で何かがあるからそれが病気となって出てきたわけだから、個人的にはですね、そういうものを単に切り捨てるだけじゃなく、むしろそれをちょっと大切にするっていうんですかね、それが、何て言うんすかね、自分にどういうメッセージがあるものとして自分の中にあるのかということですよね。

捨て去るのではなく弱さを受け止める

もちろんがんだったら、もちろん手術で取り出したらそれでいいですけれど、でも自分の性格的な弱さとか、自分の中にある様々な問題点とか。でもそれは何て言うんすかね、捨て去ろうするより、でもそれをしっかり小さなものとして、自分の中の大事なものとしてそれを受け止めたときに、でもそこから何か新たな恵みとか光とかメッセージがやっぱりあるんじゃないかなというふうに思うんですよね。

何でもかんでももう病気だから悪いとか、何かですねこれは性格が悪いからそれをしてるとかですね。そういうふうにすることが本当に癒しに繋がるのかどうなのか。本当は自分のマイナスの部分とか、弱い部分とか、そういうものを受け入れていく中でこそ、何か本当の救いの道が現れるんじゃないかというふうに思うんですね。

だからこの後、何の話かって言ったら、悔い改めの話なんですよね。悔い改めたら許してあげなさいと。許してあげなさいと。それが何回であっても許しなさい、ということですけど何で許しが必要なのか、それは自分の弱さやそういうものに対面したときに、やっぱりそこで悔い改めと、この許しが必要だからだと思いますね。最終的には和解が必要なんですよね。

受け止めて、ゆるす、和解する

本当のところはですね、私達がやはりずれてるところが、その病気そのものが、ずれてるっていう。病気を起こしてる、何かがずれてるんですから。そこをしっかり見つめることができて、そこから悔い改めることができるなら、あるいは自分のそういう弱い部分をしっかり自分の一部として受け止めて、逆にそれを許してそれを受け止めて、それと和解することができたら、私達はやはり新たなところに進んでいくことができるんじゃないかなというふうに思いますね。

だから小さなものを大事にするってことと、この許しと和解ということは、全部繋がってることだというふうに本当のところ思います。

それは実際に、実際弱さを抱えてる人に対面するときにも、全くこの通りですけれども、でも自分自身の中とか、家族の中の弱さに直面したときに、私達はそれを受け入れて、それを大切にして、そこから私達が本当のところどこに悔い改めが必要なのか。どこに本当の許しが必要なのか。ある場合は、本当は自分自身を許さなきゃならない人も多いと思いますね。自分を許さなきゃならないこともあるし、自分の家族を、自分の親とかですね、自分の父親とか母親を許さなきゃならない人も多々いるんじゃないかなと思います。

でもそういう許しを通してこそ、私達は和解ができて、そこから私達は、新たな自分としてスタートができるんじゃないかなと思いますね。もちろんそれは簡単なことではないので、イエスがこう言うわけですよね。あなた方にからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に抜け出して海に根を下ろせと言っても言うことを聞くだろうっていうんですけど、もちろんこれやらない方がいいと思うんですけどね。桑の木が大阪港でふわふわ浮いとったらちょっと船があるの邪魔ですからですね。海に根を下ろせっていうんですけどちょっとそれはなかなか現実的には難しいことですけど。

でも実際のところは私達の性格上の問題とか弱さとかですね。実際、こんなようなことがっていうか、このようなとんでもないことがないと、なかなか変わらないこともいっぱいありますけれどもですね。

小さな祈りを捧げ続ける

でもやはり大事なのはからし種一粒の信仰だということですけど、信仰って言ってる場合はほとんど福音書の中では、祈りということに置き換えられる言葉ですけど、やっぱり私達が本当に祈りの心を持って自分の弱さから抜け出していけるように、本当の癒しがあるように、からし種一粒の祈りを私達が捧げ続けるならば、私達が少しずつ変えられていきますし、自分自身もそうですし、関わっている人々も、その小さな私達の祈りを捧げることによってこそ、それはなぜかって言ったら、やはり癒しにしろ救いにしろ、神の恵みだからですね人間の力で、作ることができないものですから。

私達が本当に祈りの心を持って、自分と周りの人と家族とそして周りに弱い人々ですよね。苦しんでいる人々に対して、祈りの心を接する祈りの心で接するからこそ何か特別な神の力が働いてくることもあると思いますね。それは全く人間の力を超えていますから私達がその神の恵みの力に信頼してですね、その祈りの心を持って歩めるように、だからこそ私達はこうやって集まって祈りを捧げる中で、癒しと解放で救いの力が必要な人々に働くようにですね、心を合わせて祈りを捧げ、そして主の力が本当に働くようにその恵みを願いたいと思います。

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