説教ライブ

【ミサ説教】ルカ福音書2章1-14節「『しるし』は交わりによって『しるし』となる」

hanafusafukuin

ルカ福音書2章1-14節「『しるし』は交わりによって『しるし』となる」2024年12月24日主の降誕夜半のミサ六甲カトリック教会

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

  • 羊飼いに告げられた救い主の「しるし」は「飼い葉桶に寝かされている赤ちゃん」でした
  • 私たちの日常生活で神様から与えられている「しるし」はなんでしょうか?
  • 「しるし」はむしろ困難や難しさの中に隠されていて、人々との交わりによって「しるし」とわかるようになる
  • 今年の秋に亡くなった六甲教会の信徒さんのエピソードから

みなさまクリスマスおめでとうございます!

福音朗読 ルカ福音書2章1-14節

1そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
2これは、キリニゥスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
3人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
4ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
5身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
6ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
7初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
8その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
9すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
10天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
13すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
14「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」

『しるし』は交わりによって『しるし』となる

イエス様が泊まりになるのはベツレヘム、しかも宿屋に泊まる場所がなかったので、イエス様はやむなくこの馬小屋でお生まれになったわけですね。そのときに馬小屋に呼ばれた人たちが羊飼いだったというわけです。羊飼いたちが多分ちょっと離れた30分ぐらい離れてですね、30分から1時間ぐらい離れた野原で野宿をしていてそこで天使が現れて、生まれたばかりのイエス様を訪問するっていうんすかね、拝みに行くように天使が告げるわけですけど、そのときに救い主が生まれたしるし、メシアのしるしは何かっていうと、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子だと。これがしるしだというふうに天使は言うわけです。

ここにも実際一応飼い葉桶のような形でイエス様がねているわけですが、なんと小さなしるしっていうかですね、救い主がメシアが生まれるにはあまりにみすぼらしるしというか、あまりにも慎ましい、とてもとても、ちょっと救い主が誕生するにふさわしくないような、そういう本当に小さなしるし、貧しくて小さなしるしだったわけですね。

でも、地上の上ではそのような小さなしるしだったんですけど、でもこのしるしだと言った途端、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美していった。いと高きところには栄光神にあれ、地には平和み心にかなう人に、と、先ほど一緒に歌ったですねこの賛歌、グロリア言うんですけどそれをですね、天の大軍が、合唱団みたいな形でこの羊飼いたちだけに、この天上の音楽というか、荘厳に示されたんですね。どんな音楽でどのような歌声だったのかということが昔からずっと興味はあるんですけれども、でも地上においては極々小さな印なんですが、でもそれは天国から見たら、神様や天使たちから見たらどれほど大きな神の恵みと、どれほど大きな賛美と神様を称える大きな大きな恵みだったのか。

小さな「しるし」の大きな恵み

でも地上的にはごくごく小さなしるしなわけですよね。でもそのしるしの本当の大きな恵みを知ったのは、この羊飼いたちだけであるというですね、そのギャップが非常に不思議な気がしています。でもよくよく考えたら、やっぱり私達の生活は日常の地上の生活ですから極々小さなものしか実際はないわけで、天上の音が聞こえるようなことはほぼないんですけどでも、私達が日常の生活の中で与えられている神様からのこのしるしをしっかり見出すことができるならば、そこに私達は神様の大きな恵み、あるいは神様の大きな希望を私達は見出せるんじゃないかというふうに思います。

クリスマスは年末なので、皆さんがですね、この1年間、日常の生活の中でどのような神様からのしるしを自分がいただいたのか、そのときははっきりわからなくても、今思い起こしてみたら、あのときに神様の恵みや力あるいは希望が働いていたと思えるような、そういうしるしを何か思い起こすことができたら、それは大きな何て言うんですかね恵みじゃないかというふうに思います。

ある信者さんが「しるし」となったエピソード

自分もちょっとそれを振り返ってみていくつかあるんですが一つは、この秋口にですね、この教会で1人の方の葬儀をしたらですけど、その方は元々はカトリック信者ではなかったんですけど、でもミッションスクールを卒業した方なんですが、若い頃はわりとバリバリ働いてたんですけど、突然ですね、けつまずいたりいろいろするようになって、それで調べてみたら、いわゆるALSっていうんですかね。あの筋肉がだんだんと弱っていって、寝たきりになっていく、筋肉が萎縮していく病気だということがわかって、だんだん弱ってって、それでもう何年も何年もの闘病で、もう最後はもうほぼ寝たきりで、最後ほとんど何にも動かせないで、瞬きだけなんですよね。瞬きも最後はできなくなるんですけど、瞬きで何とかコミュニケーションをとることが後半の彼女の人生はほとんど寝たきりででも特に同じ学校の卒業生たちが、ずっと彼女支援というか、ずっと応援してたんですよね。

結局彼女は病気になってから洗礼を受けたんですけどね。でも洗礼を受けてから、この教会に来てミサに与ったのが1回か2回ぐらい。もう寝たきりで動けないので、洗礼を受けてから教会に来たのが1回2回ぐらいしかないんですが、でもそれでも、どんどん寝たきりで何もできなくなるんですが、その友達たちが必死に応援して支援をしてですね、逆に友達たちが寝たきりの彼女にものすごく励まされてですね、励ますつもりが、彼女からすごい励まされて、その友達がどんどん洗礼を受けてですね、彼女が亡くなるときには友達ほぼ全員みんな洗礼を受けてたんですよ。

それで彼女はこの秋に亡くなってたんですけれども、でもやっぱり彼女の寝たきりの姿がやっぱり神様の大きなしるしだったなっていうことをつくづく思うんですよね。他から見たら病気になって寝たきりになってるだけなんですけれども、お友達から見たら、結局寝たきりの友達から信仰の力ってのか、神様の恵みをいただく。そのような体験をするので友達たちは次から次へと、この洗礼を受けていく。そこに神様の力や恵みを見出していかれたからですね。やっぱりそのようなしるしがやっぱり私達時々与えられるものじゃないかなと思うんですね。

このイエス様が誕生したときに、メシアのしるし、救い主のしるしだとわかったのは羊飼いたちだけなんですよね。宿屋に泊まってた人たちは誰もわからなかったし、赤ん坊が生まれるんだから、僕はこの飼い葉桶に寝かせるぐらいだったら、宿屋の女将さんか何かがですねいわゆる桶に産湯ですかね、この温かいお湯をね、普通だったら生まれてきた赤ちゃんの体をずっとそのような桶で産湯ができたらよかろうものなのに、それすらないんですよね。

飼い葉桶に寝てたってことは、つまりもうただの厄介者だとみんな思ったから、そこに何のしるしも見出すことができず、その場にいた人たちは全くスルーしたっていうか、しるしじゃなかったんですよね。しるしだったのは、羊飼いたちだけなんですよね。でもなんで羊飼いたちだけが呼ばれたのか。これもすごいはっきりしていて、私にすればですね、羊飼いたちは野宿していたから晩御飯とか、寝るための何か温かい何か毛布とかですね。あるいはちょっと手を洗ったりする水ぐらい持ってたから、結局羊飼いたちの持っていたものが、マリア様とかヨセフ様に必要だったんで、だから羊飼いたちだけが呼ばれた。

でも羊飼いたちにすれば、赤ちゃんを見た途端ですね、もうこれはもう大変だと思って持ってるものをみんなわかちあって、今度それでヨセフ様とマリア様とイエス様は何とか一夜を過ごすことができた。それは赤ちゃんのことだから、それで何かしなきゃならないとか、何て言うんですかね気持ちを動かされて、そこで親切にしたりなんかするから、しるしになったってことなんですよね。他の人たちにとっては何のしるしにもならなかったんですよね。

「しるし」は交わりを通して恵みとなる

私達がしるしを見出すとしたら日常生活で、私達の周りにいるものに関心を持ったり、気にかけたり、この人たちを大切にしなきゃならないとか、そういう気持ちが動いてくるときにこそ、あるいは何かそこで交わりがあるからこそ、それが神のしるしになって、そのしるしを通して神様に触れて、恵みを見いだしたり、希望を見出したりすることができるということだと思いますね。

私達は今日イエス様の誕生、このしるしをお祝いしておりますけれども、私達も日常生活でしるしを見いだしてしるしを通して神様を賛美する。そのようなことが、私達ができるならば、しるしはもう本当に小さなものですよ。特別なことじゃない。本当にちょっとした困難とか難しさとか、そういうものがあるときに、そういうところにこそ、新たな神の恵みが現れてくるしるしを私達が見出すことができる。その恵みが与えられてるということですね。私達の周りに無関心とかね、いろんなことがいっぱいありますが、でも無関心にならざるを得ない家族の問題もあるかもしれない。友達の何か嬉しいことや、実際赤ちゃんが生まれるとか子育てとかそういうことは全て神様の大きなしるしが隠されてるということですね。そのしるしをしっかりみつけながら、場合によっては私達自身が神の恵のしるしになるかもしれない。自分自身その方がいいですね。

そのような恵みをこのクリスマスのお祝いの中で大切にしましょう。ごくごく小さな私達がまごころを持って関わっていく中のそのしるしのそこに私達は神様の希望や恵みや力がやはり与えられると思います。クリスマスのこの喜びメッセージ恵みをしっかり受け止めてですね、このクリスマスの恵みを生きてていけるように神様恵みと力を願いましょう。

記事URLをコピーしました