【ミサ説教】ヨハネ福音書2章1-11節「水を汲む」
ヨハネ福音書2章1-11節「水を汲む」2025年1月19日年間第2主日ミサ六甲カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ
- イエス様は人間を用いて奇跡を行います
- その人間の業はごく小さなことで「水を汲む」ようなことです
- 「水を汲む」ことを人々とともに行い続けることで神の業が現れるのではないでしょうか
釜ヶ崎のエキュメニカルな協働についてはhttps://tabijinosato.org/friends/
福音朗読 ヨハネ福音書2章1-11節
1〔そのとき、〕ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
2イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
3ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
4イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
5しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
6そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
7イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
8イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
9世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、
10言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
11イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
水を汲む
今日の福音書はヨハネの2章ですね。ヨハネの福音書の最初のイエス様のしるし、この奇跡的な行いをされたわけですね。結婚式というおめでたい場の中での話ですがその中で、このブドウ酒がなくなりかけたと。多分男性たちがちょっと飲みすぎたっていうか。でも最後にですね、ラビが何回か結婚式の中で祝福するんですが、実際最後の最後に、ブドウ酒と一緒に祝福する式があってですね、ブドウ酒が全くなくなったら実は結婚式が終了できないっていうか、実はちょっとそういう問題もあってですね、だから単に座がしらけるだけじゃなしに、ちょっと問題もあったわけですけれども、でもその中で今度、母であるマリア様がイエス様に苦情ですよね、ブドウ酒がなくなったということを伝えるんですが、イエス様はちょっと不思議な答えをするわけですが、それでも、なんか断られてるように見えるんですけど、でもマリア様は召使達にイエスが何か言いつけたらその通りにしろ、というふうに言ってですね、それで結局、イエス様が召使たちに命じて、召使たちは水を甕に入れてですね、それを持ってったら、それがこのブドウ酒に変わっていたというですね。特別な奇跡が行われたという。不思議だけどもある種、おめでたい奇跡の場面であるというふうに思います。
なんか人間が協力してるのは、その召使ということですよね。この、召使いなんですけどギリシャ語では「ディアボロス」ということですね。もっと一般的に言ったら奉仕者という言葉なんですけれども、英語で言ったら「ディーコン」って言ってですね助祭、神父になる前のとか元高、松高松教区にはには終身という人たちがいて、あの特別な役割を担うですねDね、「ディーコン」うのがこの言葉から実は出てるんですけどもこの、この召使いうことの中に、私達がどのようにこの奉仕していくっていうか、何かそれのヒントが与えられるてるような気がします。
実際の問題は、ぶどう酒くなったという大きな問題で、普通だったらたら買いくかどうするかっていうですねすぐ、にはどうもできないですけど、でもイエス様がおが召使に言ったのは水を汲みなさなさい、汲んで持ってきなさいっていうですね、一見すれば何の繋がりもないものですけれども、でもでも召使いたちエスの言う通りにして水を汲んで持ってったからですね。そこでイエス様のこの奇跡が成就するということになるわけですね。
イエス様は度々そうですけれども、ご自分でなさることもあるけれども、こうやって人間の協力の中で、何か不思議な出来事、恵みのときをもたらすということは、やはり何かイエス様らしい、そしてそこに人間の協力が入ってるということなんですよね。
私達が結局すべきことはできる奉仕は何かって言ったら、水を汲んで運ぶっていうですね。ある意味誰でもできそうなことをイエス様が命じておられる。ぶどう酒がなっなった、ぶどう酒をどっかから持ってってきて言われたらそれはちょっと誰でもできないかもしれないけど、水を汲んで運ぶっていうことは、私達にもできる。小さ小さな奉仕を通してイエス様がもっと大きなことをなさっているということなんですよね。
阪神淡路大震災で30周年でいろんな新聞もテレビもいろんな特集が含まれて私もちょっと見てましたけどもう、神戸の震災の一番の問題はこのこの生き埋めったっていう、生き埋めになって火事で、亡くなった方が一番多かったわけですけど、でも助け出された方もたくさんいてですね、しかもその消防士とか警察が助け出した人は全体の20%だけ他の80%はみんな近所の人が助けたんですよね。隣のおばあちゃんが埋まってるからと言って、みんなで集まってきて必死で助け出した人たちが実は80%もちろんみんな助け出せなかったですけど実際、プロの人がやったのは20%だけなんですよね。小さな小さなって言っても、もちろんみんな必死だったですけど、でもそれも言ってみれば、人間のできること、この水を汲んで運んでいくというですね、その小さな奉仕のやっやっぱり重ねのようなものじゃないかなと思うんですよね。
今よりも水を汲むの時間かかるし、今だったら水道ひねればあれですけどそんな簡単ではないので、ちょっとしんどかったことであると思います。どこまで水を汲みに行ったのかちょっとはっきりわからないですけど、それで水をいっぱいにするっていうのも、現代よりは手間がかかって、しかもかなかなり、2ないし3メトテレスのからちょっと1人で運ぶのは、大人で1人で運ぶのはちょっとギリギリかなってぐらいの。
でもそういうですね、何か小さな私達にできることをすることによって、そこからもっと大きな恵みが神の働きで、その後、震災の後、たくさんのボラボランティアが来たり、当然近所の方々が手伝ったりですね、でも実際したことは、水を運ぶようなことでしょう。
若者で元気な若者はがれきを片付けたり整理したり、あるいは女性たち、あるいは主婦の方々は、炊き出しの世話をボランティアもされたし、近所の方もされた方も多いと思いますけれども神戸の震災ではそれほどたくさんまだなかったから、その後は傾聴ボランティアですよね。やっぱり話が話をのが得意な人は、話を聞くことによって、当然もちろんプロの方は、お医者さんとかであればもちろんそこに入って、診察をしたりすることでも一人ひとりできることは、実は実際は水を運ぶレベルですよ実際。
実際ができることっていうなら、自分の立場で、でもそれをみんながすることによって、全体的にもちろん町の復興はもちろん時間かかりますけどその中でやっぱりどれほどの葡のぶどう酒いうか恵みが人々の間に分かち合われたか。特に神戸の震災大きなことであったからこそその後のやっぱり一番感動的なのはその後助け合いの気持ちがみんなに出て、震災直後から5ヶ月間で120万人ぐらいかなすごい数のボランティアが来て、実際やってることはがれきの片付けだったり、炊き出しの世話だったりしてることは僕は極々小さななことですけど、でもみんながそれをすることによって、神様の何か特別な恵みがやっぱり働くということがやっぱりある。
だから私達1人1人が、困難があるかもしれないけれども、それを果たすか果たさないかっていうことで、神力神の力の方がやっぱり全く変わってくるということだと思いますね。
私はちょっとここでいながらちょっと大阪の釜ヶ崎でもちょだけ働いているんですけどキリスト教一致週間がんですけどなか、なかこれが進まないプロテスタントとカトリックと結局日曜日それぞれの教会に行きますからね。結局は特別に集まって、祈りを捧げる、年に1回ぐらいはしましょっていうことで大阪高松高松教区3ヶ所で、今年はありますが、でも、ちょっとなかなかあれですけど。
でも釜ヶ崎ではですね私の施設も入ってますけど、キリキリスト教協友会って、キリスト教の諸派が全部集まって、支援活動をもう30年ぐらいから40年ぐらいずっと一緒にやってるんですけどでも、何か困った人を助けるっていうことを一緒にやる分には、カトリックとプロテスタントとほぼ何の問題もないく。もう、しょっちゅう顔を合わせて一緒にやってますから。でも、それにしてもね、結局は水を汲むというお話なんですよね。一緒に夜周をやったり、炊き出しをやったり、あるいはそのその世話をどうするか。今はすごいネットワークができてますから誰か困った人がいたら、この人どこに送るかとかもうなんなんかすぐにんなことでできるようにですね、今はどんどん発展してきて釜ヶ崎全体のまち作りの問題にも深く関わっていてこれからどのような施設をどうするかっていうことを行政の人たちとか福祉関係者の人たちとかいろんな形で議論を積み重ねていくんですけど、でも一つ一つはもう本当に思いますけど、この水を汲んで運ぶ、しかも一緒に誰かと一緒にってことですよね。
僕も本当にねフねエキュメニズムうことを考えるために、実は一緒に何かするってことの方がずっと意味があるかなっていつも、実は思ってることで、神戸の活動センターで炊き出しをやって、もちろんカトリックが中心ですけど、でもプロテスタントのグループを何何団体も入ってお互い協力してやってるわけですよね。
そういう中で本当にね、できることは置はごくなちょっとした苦労もありますけれども、やっぱり水を汲んで運ぶレベルっていうのが、私達のできることは、それぞれの場でそれぞれの形ででもその中でこそ、やっやっぱりぶどう酒がうまれる。ぶどう酒ってはね、私達はできないことですけど、小さなことを積み重ねることによってこそこのイエス様の大き大きなしるしが現れてくる。そこに私達の希望を聞きながら、今それぞれ置かれてるところで。
神戸の震災も30年前になってあと状況も変わってきて、いろんないろんなことでいろいろ変わっていきますけどでも、今でもでもぶどう酒らないところはあちこちにあるでしょう。いろんな形で大きな問題、エコロジーのことにしても何にしても、もう大きな問題はいっぱいあると思います。ぶどう酒がなくなって、非常に危機的なその中で私達は問題が大きすぎるから、もう何もできないと思うか。でも大きな問題があったとしても、やっぱり神に聞きながら、小さな水を汲むぐらいのことを私達1人1人がするならば、やっぱりそこに神様の大きな恵みがやっぱり働く余地が生まれてくると思いますね。私達1人1人が奉仕者として、やはり神様から言われている小さなことを着実に少しでも誠実に果たしていくことができるように、そしてそのことから生じる大きな恵み神の喜びですけど、それを多くの人と分かち合えるようにですね、恵みを願っていきたいと思います。
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